ベイカー

藤村  「あの~、なんだっけ? あの人。あのCMに出てるさ」


吉川  「わかる。あの人でしょ? ちょっとエラが張ってる」


藤村  「そうそうそうそう。なんて人だっけ?」


吉川  「えっとね。えーと。わかる。わかってはいる」


藤村  「名前が出てこないなー」


吉川  「こういうのあれだ。ベイカーベイカーパラドクスってやつだ」


藤村  「なに?」


吉川  「ベイカーベイカーパラドクス。その人の周辺情報は出てくるのに名前が出てこないってやつだよ」


藤村  「その現象にもちゃんと名前がついてるんだ」


吉川  「ベイカーってパン屋ね。パン屋のベイカーさんという人がいたとして、パン屋だということはすぐに思い出せるんだけど、その人の名前は思い出せない。名前っていう情報は記憶の中でも定着しにくいと言われてるみたい」


藤村  「でベイカーさんが今度近くのイオンにやってくるらしいんだよ?」


吉川  「なんで急に? 誰? ベイカーさんは架空の人物だよ?」


藤村  「ほら、あの。CMに出てるベイカーさん。エラの張ってる」


吉川  「いや、あの人はベイカーさんじゃないよ。違うじゃん、名前がちゃんとあるでしょ。出てこないけど」


藤村  「出て来ない人はベイカーさんなんじゃなかった?」


吉川  「驚くほどなんにも伝わってなかった? 暫定的にベイカーにしようってことじゃないから。名前が出てこない場合の変数としてベイカーを当てはめるって話じゃないよ?」


藤村  「だったらあの人は誰なの?」


吉川  「だからそれはでてこないけど」


藤村  「でも俺とお前は共通の人物を思い浮かべることはできてるよな? だったらもう、その名前は必要ないんじゃない? 仮にベイカーとしても通じてるでしょ?」


吉川  「確かにそうだな。ま、思い出すまではベイカー(仮)として運用していくか。で、あのベイカー(仮)さんがイオンに来るんだ? なんで?」


藤村  「ほら、パンフェアやるからそのゲストで来るらしい」


吉川  「待ってくれよ。だったらベイカー(仮)じゃまずいよ。架空のパン屋のベイカーさんに抵触してるじゃん。すごく紛らわしくなってるよ。あの人はあの人でいいよ」


藤村  「あの人なんて曖昧な言い方じゃ混乱するだろ? お前のお父さんかと思っちゃうし」


吉川  「なんで急に俺の親父が出てきたの? 全く話題に関係ないのに」


藤村  「お前のお父さん変なエピソード満載じゃん。屋根の雪下ろしをしてたらどうにかこうにかなっちゃったとか」


吉川  「ぎっくり腰。なんだよ、どうにかこうにかって」


藤村  「ぎっくり腰だっけ? 違うよ。アレだよ。なんだっけ? ベイカーになったんだろ?」


吉川  「そこもベイカーで凌ぐつもりなの? 万能じゃないぞ」


藤村  「それでお前のベイ母さんがさ、慌ててビックリしちゃって」


吉川  「俺のお母さんはお母さんだよ。ベイ母さんじゃないよ。わかってるんだから無理にベイカーしないでよ」


藤村  「結局全員でベイカーしたって話、最初に聞いた時俺はもうベイカーしたもん」


吉川  「もうなんか全然解わかんなくなってる。言語として伝わってない。ベイカーの指し示す範囲が広すぎる」


藤村  「あれの話だよ。お前の父さんがさ、ライトセイバーで追い詰めながら『私がお前の父だ』って言った時の衝撃」


吉川  「それはダースベイダーだな。ちょっとベイカーに寄せればまかり通ると思った? 俺の父のエピソードじゃないし、俺はルーク・スカイウォーカーでもないよ」


藤村  「なんか固有名詞をベイカーで済ませるのが楽で、ちゃんと思い出すの面倒くさくなってきたな」


吉川  「そもそも固有名詞をベイカーで済ませるって話じゃないんだよ。そんな使い方してる人は世界でお前一人だよ」


ベイカー「ま、いっか」


吉川  「おい! 自分のアイデンティティすら放棄するなよ!」



暗転

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