曇り空の真相


 私は夕食を済ませ、段ボールを持って近所の公園に向かった。どうせ誰にも会わないだろうと部屋着のままである。雨はちょうど止んでいたものの、この前のように突然降られてしまっては困ると、念のため傘を持って家を出た。

 時刻は午後8時を過ぎていた。コンビニで荷物を送り終え、薄暗い道を一人歩く。メルヘンチックな家々の並ぶこの住宅街ではどこからともなく美味しそうなにおいが漂っていて、どの家にもちゃんと人が住んでいて、毎日夜ご飯を食べて、それぞれの生活をしているんだなあ。と当たり前のことを考える。

 

 どこからか虫の声が聞こえる。夜は昼間と違って少し風があるので、その鳴き声にも少し余裕が感じ取れた。曇った夜の空からは人を寄せ付けない異様な不気味さがあるものの、それがまた何か新しい冒険が始まってしまいそうな、そんな予感にさせてくる。

私は地面にあった水たまりをのぞき込んでみる。だがそこにはありきたりな知り尽くした世界しか映っておらず、少し残念な気持ちと当たり前かという気持ちが交差して、私は歩く足を速めて行った。

 

 公園は昼間と違い人もおらず、寂しげな空間となっている。と思いきやザリガニ池の周りには人の姿があった。小寺くんかと思うがそうではなさそうだ。なんとなく気になった私はまだ途中の明日に向けての予習のことなど忘れ、ザリガニ池の方へと向かう。


 その人は70代くらいの普通のおじいさんだった。涼しそうな薄いグレーの甚平を着て、頭には赤色のバンダナを巻いている。どこか懐かしいような感じがした私は、普段は絶対に自分からはすることのない、知らない人に話しかけるという行為をやってのけていた。


「あの、ザリガニに、餌をやっているのですか?」


おじいさんはなにやらいびつな形のものを池の中に投げ込んでいたので、そのことを聞こうと思ったもののあまりに片言な自分の言葉に心底驚く。


「ああ、そうなんですよ。」


おじいさんは突然現れた私に少し戸惑っていたが、すぐさま微笑んでそう返事をしてくれた。


「知っているかい? ザリガニってね、餌を変えると体を青色に変えることが出来るんだよ。細かいことは忘れたけれど、いま私が与えてるじゃがいもとか、魚のアジとかね。おもしろいよ。本当にきれいな青色になるんだ。」


このおじいさんが青っぽいザリガニを育てなた人なのか。

あまりにも呆気なくわかったこと、そしてあまりにも予想外の人物に少したじろぐ。


「えっと、知ってます。なんか、赤い色素を含むか含まないかで変わってくるんですよね。私も細かいことは忘れたけど、ザリガニに詳しい友達がいて。」


「そうだったのか。面白い友達だね。」


「それでですね、あの・・・」


そう喋りだすと、先程までパラパラと気にも留めていなかった雨粒が、突然本気を出してきた。前にもこんなことあったな、とふと思う。私は傘を開き、持ってきていなかった様子のおじいさんにそっと差し出しこう言った。


「あの、そこで少しお話しませんか?」


 そこと言うのは、ザリガニ池の奥にある屋根付きのベンチのことで、三角に集まった屋根には小さな電球が付いている。昔は砂場で泥団子を作ってはこのベンチに並べて眺めていた、思い出の場所だ。


私とおじいさんはベンチに向かい合って座った。何から話そうかとぎこちなく口を開こうとすると、どこか遠くの方を眺めていたおじいさんに先を越されてしまう。


「青いザリガニを育てようと思ったのは、犬がきっかけでね。毎日ではないが、孫と変わりばんこで散歩をしていた。それでその散歩ルートの中にこの公園も含まれていてね。」


さっき話したときは暗くてよくわからなかったが、おじいさんは思った以上に若々しく、けれどしっかりと人生経験を積んだといった感じの力ある目をしていて、私は純粋にかっこいいなと思った。


「ある日のことだ。確かその日も少しだけ雨が降っていた。情けないことに私が散歩をする日は雨が多かったなあ。けれど、ああ、犬の名前はさだはると言ってね、孫がつけたんだ。弟が生まれるなら絶対につけようと思っていた名前らしい。なかなか渋いだろう。まあ当時は小さかったから、特になにも考えていなかったんだろうな。まあそんなある日。あれはいまでもしっかり覚えているよ。あんなさだはる初めてみたからね。それがね、食べようとしたんだ。ザリガニを。」


おじいさんは突然私の方を見て、びっくりするだろう? と笑った。私は素直に頷き、犬ってなんでも食べるんですね。みたいなことを言った。おじいさんは私の答えは特に気にせず、続きを話し出す。


「無我夢中で池の中に首を突っ込んでいたよ。いつもはドジでどんなときでも尻尾を振っているような能天気な子だったから。本当にびっくりしたなあ。そこでどうにかならないものかと考えたんだ。食べていいものかもしれないが、なんとなく危ない気がして、それに何よりも夏休みの子供たちの楽しみを、犬が食べてなくしてしまうかもしれないからね。お散歩ルートを変えようとも思ったが私もさだはるも子どものたくさん集まるこの公園を気に入っているから。孫に相談してみたんだよ。そしたら面白いことを言い出してね。池のザリガニを、全部青い色にすればいいって言うんだ。私は青いザリガニのことなどその時は一つも知らなかったから、孫が何を言っているのかさっぱりわからなかった。どうやら孫の友達が小学生の時、自由研究で青ザリガニを育てたらしくてね、娘はそれを思い出したんだ。」


私はそれを聞いて、そういえば小寺くんも自由研究でとか何とか言ってたなあ。とぼんやりと思った。


「孫はね、さだはるのお散歩には私と同じくらい行っていたけれど、この公園は通ってなかった。それにあまり外で遊ぶような子ではなかったから、ザリガニ池のことをちゃんとわかっていなかったんだよ。孫はね、青くすればきっと、さだはるには見えないだろうと言うんだよ。池の水に化けて、姿が見えにくくなるだろうとね。池の水が濁っているのを知らずに、青空の写った真っ青な池を想像していた。それを聞いたとき、もちろん実現は不可能だと思ったけれど、面白いと思ったんだ。それでね、年老いた男の好奇心で、何十年かぶりにザリガニ釣りをして、家に持ち帰った。けれどあまり上手くいかなくて、二匹だけね。」


悪戯好きの子どものような顔をして二匹を表すピースをする。


「しばらくすると、一匹はとても綺麗な青色になってね。本当に驚いた。美しかったよ。ザリガニのことを綺麗だとか、美しいとか思う日が来ると思わなかった。けれどもう一匹の方は色は変わっていたけれど、まだグレーに近いような色でね。二匹とも綺麗な青色に育ててやろうと思った。そうなった暁には、家の庭で水をためて、本当にさだはるから見えなくなってしまうんじゃないか、と試してみようとも思っていた。けれどその時にはザリガニたちにも愛着が湧いていたから。実践はしなかっただろうな。」


それから一息置いて、小さな声で呟く。


「それに、出来なかった。」


おじいさんは寂しげな顔をして、斜め下の方を見た。


「さだはるはね、夜のお散歩も好きだったんだ。暗くなって視界が悪くなるからあまり良くないとか思っていたんだが、私が散歩に行こうとすると、悲しそうにこっちを見るんだよ。はは、私はさだはるに甘いと孫によく言われていたのだけれど、あの顔をされると逆らえないね。ついつい甘やかしてしまう。」


おじいさんは笑っていた。けれど目には涙が見えたような気がして、私はどうしたらいいのか、何も言えない自分に腹が立った。


「ちなみにさだはるにはお散歩前に何かしら餌をあげてみたんだ。そうしたらお腹いっぱいでザリガニを食べようとなんてしなくなった。もう池に返したけれど、広い池から狭い場所へと突然連れていかれて、ザリガニたちには悪いことをしたなあ。」


私はおじいさん声をかけようと思ったが、うまく言葉が出ない。言いたいことを頭の中で必死にまとめようとする。


「初めて会ったのに、長く話してしまったね。申し訳ない。もう夜も遅いし、お家の人も心配しているだろう。」


私は言いたいことがまとまらないまま、下手な日本語で話し出した。


「あの、その青いザリガニなんですけど。私のクラスメイトが釣ったんです。ザリガニに詳しい子です。その、私そのクラスメイトとはあまり親しくなくて、逆にあまり好きじゃなかったというか、向こうもあまり私に興味のない感じで、全然話したことなかったんですけど、それがきっかけで話すようになって、変な子だなあとは思ったけど、新たな一面を知れたというか。向こうはどう思てるのかわからないけど、だからその嬉しくて。全部おじいさんのおかげです。ありがとうございました。」


私は恥ずかしくなって、素早く頭を下げた。するとおじいさんの小さく笑う声が聞こえ、


「きっとそのクラスメイトも、同じ気持ちだと思いますよ。」


と言ってくれた。だが私は正直どうだろうかと思った。まだ謎の多い小寺くん。何を考えているのかさっぱりわからない。けれど少なくとも私のこの夏の思い出の一つに、小寺くんも含まれることは間違いないのだ。彼もそうだといいな、と少し思う。


「あの私、初めて会った気がしなくて。いやきっと初めてなんですけど、なんというか懐かしいような感じがして。気持ち悪いですよね。こんなの。でも、だからたくさんお話を聞けてよかったです。」


「ああ。それなら、もしかすると初めてではないかもしれないね。」


おじいさんは立ち上がると遠くの方を眺めて言った。


「私、この公園の近所で豆腐を売っていて。豆腐だけじゃなくて、豆乳とかも。」


「豆乳! 一杯五十円の。」


「やっぱりお客さんでしたか。嬉しいね。こんな若い人に飲んでもらえていたなんて。」


「あの、もう閉店するって。」


「そうなんだよ。もうちょっと続けたかったけれど、こればかりは仕方がないね。さあ、雨もとっくに止んだ。もう夜も遅いしお家の人も心配しているだろう。帰った方がいい。」


そういうとおじいさんはまたもやにっこりと微笑んだ。そのそばでは愛犬のさだはるが尻尾を振って嬉しそうにおじいさんを見ているような気がした。


 私はまた一人夜の空の下を歩きだす。ちなみにおじいさんには、ザリガニを青く育てるのは体に悪いことだ。などとは言わなかった。ザリガニには悪いが、きっとあのザリガニオタクが、また元に戻してくれるから大丈夫だと、そう思った。


空には星が光っていて、そういえば、と昔の記憶を辿る。本当か嘘かはわからないが、昔誰かが星の光る夜の次の日は晴れるとかなんとか言っていたのを思い出した。


明日はもしかすると、晴れるのかもしれない。


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