4-残影

 瑠璃の絵の一件があってから、妻は以前に増して家を開けるようになった。

 その日も朝から出かける支度をしていた。

「じゃあセミナーに行ってくるわね、2人ともお留守番お願いね。沙耶、本当に一緒に行かないの?」

「……うん、宿題あるし」

 妻が家を出ていった後、瑠璃は言った。

「お姉ちゃん、もうセミいないよ?」

 沙耶は一瞬不思議そうな顔をしてから吹き出して言った。

「ふふ、セミナーってのはね、授業のことだよ」

「ふぅん」

 瑠璃はわかっているような、いないような返事を返した。

 それから2人はそれぞれ宿題をしたり絵本を読んで家の中で過ごしていた。

「おねーちゃん」

「何?」

 瑠璃は何やら沙耶に耳打ちをしていた。

 休日のゆっくりとした時間が、家の中に流れていた。


 正午になる頃、玄関のドアがガチャリと開く音がした。母親が帰ってきたのだ。

「ただいまー」

「おかえりお母さん、お昼ごはんは……」

「教導様がお見えになられたわよ」

 沙耶は母親の隣に立っていた金髪男を見て言葉を失った。 

「今日セミナーに来れなかった分、二人ともしっかり勉強しましょう」

 そう告げた金髪男の口の端が引き上がった。

 抵抗すれば叩かれる。そう恐怖したようで、二人は促されるままに畳の上で正座をした。

 だというのに、しぶしぶといった沙耶たちの姿が気に入らなかったのか男は

「なんですかその反抗的な目は、子どもらしくない」

 と鞄から出した冊子をバンッと音を立てて乱暴に座卓に置いた。

 二人はびくっと肩を震わせた。


 前の時と同じように私の中にエネルギーが満ちる。今こそ修行の成果を見せるときだ。

 私は手始めに奴が出した冊子を鞄にしまい直した。 

 その場にいた3人が全員キツネにつままれたような顔をした。そりゃひとりでに宙を舞って鞄に入る冊子を見たら誰だってそうなる。

「ば……ばかな」 

 そんな悪役のお決まりのようなセリフを言って、金髪男は冊子を再び机に置いた。

 今度は冊子を金髪の上に置こうとしたが、奴はそれを手で振り払って

「悪魔の子! 悪魔の子です! ヒャー! この子たちは悪魔だぁ!」

 とか、わけのわからないことをのたまって慌てて部屋を飛び出して行ってしまった。

 部屋や廊下の壁にぶつかる激しい音を立てながら金髪男がいなくなった後、母親が和室に入ってきて言った。

「あなたたち……教導様に何をしたの?」

 妻の顔は青ざめていた。

 沙耶が今起こったことをうまく説明しようと口をパクパクしていると、瑠璃が先に言った。

「お父さんが守ってくれたの」

 予想していなかった名前が出てきたからか、妻はぎょっとした顔をした。

「お父さんのことは言っちゃダメって言ったでしょう!」

「だって」

「だってじゃないの!」

 声を荒げる妻に、壺の後ろに隠れていた写真立てを持ってきた。

 妻からすれば、写真立てが浮遊して自分の目の前に来たことになる。

 妻に存在を知らせたかったわけじゃないが、自分のせいで瑠璃が怒られるのを見ていられなかった。

 写真立てを見てしばらく固まっていた妻の目尻から静かに涙が流れた。

「あなた……? 死んでしまったの?」

 私は反応を返せなかった。そもそも自分が死んだのかどうかもわからなかったからだ。

 ただ妻は、忘れようとしていた夫の存在を目の当たりにして、打ちのめされたような顔をしていた。

 それ以降、妻はあの男を連れてくることは無くなった。

 

 それからは3人が生活の中で、少しずつそれぞれ私の存在を意識するようになった。

「おとーさん、お絵かき一緒にしよー」と瑠璃にクレヨンを渡されて描いたり、沙耶に「ピアノ弾くから聞いててね」と言われたり。妻の周りには誰もいないのに「チャンネル変えるね」と気を遣われるようになり、ある時は家族4人でトランプをしたりもした。

 私を気持ち悪がることはなく、むしろ姿形のない父親の存在をそれぞれが受け入れているようでもあった。


 そんな奇妙な4人家族の生活を続けて数週間が経ったある日。

 テレビでジブリ映画を見終わった娘たちが寝た後、妻はリビングにいた私に話しかけてきた。

「あなた、そこにいるの? どうしてもお願いしたいことがあるの」

 と言って机に鉛筆とメモ用紙を置いた。

「あなたの名前、ここに書いてほしいの」

 私は自分の名前を書いた。

 過去の記憶には無かったけれど、この家にくる郵便物の宛て名で自分の名前は知っていた。

「そう……そうなのね」

 と妻は、ほっとしたような顔で頷いた。


 ある休日の朝、母親は久しぶりに家を空けて出て行った。

 電話を受けて何やら神妙な顔をして、急いで家を出て行った。

 そして結局、夕方頃に何事もなかったように家に帰ってきた。


 その2週間後のことだった。

 退院してきた”私”が車いすに乗って家の玄関にいた。

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