2-残懐

 大型の台風が過ぎ去って、朝夕に吹く風がひんやりとするようになった。

 その頃、母親は家の内装に似つかわしくない妙なデザインの壺や仏像が飾ることがあった。それは写真立てや瑠璃の描いた絵の前に置いてあることもあった。


 母親はあの病院に行った日以降、以前のように瑠璃や沙耶の話を笑顔で聞くことは無くなり、何を言っても虚ろな目で「うん」と適当な返事を返すだけだった。むしろ返事をしないことさえあった。沙耶はなんとなくその理由を察していたようだったけれど、瑠璃はいつも元気に母親に話しかけては、その反応の薄さにがっかりして打ちのめされた顔をしていた。

 休日に沙耶に留守番を任せて1人で数時間ふらっとでかけることも珍しくなくなっていた。


 ある日、母親が見たことのない男を連れて家に帰ってきた。

 スーツ姿に似つかわしくない金髪で、細身でいつもにこにこと笑っている男だった。

 そのちょっと不気味な雰囲気が娘たちを緊張させていたのは言うまでもない。

「こんにちは、おじょうさんたち」

 男は笑顔を崩さないまま挨拶をした。

 瑠璃は何も言わずにさっと和室に隠れて襖を閉めた。

「あらあら、瑠璃ったら」

 その様子に注意したりしない母親のよそ行きの高い声が妙に気持ち悪かった。

「沙耶、こちらは教導様よ」

「キョウドウさん?」

 橋道さんか、京藤さんか、そんな感じの発音だった。

 パンッと乾いたような音がした。

 沙耶の首は左に少し曲がっていて、何が起こったのかわからない不思議そうな顔をしていた。

「教導”様"です」

 男が、沙耶の頬を叩いた後の手を挙げたまま訂正した。まるで当たり前のことをしたかのように、その表情はにこにことしたままだった。

 沙耶はやっと何が起こったかを確かめるように自分の頬にゆっくりと手を当てた。

 その驚きと困惑の混じった表情を見た時、”私”の中に熱のような何かが湧き上げてくるのがわかった。魂の底から、感情が、エネルギーが、大きく動くのがわかった。

「今日はね、あなたと瑠璃に神様の素晴らしさを知ってもらおうと思うの。教導様が分かりやすく教えてくださるわ。信じて従ってさえいれば、立派になれるのよ」

 母親はそう言った。

 ”私”のエネルギーはだんだん大きくなっていった。

 それはやがて『この子たちを守らなくてはならない』という明確な形の使命感になった。

 その時、やっと自分が何者なのかが明確になった気がした。

 ”私”は、まちがいない、この子たちの父親だ。


『この家から出て行け!』

 私は金髪男に力の限り叫んだ。だが叫びは空気を震わせられない。

 いくら力を込めて押し戻そうとしても、殴ろうとしても、金髪男は和室に隠れている瑠璃を追いかけ、腕を捕まえた手を放さなかった。

 いくら怨念を込めた気持ちを送ろうとしても、二人を和室に正座させて、神様とやらについて話をする男の表情は変わらなかった。

 いくら正座をしている二人を抱きしめても、恐怖と理不尽さに埋め尽くされているその表情を変えることはできなかった。

 娘たちが足が痺れて正座を崩しただけで頭を叩かれていても、にこにこする母親をすがるように見ている二人を、私はどうすることもできなかった。

 私は全くの無力だった。

 唯一できたことは、机の上に置いてあった沙耶の短くなった鉛筆を5ミリほど動かして落としたことだけだった。


 金髪男の話は2時間以上に及んだ。

 話の内容はちぐはぐで、理解など到底できるものではなかった。とにかくどこかに神様がいて、いつか天変地異みたいなことが起きるから、信じていたら救われるという内容を言葉を変えて繰り返しているだけだった。

 やっと金髪男が出て行ったあと、玄関のドアが閉まるのと同時に二人は畳の上に仰向けに転がった。足が痺れて動けなかったのだろう。

 玄関で見送りを終わって帰ってきた母親が二人に言った。

「二人とも何寝っ転がってるの? 教導様、お忙しいのにまたここに来てくださるって言っていたわ」

 それを聞いて二人はことばの本当の意味を探すように数秒固まった。

 そして起こした上半身を震わせて、絞り出すように沙耶は言った。

「こんなの……おかしいよ」

「おかしいって、何が?」

「……全部だよ。神様なんているわけないじゃん!」

 沙耶はそう叫びながら涙を流していた。その心の底には、一体どれだけの伝えきれないことばを抱えているのだろうか。

 母親は一瞬だけ眉間にしわをよせた後、あの金髪男と同じようなにこにこした笑顔を作った。

「沙耶、心配しなくても大丈夫よ、教導様にたくさん世の中のこと教えてもらって、もっと賢くなりなさい。きっと幸せになれるわ」

 

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