ハッピーエンドなエピローグ
園長
1-残留
人生のハッピーエンドとは何か。
例えば病院で子や孫に暖かく見送られながら静かに息を引き取るとか。
いつも通りの生活の中で眠ったように穏やかに老衰するとか。
愛すべき人を守って映画のようにかっこよく最後を迎えることも、あるいはそうかもしれない。
ではハッピーエンドの反対とは何か。
それは、終わらないということだ。
その日も私は、娘たちが家を出ていくのを無言で見送った。
別に無視していたわけではない。自分はことばが発せられない霊体だからだ。
私が意識を持ったのは今から半年前のことだった。
まだ水たまりに氷が張っていて、道を歩く人影が皆白い息を吐いていた頃。
テレビの電源が突然入ったかのように、気がつくと私はしんと静まり返ったこの家のリビングにいた。
その時はまだ自分がどこからきたのか、あるいは誰なのかすら分からなくて、ぼんやりとした意識が浮遊しているだけだった。ただ唯一、家の中にはどこかしら懐かしさのようなものを感じていた。その薄っすらとした感覚だけが自分と世界との繋がりだった。
それから何ヶ月か、時間の流れるままに家の中の様子を俯瞰していると、だんだんと自分が何者なのかということを思い知ることになった。
この家は、郊外にあるアパートの一室で、母親と娘2人が住んでいる。
母親はいつも太陽が顔を出す前に起きていた。弁当を作りって洗濯物を干し、上の娘を小学校に見送ってから、下の娘を自転車に乗せて幼稚園に連れて行く。介護職員として夕方まで働き、娘たちを連れて家に帰ってきて、晩御飯の準備をし、2人が入浴しているうちに洗い物をして洗濯を畳み、静音モードで洗濯機を回し、娘たちを寝かしつける。その後もノートパソコンを開いて仕事をしながら寝ている日もあった。それが彼女の日課だった。
彼女の生活は多忙を極めていたが、何をしているときでも不機嫌になることはなかった。いつも部屋が明るいうちはまるで疲れなどないかのように振る舞っていた。髪に多少艶が無くなっても、目の下に少しクマができても、娘たちがその日の出来事を話すのを楽しげに聞いたり、冗談を言いながら笑っていた。
ところが2人が寝静まった後は、いつもリビングで充電が切れたロボットのような、暗い目をしていた。
娘たちを不安にさせないように声を殺して泣いていることもあった。
下の娘は5歳で瑠璃、上の娘は8歳で沙耶といった。2人とも、誰に似たのかよく笑う子たちだった。
お姉さんの沙耶はよく瑠璃の面倒をみていた、一緒にお風呂に入ったり着替えの手伝いをよくしていた。母親を手伝って食器を並べたり洗濯物を取り入れたりしていて、年齢よりもしっかりとした印象の子だった。
瑠璃も母親や沙耶の言うことをよく聞く子だった。ただ、たまにおねしょをした。うつむいて涙を溜めながら瑠璃が着替えている横で沙耶が防水シーツを水につけているのを何度か見る機会があった。
少し前まではおねしょは無かったようで、母親は心配していた。
なぜなら瑠璃は不安そうな声で「おとーさん、いつ帰ってくる?」と母親に尋ねることが頻繁にあったからだ。
そんな時、母親は一瞬浮かべた泣きそうな顔を笑顔に変えて「そうね、お父さんも瑠璃に会いたいはずだから、きっともうすぐ帰ってくるよ」と、かつて父親がそうしていたかのように決まって頭を優しく撫でた。「もーすぐ?」と尋ね返してくる瑠璃に「そうよ」と少し困った顔で頷いていた。
例年よりも短い夏休みが始まった頃のこと。
瑠璃はどこかへ遊びに行くらしく、ワンピースにリュックを背負って迎えに来た祖母らしき人物と一緒に出かけていった。それを見送った後、沙耶と母親は一緒に出かけていった。
いつもならにぎやかな日曜日の午後が、その日はとても静かだった。
先に帰ってきたのは沙耶と母親だった。2人とも深刻そうな顔をして家の中に入ってきた。
手を洗って、リビングの椅子に座る。その間、一言も会話はなかった。
「お父さん、何か夢でも見てるのかな」
沙耶がそう言って沈黙を破ったが、母親は「さぁ、どうかしらねー」と空虚な顔で返事をしただけだった。
沙耶は心配そうな、不安そうな顔を浮かべていた。
その後も何度か口を開けたけれど、母にかける言葉は何も出てこなかったようだった。
その夜、母親は誰かと電話で話していた。
「もう意識が戻らない可能性があるって」
母親は感情のない声で電話越しの相手に伝えていた。
スピーカーの向こうからは母親を心配するような声が聞こえていた。
話の内容はこうだ。
交通事故で意識不明になった夫がもう意識が戻らなくなって6ヶ月が経つ。以前は医師から「意識が戻る可能性も高い」と言われていたが、今日は「今後6ヶ月間で意識が戻らない場合は、いわゆる植物状態ということになる」と言われ、その可能性は決して低くはないと伝えられたと。
今まで娘2人をつれて頑張ってきたのは、きっと夫が帰ってくるだろうという見通しがあったからだ。多少無理をしてでも頑張っていれば近いうちに状況が変わると思うことができていた。
でも今日、夫が永遠に帰って来ないかもしれないという現実をつきつけられた。
一体何が悪かったのか、これから自分や娘たちはどうなってしまうのか、お金や、仕事は、家は、どうなってしまうんだろう、という不安に押しつぶされそうになっているのだろう。
それまで描いていた未来の計画が一気に塗り替わり、今まで頑張ってきた緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。
あるいは父親が帰ってくれば状況は変わるかもしれない。
だが”私”はこの家の様子をただ見つめているだけだった。
もしかすると”私”はこの家の父親なのかもしれない、とも思った。
でもその実感が全くなかった。
遠くの病院にいるという自分の肉体に戻りたいという気持ちもなかった。
そもそも、この家から出ることは何故か”私”の魂が拒んでいるようだった。
この暑い時期、いつもは和室に布団を敷いて3人で並んで寝ているのだが、この夜、母親は布団には入らなかった。
タンスの上にある写真立てにはテーマパークの門の前で仲の良さそうな4人家族が笑っている。
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