第49話 浄化

 リディはグリフから降りるとニケたちの元へと近寄る。

 近くにはケルベの大きい前足に踏みつけられたキドナがいる。キドナは赤い瞳でリディを睨みつけながら、うめき声を上げている。


 アイシスはすぐ側にいるケルベを見上げて唖然としていた。ケルベもグリフもバジルもアイシスが初めて見る強大な魔獣だった。そんな魔獣が至近距離にいるという事実にアイシスは身動きが取れなくなっていた。


「アイシス、ニケ大丈夫か?」


 リディはアイシスの下へと駆けつけ、キドナに切り裂かれたアイシスの服を確認すると、自身が身につけていた外套をアイシスに被せる。


「まったく、ひどいことを……」


 それから、アイシスの体の様子も確認するが、特に怪我などはなくリディはほっと胸をなでおろした。


「リ、リディ、あの……魔獣が……」


 これだけ近くに魔獣がいるのに、リディはまるで彼らが存在していないように無警戒に振る舞っている。アイシスが震える指で魔獣を指差し、リディに警戒を促すのは自然なことだった。


「ん? あぁ、ケルベたちは仲間だ。怖がらなくていい」


 アイシスにそれだけ言うとリディは『少し離れたところへ』と言ってアイシスを遠ざける。そして、ケルベの足元にいるキドナへと目を向けた。


「がああああ!!」


 キドナはケルベの前足に踏まれながら、吠え声を上げてもがいている。


「本当に魔獣だな……」


 キドナの様子を見てリディがつぶやく。暗い炎のような赤い瞳に、理性を失ったかのような振る舞い、それはリディが今まで見てきた魔獣の姿を思い起こさせた。


 なにより、ルナークで見た瘴気のようなものが、キドナの全身から溢れ出ているのがリディの目には見えた。ルナークの瘴気よりも色濃く、禍々しくキドナを覆っている。


「いつまでもケルベに踏んでいてもらうわけにも行かないし、どうにか暴れるコイツを捕縛せねばならないのだが」


 もやは人の言葉を理解しているとも思えないキドナに言うことを聞かせるのは難しいし、かといって捕縛するためのロープなども持ってきていない。

 そうなると強制的に気絶させるしかない。こういうときに相手を眠らせる魔法などが使えると便利なのだが、あいにくリディは使えない。

 仕方なく雷の魔法で気絶させようかと考えた時だった。


「ねぇ、その首の……」

「ん? 首のってこのペンダントか……って光ってる?」


 ニケに指をさされて首元を見ると、以前アサイクの町で商人にもらったペンダントがぼんやりと淡く光っていた。


「ちょっとそれ貸して」

「あぁ、別にいいが……」


 リディが首紐に手をかけてペンダントを外そうとした時、突然ドンッという爆発音が辺りに響き渡った。

 リディとニケが音のした方を振り向くと、キドナがケルベの足元から抜け出し、剣を構えるところだった。その様子を見てリディも剣を構える。


 ケルベの足元の地面が大きくえぐれている。キドナは火球を地面に向かって放ち、自身へのダメージ覚悟で地面に穴を開けてケルベの足元から脱出していた。


「ああああああ!」


 キドナは理性を伴わない咆哮を上げ、赤い瞳でリディたちを睨みつける。

 そして大きく腰を落とし強く地面を踏み込むと、一瞬の加速でリディ目がけて飛んできた。


 ガキイィンと辺りに鈍い金属音が響き渡る、キドナが突進から思い切り振り下ろした剣をリディが受け止める。しかし、その勢いは殺しきれずリディは足を地面に滑らせながら後退する。キドナはそのままリディを追いかけ剣を何度も振り下ろし、リディを後ろへと追い込んでいく。

 キドナの膨れ上がった力は魔力だけではなく、膂力も大きく上がっている。理性があるようには見えないが、体に染み付いているまっとうな剣技を振るうキドナに対してリディは受け切るので精一杯になっていた。


(くそっ、一撃一撃が重い!)


 リディはキドナの力を受け流すように、正面からは受けずに流れるように剣を動かしていく。しかし、キドナの力は強く、うまく受け流していても徐々に押し込まれていく。


 キドナは剣を横薙ぎに大振りし、剣で受けたリディを吹き飛ばす。リディは空中で体勢を整え着地するが、その瞬間目がけてキドナは火球を放ってきた。


 リディは着地の瞬間にステップを踏んで、火球を即座に躱し、火球はリディのすぐ右横を通り過ぎていく。火球が掠った服の右袖が少し焦げた。しかし、安心するまもなく火球を追うようにしてキドナは追撃を仕掛けてくる。火球の通り過ぎていったリディの右側から剣を振りおろし、リディはそれも剣で受けるが、キドナの剣撃は重く、力で劣るリディは押し込まれる。


 踏ん張りを効かせるため左足を下げた時だった。足元の木の根に引っかかり、リディは体勢を崩した。


(しまっ、誘導されたか!?)


 正面に剣を振り上げるキドナが見える。しかし、体のバランスが崩れたリディは剣を構えることが出来ない。重心が崩れ、なすすべなく腰が地面に落ちていく。


 キドナの剣を前に死を覚悟したその時、リディの世界から音が消えた。リディの周りを流れる時間がゆっくりになり、周りに見えるものをはっきりと知覚することが出来た。


 視界の奥、森の木々の一本からゆっくりと落ちる木の葉が見えた。


 上空には小さな虫を追いかけ懸命に羽ばたく鳥が見えた。


 キドナの背後には今にも悲鳴を上げそうなアイシス。そして、視界の端では珍しく驚いた表情を見せるニケ。


 死を目の前にしてゆっくりと流れるリディの時間。その間、リディは周囲の状況を詳細に知覚することができた。


(なんだニケ、何に驚いている。私がヘマをして斬られそうなことか? ――それとも)


「ああああ!死ねぇええ!!」


 振り下ろされるキドナの剣がゆっくりとリディに向かって近づいてくる。

 自身の経験からわかる。体勢が崩れた今、リディはこの剣を受けることはできない。

 アイシスは受け入れがたい現実に目を背ける。ニケの援護も間に合わない。

 振り下ろされれば、リディは死ぬことになるだろう。しかし――。


(ケルベが私を助けてくれたことか?)


 キドナの剣はリディには届かなかった。途中で割って入った巨大な影、それがキドナに噛み付いたのだ。


 キドナはそのまま地面に組み伏せられ、噛みつかれた腕から血が流れる。

 リディは崩れた体勢のまま尻もちをついた。そして、大きく息を吐いて自分がまだ生きていることを実感する。


 その様子を見てすぐに動いたのはニケだった。


「リディそれ貸して!」


 ニケはリディの元へと駆け寄ると、リディの返事を聞く間もなくリディのペンダントを強引に取っていった。

 そしてケルベの前足に押さえつけられているキドナの下へと行く。時間をかけると再び逃げられるかもしれない。ニケは急ぎつつも冷静に集中していった。


 ニケはぼんやりと光っているペンダントを両手に包むと魔力を込め始める。

 やがてペンダントは輝きを増し、光がニケの両手から溢れ出す。そしてその輝きが頂点に達した時、ニケはペンダントをキドナの体に押し付け、そこにさらなる魔力を注ぎ込んだ。


 キドナに押し付けられたペンダントから直視できないほどの光が溢れ出す。

 そして光に包まれたキドナは声にならない咆哮を上げ、やがてその体からは力が抜け、ぐったりとしてそのまま動かなくなった。

 激しく輝いていたペンダントもキドナの様子に合わせるように、やがて光を失う。

 ペンダントが輝きを失い、キドナが動かなくなったのを見て、ケルベはキドナに乗せていた前足を地面に下ろした。


 ニケはケルベの頭の一つを両手で掴み、ワシャワシャと顔の皮を動かす。ケルベは少し煩わしそうにするが、されるがままになっていた。

 ニケはワシャワシャ動かしていた手を止めると、ケルベの顔をじっと見る。そして頭をひと撫でしてからリディの下へと戻ってきた。


「……間にあった、のかな?」

「あぁ、ケルベとニケのおかげで助かった」

「ちがう、そっちじゃない……けど、リディが無事でよかった。うん」

「ん?」


 ニケはリディから取っていったペンダントをリディに返すと『あとの二人はよろしく』と言って立ち去ろうとしたので、リディが肩を掴んで止める。


「今のキドナに憑いていた瘴気を払ったよな。このペンダントにそんな力があるって知ってたのか?」

「ううん、知らない。でも、そのペンダント、あの瘴気の気配があるところでいつも光ってたから、もしらしたらと思って……」


 そうしたら上手くいった、ということだった。

 ヒジカのときも、初めてキドナに会ったときも、ルナークに近づいた時もペンダントはぼんやりと光っていた。このペンダントは瘴気、すなわち濃い魔素に反応し、ぼんやりとした光を灯していた。

 そして、ルナークではリディの近くにいると、瘴気の影響が小さかったことから、ニケはこのペンダントに魔素を祓う力があると考えていた。


「これにそんな力が……」


 ニケから返してもらったペンダントをリディは目の前に翳して見る。

 残るキドナの部下2名に反応しているのか、ニケの言うように、一度は光を失ったペンダントが今は再びぼんやりと青く光っていた。露店で見たときも思ったが、こうしてじっと見ていると吸い込まれるような魅力を感じる不思議な石だ。


 ニケがやったことの見様見真似で、リディがペンダントに魔力を注ぎ込むと、キドナのときと同じようにペンダントが輝く。そして、グリフとバジルに組み伏せられたキドナの部下2名にペンダントの力を使うと、キドナと同じように意識を失い、それに呼応するようにペンダントも光を失った。この場の魔素が失われたということの証左だった。

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