第2話 第4位の『死』

 目の前には、『三大魔獣』の一角『赤豹』がいる。その事実だけで気を失うものがどれほどいるだろう。高さだけで己の二倍を優に超え、奥行きはその高さよりもはるかに奥。


 全身は真っ赤な血の赤に染まり、ところどころに黒い斑点が散らばっている。足は血で赤黒くなっていて元の色がわからないが、その鋭さは語るまでもないだろう。


「————」


 娘と妻を逃がし、自らはそれを助けるために一人で魔獣のもとへ向かう。誰がみてもそれは、何ら自殺と変わりはしない。

それは男自身でもわかっていた。力、スピード、その他諸々、戦いという名において男には平均少し上程度の力しかない。


 今までに、力のあるものが集まって討伐隊が組まれたことが何度かある。この魔獣を、『赤豹』を、人類の外敵を、捻り潰すために。その結果がどうなったのかは、今現在目の前にいるそれを見れば明らかだった。


 力があるものが集まって、それでも倒せないような強敵だ。それに対して力の無いものがタイマンを張ったところで、負ける以外に何があるのか。いや、それだけではない。


 ——この戦いにおいて敗者は、負けた時点で『死』を意味するのだ。


「————」


 勝ち目、ゼロ。頭を使って、勝てる相手じゃない。たとえあったとしても、この魔獣の前には焼け石に水だ。


 死ぬのは怖いし、死にたくもない。どんな人でもそう思っているだろうし、男だってそう思っている。死にたくない、でも戦わないといけない。また家族に会いたい、それでも勝ってからでしか帰れない。


 八方塞がりだ。戦わなければいけない状況で、その戦いの結果は目に見えている。死にたくないと願っているのに、その時は刻一刻と迫ってきている。嫌だ、死にたくない、また家族に会いたい。そう思い、そう願い、それでもそれは叶わないと分かっている。

 しかし——、


「……約束、守れそうにねぇなあ」


 男は、別れ際に妻からもらった髪留めを手に取り、そう呟く。——そして、その顔には笑顔が浮かんでいた。


「約束は、守れないかもしれない。——でも」


 髪留めをポケットに戻し、男は想いを馳せる。


 ここから魔獣を通せば、すぐに二人を殺しに行くだろう。愛しい妻と、愛らしい娘を。それだけは絶対にさせない。そう、決めたのだ。


「——俺が必ず、お前たちを助けてやる」


『赤豹』がこちらに気づく。魔獣はその巨大な体をこちらに向け、戦闘の構えに入る。

 男と魔獣の視線が交差し、お互いの感情が共有される。


 魔獣はその本能のままに男を殺戮するため。そして男は大事なものを守るため。


 二人の想いが共鳴し、より一層殺伐とした空気へと変貌していく。あと少し、なにかの合図があればこの戦いは幕を開けるだろう。勝敗の決まった、この勝負が。


 男は負け犬。目の前には死の香り。それでも男は笑みを浮かべ、叫んだ。


「おら、こいよ。今の俺は、なんたって最強な気分だぜ……」


「————」


「きてみろや……クソ魔獣が!!」


 その瞬間、『赤豹』の足が地を蹴るのが見えた。ただ、それ以降は見えなかった。


 左前足が右横腹をえぐり、肉が、血が、命が、飛び出ていく感覚がある。

 痛みなど感じない。痛みよりは快感だ。その快感があることは、『死』への近道だとすぐにわかる。


 一瞬で致命傷を与えても、攻撃の手は止まらない。

 通り過ぎる時、右後ろ足で相手の足を持っていく。快感。振り向きざまに反対の足で腹を強打。快感。最後、頭を振り下ろし、凶暴な牙で頭を噛み砕く。


 ——快感すら無いこれは、『死』へと誘ったということか。


「————」


『赤豹』は男の後ろで堂々と立つ。勝者の権利として、その姿の倒れるところを見たいのだろう。たとえ一体の魔獣とはいえ、この時間はとても幸福な時間だった。強いものは弱いものを見下し、そしてその優越感に浸る。とても素晴らしい感覚だった。


 男は一瞬にして、正常な体から血塗れの生き死体へと変貌した。『死』までのカウントダウンはゼロを超え、男は限界を超えてまで『生』に挑む。あと少し、ほんのあと一瞬で、男はすぐに死んでしまうだろう。


 攻防はコンマ数秒の間で行われた。一瞬も攻撃は見えず、ただ『死』を望んでいた男は何をしたかったのか。


 勝つことは無理だと、最初から分かってはいたが、これほどまでに圧倒的だったとは思えなかったのだろう。男は少しの驚きと、『死』への道を歩いていることに、少し寂しさを感じている。

 それでも、自分の仕事を果たせたことには、一抹の達成感を覚えていた。


「……娘と妻を逃がして、自らが犠牲になる」


 命からがら、身体中から血の滴る男は何を考えるのか。『死』を目前として何を望むのか。最後の一言に何を言いたいのか。


 男は、愛しの家族のことに想いを寄せた。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 突如、平和な村に訪れた『赤豹』の出現。速さと力で、この世界から大量の命を奪っている『三大魔獣』の中の『赤豹』。

 たとえ人並み以上の力があるものでもやすやすと命を奪えるほどに力があるのは、村の住人の死を見れば、明らかなほどに明確だった。


 家族三人で逃げながら、少なからずとも自分たちも皆殺しにあうのはわかりきったこと。

 誰かが助けなくてはならない。この愛しい妻と、可愛らしい娘のために。


 ——あんなものから助けてあげるなんて、自分にできるのだろうか。


 力はない。頭もない。たとえあったとしても、この状況から立ち直るなんてことは到底無理だ。そんなことはわかりきっている。絶対にあの魔獣には勝てない、勝ち目もない。


 それでも、この二人の家族は助けてあげたい。守ってあげたい。また、あの笑顔が見てみたい。


『あなたが、好きです』


 ——もう一度、笑って、二人を、抱きしめてあげたい。


「お前たちは、先に逃げてくれ」


 決断は一瞬のうちに行われた。


 二人は戸惑い、躊躇い、何を言っているのかと、絶対に行ってはいけないと、離れたくないと、そう言って止めてくれる。まだ幼い娘でさえ危険だとわかっているこの状況で、『先に行け』というのはどういうことなのか。

 そういったこと全ては、自分自身でわかっていた。止まれば死。立ち向かうなんてことは投身自殺となんら変わりない。


 それでも、これはしなくてはならないことだ。二人を守るためには、誰かがあの魔獣を倒さなくてはならない。

 必然的にその行為が『死』に繋がろうが、それだけのことをしなくては、この二人を守れない。


『……どうしても行くの?』


 男は頷く。それだけの覚悟は、もう決まっていた。


 妻は自らの髪留めを外し、男に手渡す。それがどういう意味なのか、男はすぐにわかった。絶対にまた戻ってこいと、そういう意味だ。


 この世界はとても理不尽なことが多かった。絶対無理だということも悠々とやってきて、今『赤豹』がいることもその中の一つだ。ありえないくらいが普通なこの世界、とてもじゃないが生きるので精一杯というのが当たり前の感覚だった。

 その中でも男は恵まれている方に分類されるだろう。右も左もわからず、さらに腕を切り落とされた状況から助けてくれたあの友人がいなければ、男はそのまま死んでいたのだから。


 真っ暗な中、差し伸べられた手にただついていっただけのだらしない男だ。その手についていって少し景色は明るくなったが、それでもまだまだ暗がりのまま時が過ぎていった。

 前を見ない人間に何ができる。顔を下げているものに何ができる。ただ誰かの下にいるだけのものに何ができる。


 周りは全て真っ暗で、先の見えない恐怖。男にしかわからない、あのかけがえのない大切な時間を共に過ごしたものが消えた悲しみ。

 思い出は消えて無くなり、涙も全て流れ落ち、明日も今も、いつ死ぬかもわからないような恐怖に怯え——、


『私があなたを、守ってあげます』


 ——その中で見つけた一番星、だれが手放すものか。


 楽しい時間はたくさん味わった。これからもその時間を続けていきたい。家族三人、明日もその次も、何をして遊ぶのか楽しみだ。

 愛し、愛され、なんといい家族だっただろう。



「あぁほんと——」


 時は進み、男は一瞬で『赤豹』の餌食となった。

 投身自殺と変わらないこの行為は何故行われたのか、それは一人を除いて誰もわからないだろう。謎は謎のまま、埋まろうとしているのだ。


 ただ、男には何も悪気はない。男に起きたあのような出来事も、家族と離れ離れになってしまった今も、男にとってどれほど苦しみを与えているのか。


 それでも男は笑っている。『死』を目前としているにも関わらずだ。一人でいる孤独感——否、心の中の家族と共にいる心地よさ。そして謎の達成感を味わいながら。


 手の中には愛する人の願いが込められた髪留めがあったが、もうその願いは叶わないだろう。そこには少し罪悪感が湧いていたが、それでもあの二人を守れたことはとても嬉しかった。


 男は血まみれの笑顔で、もう会うことのできないあの愛しい家族を思い返しながら——、


「あぁほんと——いい、人生だった!!」


 男に本当の『死』が訪れる。


 ——その時、小さな倒れる音と共にとても大きなものも倒れて、この戦いは幕を閉じた。




 勝者はいなかった。ただ、それだけだった。



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