第34話 藍川真歩

 資料室は奥に細長く伸びている。左右の壁のほとんどが本棚で覆われており、古い本特有の香りが室内を漂っていた。唯一本棚の置かれていない正面の窓から入る光の筋が、宙を舞う埃を晒しあげている。それを見て、若干の息苦しさを覚えるも、それはもちろん錯覚だった。

 部屋の中央には生徒用の机が対面するようにくっつけられて置かれおり、そこだけが資料室らしからぬ様子で景色から浮いている。

 明かりはついておらず、室内は少し薄暗い。

 そんな中で、黒河内は窓際に佇んでいた。

 こちらに背を向け、窓から何かを眺めているようだった。

 常葉がドアを開けたことで、


「誰だ」


 とこちらを振り返ったが、その表情は忽ち驚きに染まった。


「失礼します」

「出て行け。私は今、非常に機嫌が悪い」

「それはできません」

「……なんだと?」


 黒河内の視線が一瞬にして鋭くなる。敵意を露にしているが、常葉は全く怖気づかない。それは隣に立つ藍川も同じで、以前とは打って変わって、黒河内を前にしても取り乱す様子は一切見られない。冷静そのものだった。

 常葉は後ろ手に扉を閉めると、中央に置かれた机まで歩み出た。


「お話があります」


 黒河内は黙ってこちらへ振り返ると、険しい目付きで常葉を見た。そしてゆっくりと歩き、距離を縮めてくる。


「そうか……」黒河内が突然口を開いた。「お前たちだろう。ああ、間違いない。お前たち以外にありえない」

「何がです?」常葉は聞き返す。


 黒河内は中央の机まで近づくと、突如その机にバンッとすごい勢いで両手を叩き付けた。


「あの馬鹿げた動画だ! あれを作ったのはお前たちだろう!?」黒河内が叫んだ。「退学を覚悟しろよ!」


 常葉は動じず、黒河内の目を真っ直ぐに見据える。


「その通りよ」藍川は隣で言う。

「お話と言うのは、その件です」

「……」


 黒河内は机から手を離すと、荒れた息を整えた。

 一応は聞く姿勢をとったと判断した藍川が、常葉よりも一歩前に出た。

 やはり、藍川は冷静だ。取り乱す様子は無い。

 入学式のときとは違うのだ。藍川は変わった。


「あのPV、見たんでしょう?」

「ああ、見た。反吐が出そうだったよ」


 心底気持ち悪そうに、黒河内はそう吐き捨てる。


「だったら、何か気付かなかった?」

「何?」

「あのPVには、実写映像だけじゃなくて、イラストも多く使った。それを見て、何も思わなかったわけ?」

「イラストだと……?」


 黒河内は眉間に皺を寄せる。

 その様子を見て、藍川はポケットからスマホを取り出した。手早く操作を済ませると、画面を横向きにして黒河内に見せ付けた。

 動画を見せているのだろう。

 スマホのスピーカーから音が流れる。常葉から画面は見えないが、今流れているBGMを聞くだけで、どの映像が映っているのか容易に想像できた。


「本当に何も思わない?」藍川は黒河内に訴える。「本当に、見覚えない?」

「見覚えだと……?」黒河内がどんどん薄目になっていく。「……待てよ。いや、まさか……どういうことだ?」

「思い出したかしら」藍川はスマホを下げてポケットにしまう。


 黒河内はスマホから目線を外し、藍川の顔を見た。彼の表情に驚きと焦りが混ざり

始めている。


「この絵柄は……彼の――藍川春樹のものだ」

「ご名答。もし忘れてたら、ぶっ飛ばすところだったけど」

「何故だ……」


 黒河内の声はどこか震えている。


「私の兄は、ご存知の通りだと思うけど、漫画家志望だった。でも父の意志に従って、兄はその夢を諦めた。諦めたけれど、でも絵を描くことは好きだった。それから兄は、SNSで自分で描いたイラストを投稿し始めたの」藍川は一拍置いた。「兄は、私にだけはその活動を教えてくれた。だから、兄がいなくなった後も、密かに更新を続けてた。私が兄の代わりに、兄に成りすまして、ずっと更新してた。その過程で、私も兄と全く同じ絵柄で、イラストを描くことが出来るようになったわけ」

「気色の悪いことをする」黒河内が一蹴する。

「気色が、悪い?」藍川は黒河内を睨みつけた。「どの口が言うわけ? アンタだって、ずっと過去に囚われてるくせに」

「……何を言っている」黒河内は藍川をにらみ返した。

「私はもう、過去のことはさっぱり忘れた。忘れるために、最後の手向けに、このPVを作った。SNSで兄を騙るのも止める。綺麗に忘れて、前に進む。このPVは、その決意表明」

「私にも分かるように言え。会話のレベルが低すぎる」


 常葉は一歩前へ出て、藍川の隣に並んだ。そして懐から取り出したものを、黒河内に見せた。


「何だそれは」黒河内が常葉を睨む。

「盗聴器です」常葉は淡々と告げる。「牧野涼に指導した際の音声が、ここに入ってます」

「何だと!?」


 黒河内は目を見開いて、大きな声を上げた。


「中身を聞いたわ」藍川が隣で言う。「特別授業のときと同じ話をしてたわね。子供の頃、両親から虐待まがいのことを受けてたって」

「それがどうした」黒河内の顔には汗が滲んでいる。

「同じ事を生徒にしたところで、アンタの両親は帰ってこないのよ」

「――っ! 黙れ!」


 黒河内はいきなり叫びだし、足元がふらついたと思うと、机に手を突いて体を支えた。


「兄の真似事をしたって、事態が何も変わらないのと同じ。過去に依存してしまったら、前へ進めなくなる。いつまでも自分を変えられないまま」


 藍川はそう言って、一息ついた。自分の言いたいことを、一旦は全て吐き出すことができたからだった。

 黒河内はよろめく体を支えながら、藍川の目を見て、どこか懐かしむような表情を浮かべた。


「君の兄に指導したとき、何度か絵を見せてもらったことがあった。私はその度に怒ったものだが、けれど確かに、いい絵だった」黒河内の声は落ち着いている。「自分でも何度も話しているように、私も一時は漫画家を目指していたときがあった。その夢はすぐに消えることになったが、それでも多少、私にだって絵を見る目はあったんだ」


 そしてもう一度、「いい絵だった」と言った。


「生きていたら、もしかしたら漫画家になれていたかもしれないな」


 黒河内が放ったその一言に、藍川の体が強張るのを、隣に居る常葉は感じ取った。けれど、常葉の嫌な予感は杞憂に終わり、藍川が声を荒げることは無かった。


「私だって、まさかあんなことになるとは思わなかったさ……。何度も自分を疑ったよ。夢でも見ているのかと思った」黒河内は俯いた。「本当はあの時、一度我に返ったんだ。もうやめようと思った。でも駄目だったんだ。私は両親から受けていた歪んだ愛情に依存していた。それを欲していたんだ。しばらく教師の立場から身を引いたが、中毒にも似たそれは、満たされない時間が続けば続くほど、どんどんと体が欲するようになっていったんだ。そこへやってきたのが、この学校からのオファーだった」黒河内の声は擦れている。「断れるわけが無かった」

「じゃあ、入学者問題のことはあまり気に留めていないんですか?」常葉は尋ねた。

「私がいつも通りにすれば解決できる問題だから、あまり深くは考えてこなかったよ」

「手を退く気はありますか?」


 常葉は包み隠さず、ストレートに訊く。

 黒河内は驚いた表情で常葉を見たが、すぐに無表情に戻り藍川を見た。


「君はそれで満足をするのか?」

「そんなことどうだっていいわ」藍川はぶっきらぼうに言う。「私はもう昔のことはいいのよ。PVを作って、自分の中で整理がついたから。でもね、一之瀬は、まだ何も解決してない。あんなことしておいて、一之瀬に――常葉に何の謝罪もないのは許されない」


 初めて、少しだけだが、藍川が感情的になった。

 その言葉を受けた黒河内は、ゆっくり常葉に視線を向けた。


「取り返しのつかないことをしたと思っている。申し訳ない」


 そう言って、黒河内が頭を下げた。

 今まで想像すらしなかった、黒河内が頭を下げている姿に、常葉は少し狼狽してしまう。

 けれど、すぐに平静を取り戻した。

 その少し髪の薄くなった頭に向かって、常葉は喉を震わせる。


「僕なんかより、会長に謝罪してください。会長が――彼女が一番、どうすればいいか分からなかったはずなんだ。僕なんか自業自得の一言で片付けようと思えば片付けられる。でも、会長は違う。今回の件で一番振り回されていたのは、会長だ」

「ああ――君の言うとおりだ」黒河内は頭を下げたまま話す。「もちろん、彼女に悪気は一切ない。彼女を責めないでやってくれ」

「当たり前だよ、そんなこと」


 黒河内はゆっくりと頭を上げると、再び藍川に視線を向けた。


「……なに?」藍川が怪訝な表情を浮かべる。

「君はどうでもいいと言ったが、それでもやはり、謝罪ぐらいはさせてくれ」黒河内は机から手を離すと、深々と丁寧に頭を下げた。「本当に申し訳なかった」

「ずいぶんと素直ね」

「盗聴器で脅されて、下手なことはいえない」黒河内は顔を上げると、自嘲っぽく微笑む。「それに……もう疲れたんだ」


 常葉は盗聴器をポケットにしまう。


「どうするつもりですか?」

「君たちのPVに乗っかればいいんだろう?」黒河内は常葉を見た。「私が機能しなくなっても入学者問題が解決できるように、あのPVを作ったんだろう。ただ私を盗聴器で脅すだけでは、元の解決にはならないからね」


 黒河内はそういうと、ゆっくりと歩き出し、扉の方へ向かった。


「どこへ行くつもり?」藍川がその背中に声を掛ける。

「いま職員会議をやっている。あのPVについてどうするか話し合う場だ。今から私が、そこで君たちの側に立つ」

「本当にいいんですか?」


 この状況がまるで嘘のような、そんな非現実的な感覚に常葉は陥った。そんな思考から出た言葉だった。

 黒河内は扉に手を掛けたまま振り返り、


「牧野くんには、今後は自分の好きなようにやってくれ、と伝えてくれ」


 常葉を見てそう告げると、ガラガラと扉を開けて廊下へ出て行った。

 藍川と常葉も続いて廊下へ出ると、諏訪が目をまん丸にしながら黒河内の遠ざかる背中を眺めていた。やがて資料室から出てきた二人に気が付くと、興奮した様子で常葉の裾を掴んだ。


「え、ちょっと待ってください、どういう状態ですか? これ」

「夢のような状態、かな」


 常葉は思ったことを呆然と口にした。


「いや、全然分からないです」


 諏訪が隣でさらに困惑している。


「現実よ。間違いなく」


 小さくなった黒河内の背中を見ながら、藍川がそう言った。


「……つまり、どういう状態ですか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る