第25話 諏訪朱音
藍川は急いで荷物を纏めると、脇目も振らず教室を飛び出した。本来ならばクラスメイトの視線が幾つも背中に刺さっていただろうが、今日に限っては皆別のことに気をとられ、藍川にまるで興味を持っていなかった。しかし、仮に数多の視線を向けられたとしても、今更藍川がそれに不快感を覚えるはずもない。もはや慣れきっている。
慣れきっているが、今回の件はどうも慣れそうになかった――気持ちが悪いし、不快だった。
スマホに視線を落として、先ほど送られてきたマップを確認する。
「どこよ、そこ……」
近くに目ぼしいものもなく、どこかの住宅街の一角にピンが刺されたマップを見て、藍川は眉間に皺を寄せた。まだこの町に越してきて間も無いのに、と頭の中で悪態を吐くも、すぐに頭を振って考えを振り払った。
廊下でひしめきあう生徒たちの間を縫うように素早く進み、あっと言う間に人の群れから抜け出すと、少しはしたないことを承知の上で、階段を一段飛ばしで駆け下りた。
昇降口に人はいない。ほとんどが登校を済ませている時間だ。
藍川は自分の下駄箱に向かう。
が、その途中。
視界の端にうっすらと女子生徒が映って、思わず足を止めた。
そこは2‐Fの下駄箱で、常葉のクラスでもあるからだ。
首をそちらへ向けると、一人の女子生徒が開け放った下駄箱の中を見つめながら、ただ呆然と立ち尽くしている様子が確認できた。
彼女は、こちらに気づいた様子はなさそうだ。
本当であれば、こんなことに構っている余裕はないし、暇も無い。
けれど、藍川は今すぐに、彼女へ声を掛けなければならなかった。
なぜなら彼女は、二年生ではなかったからだ。
彼女のスリッパは赤色で、どう見ても新入生であることを物語っていたし、なぜ一年生が二年生の下駄箱に居るのか、不可解だったからだ。それにどこか様子もおかしい。
しかし、そしてなにより――。
藍川はそれを確かめるべく、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄った。
一年生の彼女はよほど下駄箱に気をとられているようで、藍川の存在に全く気付く素振りを見せなかった。
だから、簡単に確認できた。
藍川は背後から彼女の肩にポンと手を置く。
その一年生は「ひゃっ!?」と小さな悲鳴を上げてビクッと体を飛び上がらせると、おそるおそる振り向いて、酷く青ざめた顔で藍川を見た。
「ねえ……」藍川は自慢の鋭い目付きで、彼女の瞳を覗き込んだ。「どうして貴方は、一之瀬の下駄箱の前で突っ立ってるわけ?」
「……え?」
一年生は返答に戸惑っているようだったが、その視線の落ち着きようの無さから、藍川の言ったことが図星であることは間違いようがない。
「貴方、名前は?」
「わ、私ですか?」
「他に誰がいるわけ?」
彼女はまるで昔のことを思い出すかのように「えっと……」と視線を上へ向けて彷徨わせた後、喉を絞り上げて今にも消えそうな擦れた声を出した。
「……諏訪です。諏訪朱音です」
諏訪――と名乗った彼女は、藍川の射止めるような目付きから逃げるように俯いた。
「もう一度聞くわ、諏訪さん。どうして貴方は、一之瀬常葉の下駄箱の前にいるの? 一年生でしょう? 彼の知り合い?」
「ち、違います……」
「じゃあ、なんで?」
「それは……」
諏訪という女子生徒は、今回の騒ぎに乗じているだけのミーハーであると、藍川は確信していた。
「大した理由なんて無いんじゃないの?」
藍川は少し強めに言い放つ。
すると突然、諏訪が顔を上げ、藍川の顔を食い入るように眺め始めた。
「な、なに?」
「もしかして……藍川先輩ですか?」
「え?」藍川は目を丸くする。「どうして分かるの?」
そこまで言って、自分が始業式で随分と目立ったことを思い出した。あの騒ぎで自分の名前が同級生のみならず、下級生にも広まっていたとしても、可笑しな話ではない。
「だったら……いいかも」諏訪がぼそぼそと呟く。
「え? なに? よく聞こえない」
「藍川先輩、聞いてくれますか?」
ずい、と諏訪が距離を詰めてきたせいで、目の前に顔が来る。思わず片足だけ後ずさる。
諏訪は自分よりも少しだけ身長が低いんだなと、どうでもよいことに藍川は気がついた。
「質問してたの私なんだけど」
と、平静を装って強気に出てみるも諏訪の表情に変化はなく、藍川の瞳を真っ直ぐ見つめていた。
「とても、大事なことなんです」
「じゃあ、聞くけれど」
諏訪は一度深く息を吸って、深く息を吐いた。吐く息はどこか震えている。
そして胸に手を置くと、ゆっくりと口を開いた。
「私のせいなんです」
「……何が?」
「私のせいで、常葉先輩がこんな目に遭ってるんです!」
そう声を張ると、諏訪は目尻に涙を浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます