第23話 暴露

 昨夜これでもかと降り注いだ雨は幾つもの水溜りを作り、それらは朝日に照らされながらぼんやりと白い朝空を水面に映し出していた。

 常葉は湿り気の残った黒い道路の上を自転車で漕ぎながら、ぼーっと学校へと向かっていた。

 ペダルを回す足は重い。昨日のことが、気分を下へ下へと引っ張って、沈ませていた。

 普段家の中であまり話す方でもないが、それでもよほど無口だったこともあって、母親にすら心配されるほどだった。

 だったら気分を上げようと思っても、当然ながら簡単な話ではない。

 黒河内の問題に続き、完全に会長と仲違いしてしまった事実は、前者の黒河内の問題から解決をより遠ざけている。

 ただ唯一の救いといえば、藍川がやたらと気遣ってくれることだろう。昨日も帰宅してから、改めて謝罪と、励ましのメッセージが送られてきた。

 始業式の日に受けた藍川の印象とは打って変わって、本来の彼女は随分と他者を大切にする性格らしく、昨日の激昂がそれを証明しているといえる。

 他人の心配もいいけれど、自分のこともちゃんと気にしているのだろうか。

 藍川は始業式のこともあり、全校生徒から奇異の目で見られている。それがずっと続いているのなら、並みの精神力では堪ったものではないだろう。

 執念だけではどうにもならないことだってあるはずだ。

 それはさておき、この問題に共に取り組んでくれる仲間が居る、というだけで、常葉の心は幾ばくか楽になった。

 目の前の横断歩道がちょうど赤信号になったので、止まって地面に足を着いた。少し顔を上がれば、学校がでかでかと視界に入り、周りにはちらほらと他の生徒も見られた。


「……?」


 そこで常葉は、妙な違和感を抱いた。

 辺りを見渡してみる。

 何故だか、こちらに向いている視線が多いような気がする。

 信号待ちの車からは視線を感じない。道行く人からも特に何も無い。

 見ているのは、他の生徒たちか。

 信号が青に変わったので、思考を中断して再びペダルを漕いだ。

 渡ってすぐのところにある校門をくぐり、そのまま駐輪場へ向かう。自転車を降りて鍵を閉め、前カゴに入れておいたカバンを背中に背負った。


「……」


 やはり、視線を感じる。先ほどの比にならないぐらい多くの生徒が常葉を見ていた。理由はまるで分からないが、ともかく教室へ向かわねばならない。

 教室までの道のりは、とにかく視線の嵐だった。加えて常葉を見るなり、隣の友人とひそひそと話す場合が非常に多い。

 小首を傾げるなんて次元を超えて、冷や汗すら浮いてくる。

 自分が、一体何をしでかしたというのだろう。

 開けっ放しの扉から自分の教室へ入ると、誰かが常葉の姿を見つけ、それを他に誰かに伝え、という形で伝播していき、最終的にクラスメイトの約半数が常葉を見ていた。

 まるで、入る教室を間違えたような気分になるが、それは錯覚だ。

 もう何が何だかよく分からない常葉は急ぎ足で自分の机まで向かい、カバンを降ろして席に着いた。一番前の座席であることが、ここに来て良かったと思える。背中に視線は感じるものの、前方は小さな亀裂がちらほら入った壁しか見えないため、直接

「常葉を見ている人物」を見ずに済むのだ。


「何だよ……」


 常葉は小さく呟く。

 どういう状況なのか全く把握できていないことが、徐々に不安を苛立ちへと変えていく。

 ただ、先ほど脳裏をよぎった「自分が一体何をしでかしたのか」という問いについては、最悪の答えが一つだけ想像できる。

 つまり、盗聴がばれた場合だ。

 けれどもしそれが事実なら、既に教師の一人や二人出てこないとおかしな話である。あるいは朝のHR途中に呼び出されるのだろうか。

 その時、ズボンのポケットでスマホが振動した。

 見てみると、藍川からメッセージが送られてきている。アプリを開き、確認する。


『一之瀬って、動画を上げてたりする?』

『してるけど、何で分かったの?』


 突然の質問に戸惑ったが、昨日のことを思い出して、合点がいった。昨日、会長は常葉に盗聴のことで激昂しただけでなく、動画配信活動を隠していたことについても声を荒げていた。「配信活動」と直接口にしたわけではないが、推測はできるかもしれない。

 しかし。

 そんな常葉の予想は、一瞬にして砕かれた。


『ばんぶー、って名前で活動してる?』

『してる』


 そこまで分かるのか。


『活動してること、誰かに話したことはある?』

『ほとんど無いかな。ほぼ誰も知らないはず』


 涼と――会長以外は知らないはずだ。


『だったら、まずいことかも』

『どういうこと?』

『私のクラス、一之瀬がばんぶーって名前で配信してるって話で、持ちきりになってる』

「え?」


 背筋が凍った。

 後ろを振り返ってみる。

 やはり半数のクラスメイトがこちらを見ている。常葉と目が合うと顔を背けて近場の友人とこそこそ話し出す。

 まさか全員が、常葉の活動について知っている……?


「なんで……?」


 何故ばれている? 誰かが漏らしたのか?

 盗聴がばれたわけではない、なんてホッとしてられる状況じゃあまるで無い。

 常葉は助けを求めて無意識に涼の席へ視線を向けたが、そこには誰も座っていなかった。

 涼は始業の数十分前にはいつも教室内に居るはずだ。

 しかし、今は残り数分でHRが始まろうとしている。

 おかしい。涼は今日休みなのだろうか。

 いやそんなことはどうだっていい。

 考えるべきは、今このクラスに常葉の理解者は誰一人としておらず、ほとんど全員が常葉を好奇な目でみる第三者となっていることだ。

 ふと、これが藍川の居る環境なのかと想像する。

 だとすれば、とんでもない苦労をしていることになる。こんな視線の包囲網に、常葉はまるで耐えられる気がしない。

 今すぐ逃げ出したかった。教室から飛び出して、駐輪場へ駆けて、そのまま自転車に跨って自宅へ帰りたかった。

 けれどその前に、確認しなければならないことがある。

 常葉は再び、スマホに視線を落とした。


『大丈夫そう?』


 という藍川からのメッセージに対し、


『大丈夫』


 と返すしかなかった。本当は大丈夫ではない。

 チャットアプリを閉じて動画サイトを開く。一旦周りを見渡して、近くに誰もいないことを確認してから、自分のアカウントの投稿動画欄から、適当な動画を再生する。

 ミュートにしたため音は出ないが、そんなことはどうだっていい。

 問題は、動画に流れるコメントなのだから。


「……っ! そんな……」


 ――身バレ乙wwwwwwwww

 ――これガチで一之瀬?

 ――やば(笑)

 そんなコメントが左から右へと流れていく。

 冷や汗と共に動悸が激しくなる。

 終わったのだ。

 こうなった時点で、このアカウントでの復帰は難しい。

 アカウントを変えなければならないということは、今まで積み上げてきたものが全て無くなったことと同意義だ。

 それにアカウントを変えたところで、声やその他諸々の特徴から簡単に特定されてしまうだろう。

 もう二度と、配信活動は出来ないと考えたほうがいい。


「くそっ……!」


 一体誰が。

 怒りに呑まれそうになるを必死に抑えて、常葉は急ぎ「ばんぶー」名義の全てのアカウントを非公開――いわゆる鍵アカというものに変えていく。

 まずは個人情報のこれ以上の拡散を防がなければならないからだ。

 一通り作業を終えて、常葉は教室を抜け出そうとカバンに手を掛ける。


「ね、ねえ」


 その時、目の前から声を掛けられて、ビクッとした後、常葉は顔を上げた。

 そこには三人の男子生徒が居た。クラスの中でも大人しめの男子たちで――常葉も大人しい部類に入るが――彼らが常葉の机を囲んでいた。


「こ、これってさ、本当に一之瀬くんなの?」


 一人がスマホの画面を向けてくる。そこに常葉の投稿した動画が映し出されていた。おそらく、常葉が非公開設定にする以前から再生されていたものなのだろう。


「お、おお、俺マジで尊敬するっ! 俺もこういうのやってんだけど、全然伸びなくてさ!」


 別の男子が声を上げて、嬉しそうに語った。


「なあ、コ、コツ教えてくんない?」


 最初に話しかけてきたであろう男子が、興奮気味に言う。

 何なのだろう。

 コイツらは、何なのだろう。

 何の義理があって、彼らに何かを話さなくてはいけないのか。

 無性に腹が立ってくる。


「違うから」


 常葉はそう吐き捨ててカバンを背負うと、スタスタと教室を出て昇降口へ向かった。廊下でこれでもかと見られたが、そんな視線なんてもう気にならなかった。

 全てがどうでもいいと思う。

 昇降口で靴を履き替える。

 背後から、


「もう帰るのか」


 と声を掛けられた。

 またか、と思って無視しようと思ったが、声に聞き覚えがあり、常葉は振り返った。

 予想通りの人物が、そこに立っていた。


「……黒河内」

「なぜ帰ろうとしている?」


 黒河内は薄ら笑いと浮かべている。

 ……そうか。


「アンタか……」

「なに?」

「アンタが広めたんだろう」

「ふっ……」黒河内は鼻で笑った。「まさかとは思うが、君の動画の件のことを言っているのか? それで、自分の愚行がバレたのを、私のせいにしていると」

「やっぱり、アンタじゃないか!」


 そんな察しよく話題に気付けるわけがない。


「だったら証拠を出しなさい」黒河内は真剣な目で常葉を見た。「いい加減、諦めたらどうかな。他の先生方も大層悲しんでいたよ。君が特進コースから自分から降りたことで、何か問題を抱えているんじゃないかと心配していた先生方を、見事に裏切って見せたんだからね」

「……僕には関係ない。諦めたりもしない」

「関係ない? 笑わせてくれるね。会長も、とても悲しんでいたよ」


 会長という言葉を聞いて、一瞬カッと頭に血が上ったが、何とか抑え込んだ。血が出そうなほど、拳を握り締めている。

 こんな会話、意味なんて無い。

 常葉は校内用のスリッパを下駄箱に突っ込むと、踵を返して駐輪場へ向かった。

 尚、黒河内が背後から話しかけてくる。


「生徒からは面白がられ、教師からは失望された。いつまで藍川と一緒に居る? 君の名誉は、私に従うこと以外で戻ることは無い。それを覚えておきなさい」


 常葉は無視して歩みを止めることはなかった。

 黒河内もそれ以上何か言ってくることはなく、常葉はそのまま駐輪場へ辿り着き、自転車に跨った。

 校門をくぐると同時に、チャイムが鳴り響いた。

 始業の合図だった。

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