第21話 牧野涼

 残り数分で放課後のチャイムが鳴る。

 教卓に手を突きながら熱心に何か話している担任教師に対して一切の目もくれず、常葉はぼーっと思考を巡らせていた。

 ……もう八日になるのか。

 会長と決別してから、ちょうど八日だ。

 そして、月曜から始めた盗聴は、今日で三日目になる。もう水曜日だ。

 意気揚々と始めたことではあるが、結論から言うと、あまり上手くいっていなかった。もちろん、上手くいかないというのは、結果が出ない、という意味であって、機材の不調だとかそういったことではない。

 黒河内だが、特に悪事を働いている様子も、怪しい動きをする素振りもなかった。少なくとも聞いている限りでは無い。ただ延々と生徒に勉強を教えているだけで、変な話題も出ることはなかった。強いて言えば、進学という目標を生徒に何度も再認識させて、やる気を出させていたことぐらいだろうか。

 結局それくらいで、他に特筆すべきことは何も無かった。

 従って、今日もまた何もなかった場合、一度話し合う必要があるだろうという話を、藍川とした。とは言ったものの、盗聴の以外の方法なんて、簡単には思いつけない。

 悩んでいる間に担任は話を終えたらしく、ちょうどいいタイミングでチャイムが鳴った。

 一気に教室が騒がしくなる。

 常葉もすぐにカバンを背負って席を立つが、重要なことを思い出し、足を止めた。

 そして、涼の方へ視線をやる。

 チャイムが鳴ったにも関わらず席に座り続ける涼は、誰とも話すことなく、なにやら机に置かれたモノに視線を落としているようだ。

 何を見ているのかよく見えないが、少し前、涼が涼らしく無いと思ったあの日から、ずっと変わらずこの調子だった。話しかけてもどこか上の空で、声にも微妙に覇気が無い。

 まるで涼じゃない。別人のようだ。

 ……いや、もう別人なのかもしれない。

 その可能性を考えたくは無かったが、ここまで不自然な変化を見せつけられては、逆に思いつかないほうがおかしい。それ以外に仮説は立たない。

 だから、本当はこんなことはしたくなかったが、もう仕方が無いのだ。

 きっとこれしか方法が無いから。

 常葉はカバンから片側の腕だけ抜いて、右肩のみで背負い、中にしまってあるとある物を強く握った。少しの緊張と共に、常葉は涼のところへ近づいていく。


「涼、何してんの?」

「ん? ああ、常葉か」


 常葉の方を見ないまま、涼は返事を返した。

 何を見ているのかと常葉は机の上に視線をやると、


「えっ……?」思わず、声が漏れた。「涼……それ、何? 何見てるの?」

「何って、そりゃ赤本だよ」涼がようやく顔を上げて、常葉を見た。「一先ず買ってみたんだけど、やっぱ全然わかんねぇな、これ」


 赤本とはもちろん、大学入試の過去問が掲載されている、誰でも知っている、あの本だ。

 額にじわっと汗が滲んだ。脈も少し早くなる。

 常葉は涼に断って表紙を見せてもらった。


「っ!?」


 そこには、東大レベルではないものの、少なくとも常葉も知っている国立大学の名前が堂々と書かれていた。

 涼は再び赤本に視線を戻し、そこに載っている英語の長文問題を見ては、熱心に唸っている。

 ……ああ。

 これはもう、完全に。

 反対を押し切って農家を継ぐとあれだけ言い張っていた涼が、今目の前で赤本を手にして真剣に唸っている。常葉からしてみれば、天変地異に匹敵する出来事だ。

 常葉は縋るような気持ちでさらなる力をバックの中でで握り締めている物へ込めた。

 呼吸を落ち着かせつつ、涼の背後に回って彼の視界から出る。涼は赤本に真剣で、常葉には目もくれなかった。椅子の足元に置かれた涼のエナメルバッグは、やや後ろの位置にあり、これも涼の視界には完全に入っていない。

 常葉はエナメルバッグの側面のポケットに、左手でずっと持っていたものをこっそりと忍ばせた。涼の反応はない。ばれていない。


「そ、それじゃあ、帰るから」


 常葉は緊張で声が震えるのを必死で抑えつつ挨拶をしたが、涼は片手を挙げるだけで、こちらに首も回さないし、何も言わなかった。

 踵を返し、涼に背を向ける。

 背負い直したカバンの帯が、悔しさで力の入った手によってぐしゃぐしゃに潰される。

 奥歯をかみ締めるのをやめ、顔を上げると、ようやく足が動き出した。

 常葉は教室を出て、裏手の森へ急いだ。

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