第17話 不穏

 月曜、時刻はまだ朝七時。常葉は既に制服に着替え、朝食までも済ませていた。自室でカバンの中身を整理する。今日必要な教科書を詰め込んだ後に、脇に置いておいたアクリルケースもカバンの中に突っ込んだ。

 それを背負って自室の明かりを消すと、リズムよく階段を下りる。

 途中リビングの扉を少し開けて、


「じゃあ、行って来る」


 とそれだけ言い放ち、すぐに靴を履き始めた。

 すると急ぎ目に足音が近づいてきて、背後でリビングの扉が開く音が聞こえた。


「ちょっと常葉? 朝ごはんを早くしたいんだったら、これからはもっと早く言うようにしなさい。昨日の夜に急に言われたら、困っちゃうでしょ!」

「ごめんっ!」


 靴を履き終えるなり、常葉は母親の言葉に適当な返しをして玄関の扉を開け放った。

 後ろで母親がまだ何か言っていたが、扉が閉まる直前、微かに「あーもう、行ってらっしゃい」という言葉が最後になり、それ以来何も聞こえなくなった。

 自転車を道路に出し、サドルに跨る。

 ペダルを定位置に持ってきて、一度深呼吸をした。


「……よし」


 足に力を入れて、そのままサドルから腰を浮かし、立ち漕ぎの姿勢に入る。

 最初からトップスピードだ。

 風を切るゴウゴウという音が耳に止め処なく入り、冷たい空気を顔面に満遍なく感じながら、常葉は誰もいない住宅街を駆け抜けた。

 自分だけが自由のような、不思議な感覚。とても心地が良い。

 学校へはあっという間だった。

 息は切れているものの、何故か辛いとは思えない。

 下駄箱で靴を履き替えると、常葉は教室ではなく職員室へ向かった。

 当たり前だが、まだ生徒は誰もいない。常葉だけが生徒として学校に居る。

 職員室の前まで来ると、常葉は音を立てないように慎重に扉をスライドさせ、こっそりと中へ侵入した。いま、職員室には一人しか教師がいない。いつも年配の教師が早朝から一人でいるのを、生徒会の仕事上知っていたし、またその教師の耳が遠いことも常葉は知っていた。

 鍵が幾つもぶら下げられたプレートから一つ鍵を外して握り締めると、職員室からそそくさと退散し、一目散に走り出す。

 階段を一段飛ばしで駆け上った先には、例え教師であっても一部の教師しか訪れない、いわば辺境の教室がある。

 ようやく体の疲労を感じた常葉は、その教室を前にして一旦膝に手をつき、切れた息を整えるために深呼吸を始めた。

 多少落ち着いたところで、右手に視線をやる。握った拳を開くと、ホルダーと繋がっている青い小さなプレートが目に入った。

 真ん中の白い部分には「資料室」と書かれている。

 常葉は体を起こして、目の前の扉にその鍵を差し込み、回そうと試みる。扉も鍵も古いせいか上手く回らず、何度かやってようやく解錠に成功した。

 ガラガラと扉を開けて中に入ると、まず真っ先に古本の香りが鼻腔を刺激した。

 次に埃による息苦しさと、単純な薄暗さ。カーテンが閉まっているのだ。

 常葉は扉を開けてすぐ右手にあった照明のスイッチを入れると、本棚がびっしりと詰まった内装が姿を現した。

 まさに資料室という感じではあったが、一点だけ、少し異質なものもある。

 部屋の中央に、二組の机と椅子が、対面しあうように置かれているのだ。


「本当に、ここなのか……?」


 常葉はそう呟き、中央へ歩いていく。

 黒河内の指導は既に始まっているという涼の話。

 しかし、その指導がどこで行なわれているのかは不明であり、しかも誰が指導を受けているのかすらも分からないらしい。

 そんな中で「資料室って噂があるらしいぞ」と涼が言っていたのを思い出したのだ。

 資料室の人目のつきにくさと、この机の配置は、どうもそれを匂わせる。

 そもそも、どうして指導を隠す必要がある? 

 やはり、何か後ろめたいことがあるからではないのか。

 常葉は中央の二つの机の中を見てみたが、特に何も入っていなかった。

 ここで指導をしていると確定できる証拠はなさそうだが、それでも仕掛ける価値はあるだろう。そう思って、常葉はこの部屋のコンセントを探した。

 本棚と壁の間にある微かな隙間に、コンセントがあるのを発見した。

 常葉は屈み、カバンを開けて中から今朝入れたアクリルケースを取り出した。

 中には三又コンセントと、二つのレコーダーのようなものが入っている。

 それらは昨夜、家の物置から見つけたものだ。その物置と言うのは父親が仕事道具を保管しているところで、とにかくカメラ用品や、精密機械が多い。にも関わらず乱雑に置かれているところがいかにも父親らしいが、常葉はその中から盗聴に使える品を探し出したのである。

 きちんと、父親から許可も貰ってある。チャットでどこか遠い国へいる父親と連絡を取ったのだ。

 ――何に使うか知らんが、妙に面白そうだし、終わったら俺に全部報告をしろ。

 ――ただし、決して犯罪には使わないこと。

 ――そして、母さんには絶対迷惑を掛けないこと。

 それら三つの約束を条件に、常葉はこの道具を借りることを許された。別に黙って借りられることも出来たけれど、もちろん気は進まないし、第一ばれた時の説教が面倒だった。

 とはいえ、父親には心の中で「ごめんなさい」と謝っておく。

 二つ目の犯罪に関わらないというのは、既に守れそうにない。

 常葉は意を決して、アクリルケースの中か三叉コンセントを取り出した。

 これはいわゆるコンセント型の盗聴器だ。コンセントに直接差し込むことで、盗聴の効果を発揮する。加えて直接電源に繋いでいるため、バッテリーの問題は無視できる。

 そして何より、やはりばれにくいという長所が最も優れているだろう。

 ただこれはあくまで集音器であり、実際に内容を聞くには別の機器が必要になる。もちろん、それはアクリルケースの中に既に入っていた。

 常葉はコンセントに盗聴器を差し込むと、ケースを再びカバンに入れて立ち上がった。


「……よし」


 きちんと鍵を閉めて、資料室を後にする。先ほどと同じ要領で、こっそりと職員室にキーを返しておいた。

 教室に戻って、ようやく一息つくことができた。

 潜入スパイ的な、いかにも映画のような行動を実際に取ったのだから、疲れるのも無理はないな、と自分自身で思う。

 机に突っ伏して、ひんやりとした感触を頬で受ける。

 そういえば、と常葉はカバンからスマホを取り出して、SNSを開いた。ここ数日、まともに呟いてすらおらず、配信も同じくやっていない。今まで結構な頻度で呟いていた分、リスナーに余計な心配だったり、ストレスを与えているのは間違いなく、そしてそれはよろしくない。

 常葉は適当に生存報告をした後、しばらくは配信ができそうにない、という旨を発信した。

 黒河内と藍川の件が落ち着くまでは、きっと活動に集中できないからだ。

 生半可な配信はリスナーも自分も楽しめない。だったらいっそ休止し、問題解決に全力を注いだほうが効率がいい。苦渋の決断というよりも、昨日からぼんやりと考えていたことだった。

 少しだけ気が楽になったような気がする。

 常葉は動画サイトを開いて、好きな配信者の動画を再生した。今は教室に一人であるし、わざわざイヤホンをつける必要もないだろう。スピーカーの音量を上げて、筆箱を取り出しそれにスマホを立てかけた。

 やがて、徐々に生徒が登校し始める。

 常葉は存分に楽しんだ頃には、教室にはほとんどの生徒が既に登校済みだった。

 その中には涼の姿もある。

 いつもなら常葉に挨拶をしてくるはずなのに、今日は何も言ってこない。言ってこないまま、涼は自分の席に着いてなにやら考え込んでいる。

 常葉は気になって席を立ち、涼のところへ歩いていく。


「涼、おはよ」

「……おう」

 ぼんやりとした目で視線を上げた涼は、常葉を見た。

「なにしてんの?」

「いやまあ、ちょっと考え事をな……」

「ふーん」常葉は涼の肩に手を置いた。「何か相談があったら乗るからさ、遠慮なく言ってよ」

「おう、ありがとな」


 涼はそう言って笑ったが、いつもの弾けた笑みとは全く違うものだった。無気力で、単純に元気が無い。

 常葉は自分の席に戻って、再び涼へ視線をやる。

 相変わらず、涼は何かを考えているようだった。

 胸の奥から、嫌な予感が湧くようにこみ上げてくる。

 その予感が全部嘘であってほしいと願うことしか、常葉には出来なかった。

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