第14話 特別授業

「そういや、今日の一限目って特別授業なんか?」


 始業まで後五分しかない中、涼が隣に立って話しかけてきた。どうやら、わざわざそれを聞くためだけに来たらしい。


「そうだよ。掲示板に張ってあったけど、見てない?」

「おう、見てねぇ。いまチラッと耳に入ってきたから確かめに来た」

「あそう」

「反応冷たっ」涼は口を開けて笑う。「で、黒河内先生が来るわけか。ちょこっと楽しみ」


 楽しみ? と聞き返そうとして、咄嗟に抑え込んだ。


「そういうこと。そろそろ席に着いていた方がいいんじゃない?」

「……なんかお前、緊張してる?」

「え? 僕が?」常盤は目を丸くした。「いやいや、何で」

「なんだろうな……いつもより顔が険しいというか、何というか……」


 涼はしばらく考え込んだ後「うーん、分かんね」と言って自分の席に戻っていった。その背中が席に着くまで見届けた後、常葉は自分の机に視線を落とした。

 確かに、緊張しているかもしれない。

 そもそも黒河内と対面すること自体が緊張するものだが、今回はそれに加えて観察という行為も加わっている。何か証拠に繋がるものを見つけなければ、という使命感が生まれていた。


「……それがどうした」


 だとしても、やるべきことは、やるだけだ。

 そろそろ始業時間になる。常葉はスマホの電源を切ろうと、カバンの中に手を突っ込んだ。

 スマホを一旦取り出して、画面に視線を落とした。

 昨日から何度押したか分からないチャットアプリをタップする。こんな短期間にここまで開いたのは初だろう。普段はそんなことしないのだ。

 そうして見るのは、会長のアカウント。これも昨日からずっと。

 新着メッセージは無し。

 当たり前だ。分かっている。それでも、気にしてしまう。仕方がない。

 常葉は目を瞑って、覚悟を決めた。

 目蓋を開いて、スマホの電源を落とす。

 カバンにスマホを仕舞うと、ちょうど始業の鐘が鳴った。

 席を立っていた生徒がゾロゾロと自分の机に向かい始める。心なしか皆、そわそわしているように感じる。普段より話し声が多かったし、それには多少の興奮が混ざっているようにも思えた。

 すると、教室の扉がガラガラと開かれた。

 途端に女子の甲高い歓声と、男子の低い驚きの声が響く。


「皆さん、おはよう」


 黒河内が、教室に足を踏み入れた。服装はいつも通りの、黒い背広に赤のネクタイ。その表情は常葉と藍川に向けられたような鋭いものとは打って変わって、いかにも慈愛に満ちた顔だった。

 常葉の目はまだ見ようとしない。黒河内のことだから、このクラスに常葉がいることぐらい知っているだろうし、何なら既に見つけられているはずだ。一番前の席であるし。

 やはり、授業では特に何もしてこないのだろうか。

 そうであれば好都合なのだが……。


「では、挨拶をしようか」


 そう言いながら、黒河内は教卓のところに立つ。

 日直が号令を掛け、起立し、礼をする。黒河内も一緒に頭を下げていた。

 着席の号令が掛かっても、少しざわついているだけで、いきなり黒河内へ話しかける生徒はいなかった。普段カーストのトップにいるような生徒でさえも、である。


「意外と静かなんですね。別に緊張しなくてもいいですよ。すぐに慣れます」


 と、穏やかな声で黒河内が告げる。

 するとそれで自信が湧いたのか、一人の生徒が「今日は何するんですかー」と声を上げた。


「今日は確か、特別授業という名前だったと思うんですけど、別に勉強をするわけではないです。んー、少しをお話をするぐらいですね」黒河内は教室内を見渡した。「皆さんは、勉強は嫌いですか?」


 突然の質問に、先ほど質問した生徒が「え、嫌い」と即答する。クラスに小さな笑いが起こり、黒河内も笑っていた。憎たらしい笑みではなく、優しい笑顔といったらいいだろうか。


「まあ、そうでしょうね。勉強が好きな人はあまりいません。そもそも、この学校では勉強が好きな人はこぞって特進コースにいる可能性もありますね。ええもちろん、ここに居る場合もあるでしょう。けれども皆さんは、勉強が嫌であるにも関わらず、学校に通っている。それは何故ですか? 義務教育は中学校で終わっているのに、わざわざ嫌いな勉強をして、受験をして、高校に入学して、さらに勉強を続けている。それは、一体何故なんでしょうか」


 一気に教室内がざわざわとしだす。「そんなの就職のために決まってんだろ」と言った声や「確かによくわからん」と言った声が聞こえる中、「なんかうぜぇ」という悪態まで常葉の耳に入ってくる。


「ええ、ええ。もちろん分かっています」黒河内は声を張って教室を静かにさせる。「つまりは、将来のためですよね。大方の場合はそうでしょう」


 黒河内は「今日はつまりですね」と言って続けた。


「勉強の重要さについて、皆さんにお話しようと思います」


 それから黒河内は、自分の身の上話をまず話し始めた。

 自分が厳しい家庭に生まれ、いい成績が取れなければ虐待まがいのことを受けていた、という子供時代から始まり、一時期は漫画家を目指していたものの、それを両親に話したところとんでもないお叱りを受けたという。それから真面目に勉強を始め、努力を重ねていった結果が、今の姿になる。

 両親は既に他界しているが、二人には感謝しても仕切れず、その意思や理念のようなものを自分は受け継いでいる。だからこそ、みんなにもそれを実践して欲しい。

 大方、そのようなことを黒河内は言った。

 その後、一拍置いて再び口を開く。


「いいですか、皆さん。学歴社会は崩壊しつつある、というお話はいたるところで聞きますが、それでも、学歴というものはやはり重要です。何故か? それは簡単な話で、学歴は今しか手に入らないからです。最近では通信制の大学などもあるようで、社会人になってからでも大卒資格が取れるそうですが、そんな芸当ができるのは、一部の余裕がある人たちだけでしょう。ですから基本、学歴というのは今しか手に入らない」


 いつの間にか、教室内はしんと静まり返っている。誰もが黒河内の話に耳を傾けていた。

 対して常葉からしてみれば、この黒河内の話は心底どうでもよいというか、そもそもそれを理解した上で学歴を捨てたのが常葉であるから、聞く価値がないものではあった。

 代わりにずっと観察めいたことをしていたが、やはり未だ成果はない。

 焦りだけが着実に募っていく。


「一応私は特進コースの担当ではありますが、やはりあくまで『一応』です。今の話を聞いて、もし頑張ってみようと思った人がいれば、遠慮なく相談してください。いくらでも指導します。私はそのために呼ばれたのですから」黒河内は微笑んだ。「もちろん、現状がどんなに悲惨であっても、真摯に向き合うので、心配は要りませんよ。そんなことしたら、両親に叱られますからね」


 黒河内の話はかなり長く、もう残り数分で授業も終わりを迎えようとしていた。本当は質疑応答の時間をとりたかったらしいが、時間的に不可能ということで、終了ムードが教室内に漂い始める。緊張の糸が一気に緩み、クラス中に吐息が漏れる音が響いた。

 常葉も多少気を緩め、肩の力を抜いて背もたれに身を預けた。結局観察など豪語してみたものの、やはり何も発見は無かった。

 しかし、それもそのはず。

 今の黒河内は、要は「表の黒河内」であるから、ボロが出ないように細心の注意を払っている状態と言えるのだ。もしそれで何か掴めたのであれば黒河内はそこまで強敵でなかったはずだし、そもそもこんな事態にすらなっていないだろう。

 どう考えたって、無理がある作戦だった。ならば次は、気を抜いているところを狙うしかないだろう。

 黒河内にとって気を緩める環境とは、一体どこだろうか。ボロがでやすい状態とは……。


「あ、そういえば」


 突然、黒河内が声を上げた。

 常葉も含め、生徒たちのざわつきが止み、教卓に視線が集まる。


「このクラスに特進コースから辞退した生徒がいると聞いたんですけれど、どなたですか?」


 緩んだ糸が、途端にピンと張る。

 脈が一際大きく跳ねて、拳に力が入った。

 常葉が心の準備を整える間もなく、クラス中の視線が常葉の方へ向けられる。

 本来、特進コースの辞退はここまで他の生徒にばれるものではない。当然、常葉以外にもいるはずである。ただ常葉に限っては別で、去年の生徒会選挙で特進コースだということが大々的に知られており、進級したら普通コースのクラスに居たとなると、それは知られて当然だ、というわけだ。


「えーっと……君は」黒河内はわざとらしく手元の出席表に視線を落とす。「一之瀬……常葉くんかな? 君が特進コースから辞退したってことで、いいのかな? これは」


 ここに来て、仕掛けてきたか。

 常葉はなるべく目を合わせないようにして、しぶしぶ口を開いた。


「……そうです」

「ああ、いえね、別に一之瀬くんを責めようってわけじゃあないんだ。ただ、学力的にはまだまだ復帰が簡単に可能なレベルにあると、私は成績表を見て思ったから。君は職員室でもたまに話題に上がるからね。それで、もし君が今日の話を聞いて、少しでも思うところがあったなら、その、復帰を真剣に検討してみてはどうかな、と」


 常葉はそこで黒河内の目を睨みつけた。


「今のところ、全く考えていません」


 両膝に置かれた拳が、布を引き裂かんばかりに掴んでいる。無意識だ。


「そうか……でも、私は常に歓迎している。考えが変わったら、是非相談してほしい」

「……」


 常葉は黒河内から目を逸らした。

 そこで、チャイムが鳴る。

 手から一気に力が抜けて、ズボンのしわくちゃになった部分がゆっくりと伸びて行った。

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