第10話 対立①
「失礼しまーす……」
日下部弥生は昼休みになると、あらかじめ呼び出されていた生徒会室へ一人で赴いた。
扉を開けた先には、こちらに背を向けた男性が窓際で後ろに手を組みながら立っている。教室の照明がついていないこともあり、逆光のせいでほとんど黒いシルエットだ。
「すまないね、日下部くん。わざわざ呼び出したりしてしまって」
「いえ、大丈夫ですよ、黒河内先生」
貴方からの頼みをそう易々と断れるわけがないだろう、と思う。多くの名声を得ている人物なのだから、別段尊敬している弥生でなくとも、誰だって従うはずだ。
「課題テストの方はどうだい? まあ、君の成績から考えると、今回のテストはあまり難しくはなかっただろうけどね」
「簡単ではなかったですよ。不意打ちのような問題には焦りましたから」
あの子ならきっと簡単だっただろうと、弥生は常葉の顔を思い浮かべた。
「不意打ちか……全くその通りだな」黒河内は不自然に間を空けた。「解けたのならいいさ。焦っただけなら安心だ。問題は、ペンを持つ手が止まった場合だ」
「少しぐらいは間違えているかもしれませんけど……」
「少し、ね。大した自信じゃないか」
「えっと……」
弥生が言葉を詰まらせていると、「おっと」と黒河内が声を上げた。
「いやいや、悪かった」黒河内は体をこちらへ向けた。「私の方から呼んだというのに、危うく脱線が過ぎるところだったね。早速本題に入ろう」
弥生は軽く安心の溜息を吐いた。
椅子に腰掛けるよう黒河内が促したので、彼の対面に座ることにした。長机がロの字に並べられているため、真ん中の空洞が妙な距離を生み出しており、二人だと何だか居心地が悪い。が、相手は黒河内大先生――そんなのたとえ表情にだって出せるわけがない。
「何の話でしょう」
弥生は若干そわそわとしながら訊ねた。もしかしたら少しだけ口角が上がっているかもしれない。
というのも、黒河内が話そうとしている本題について、多少の心当たりがあったからだ。
つまるところ、「一之瀬常葉」の件である。
常葉に何も告げずに、凡そサプライズのような形で黒河内とあわせたのは申し訳ないとは思っているが、多少の反感を買ってでも、彼のためになればいいと思ったのだ。
もし常葉の機嫌を損ねたのであれば、幾らでも頭を下げていいとすら思う。
しかしその件で呼び出されたのだとしたら、わざわざこうして個別に話をする場を設けられる、というのは少し不自然には感じてしまう。だが、それも彼が黒河内にすこぶる気に入られたのであれば、可能性としてはあり得ない話ではない。
ところが、当の黒河内の表情は随分と暗く、重かった。
「今回わざわざ君を呼び出したのは他でもない、昨日相談を受けた、一之瀬くんのことについてだ」黒河内は一度大きく息を吐いた。「単刀直入に言おう。彼は正常じゃない」
「え?」
「始業式で立ち上がった例の彼女を覚えているか?」
「えっと……はい、覚えてますけど」
「彼女はどうやら私に恨みがあるようでな。私を陥れようとしているらしい」
「あ、え? そうなんですか?」
ということは、本当にみんなが言う「ヒステリック」の部分は真実だったのだ。
けれど、それが判明したところで、という話。
「でも、一之瀬くんと何の関係が……?」
「彼はね、その彼女と協力し、同じように私を陥れようとしているのだよ」
「……え?」顔が引き攣るのを自覚する。「先生、冗談を言ってるんですか?」
「冗談なわけがあるか。私は今朝、君に言われたとおり早朝の生徒会室へ向かったさ。けれど、そこで何を見たと思う? 一之瀬くんと、彼女――藍川くんの二人が私の話をしていたのだよ。事実無根の言いがかりをつけ、二人の中で私は悪者らしい。まったく、冤罪もいいところだ」
そんなの嘘だと叫ぶには、黒河内の表情はあまりにも怒りに満ちていた。メディアの中で一度も聞いたことの無い絶妙に低いトーンで、そして早口に捲くし立てるような口調は、彼の理性をそこまで削ぐような出来事だったことを証明しているようなものだった。
「ほ、本当なんですか? その話……」
それでも、そう訊ねずにはいられなかった。
「私がわざわざ君をこうして呼び出し、嘘を吐くとでも?」黒河内の視線は鋭いままだ。「信じたくない気持ちは分からないでもないが、これは紛れもない事実だ」
「……」
弥生の視線は落ちる。机には自分の顔が反射して映っていた。
酷い顔だ。
「そこで、日下部くんに頼みがある」
黒河内が立ち上がって背を向ける。つられて弥生も再び顔を上げた。
「頼み……?」
「しばらく、一之瀬くんと関わるのは禁止だ。会話も、連絡を取るのも控えるように」黒河内は振り向いてこちらを見る。「そして、その上で――」
放課後になっても、弥生の頭の中は昼休みに聞かされた話でいっぱいだった。
――一之瀬常葉が、自分の最も尊敬する人物に敵対している。
この事実は、弥生の動揺を引き出すにはあまりにも十分過ぎた。
彼がどれだけ信用できる人間なのか、半年間、生徒会役員として共に活動を続けてきたからこそ、分かる部分は間違いなくある。
けれど、その積み上げてきた信用の信頼性が、今の弥生の中では揺らぎつつあった。
怒りなのか、悲しみなのか。
自分でもハッキリしない負の感情がずっと内側を渦巻いているのだ。
それがとてもつもなく、この上なく、気持ちが悪かった。
「どうして……一之瀬くん」
人の行き交う廊下を、視線を落としながら朦朧と歩く。
他生徒とぶつかりそうになり顔を上げた。
「あっ」
すると、少し先に、こちらの方へ歩いてきている常葉の姿があった。
突然、糸か何かで縛られたように、全身が緊張で強張る。
大丈夫。きっと、大丈夫。
いつもの彼なら、弥生の顔を見て立ち止まるはずだ。
そして、いつもの調子で話しかけてくるのだ。
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