第08話 対峙

「ど、どうしてここに……」

「昨日の放課後、日下部くんと話す機会があってね。その時に相談を持ちかけられたのだよ。後輩のことが心配だ、とね」

「日下部って、何で貴方が会長と? 後輩のことってなんです?」

「いやいや、後輩というのは君のことだよ、一之瀬くん」黒河内は口を開けて笑った。「今後、生徒会長の力を借りるかもしれないと思ってね、それで昨日、少し話をしたんだ。急に呼び出しを掛けてしまったのは申し訳なかったがね」


 昨日、会長と歩いていた時にあった校内放送を思い出す。

 あれは黒河内の仕業だったのか。


「心配……って、なんです?」

「どうやら君は、特進コースを辞退したそうじゃないか。成績を見させてもらったが、昨年度の冬辺りから、綺麗に右肩下がりになっている。実に勿体無い。会長は、そんな不真面目な君を見て不安になっているそうだ」


 別にサボっているわけじゃない。やりたいことを見つけただけだ。

 何も知らない人にそれを邪魔されるのは、この上なく癪に思う。


「特進コースを担当する貴方には、関係がないことでは?」

「いいや、あるね。日下部くんの相談というのは君の成績不振のことだが、それに加えて一つ頼みごともされてね……」

「頼みごと……?」

「日下部くんは、最近の君は悩みを抱えているのだと予想している。そのせいで成績が落ちるのだとね。自分には話してくれないだろうけれど、きっと私には打ち明けてくれるはずだ、なんてことを日下部くんは言っていたよ。根拠は分からないが」


 きっと昨日、常葉が吐いた嘘を信じているのだろう。黒河内について調べていたと言ったのだから、興味があると思われてもおかしくはないし、加えて会長の妄信ぶりを考えるに、実績を見て常葉が黒河内を信用したのだと思い込む可能性は無いとは言えない。

 あるいは会長自身が、自分は信用されていないと思い込んでいる場合かのどちらかだ。

 確かに後者に関しては、常葉自信、普段の素っ気無い言動を取っている自覚あったから、十分ありえる話だった。


「別に、何もありませんよ。悩みなんて」


 しかしそれはそれとして、本人の前で悩みを言えるわけがない。

 黒河内と言う貴方自身の存在が、悩みを――問題を生んでいるなんて。


「会長が気に掛けている生徒だけあって、確かに優秀ではあったようだが、同時に今は見る影もないというのも、どうやら噂通りのようだな」黒河内の顔から表情が消える。「日下部くんから頼まれ、明日の朝に生徒会の仕事があるから、そのときによければ会ってほしいと言われて、私は今ここにいる」


 黒河内は藍川を見る。

 藍川は体勢も表情も変わりなく、敵意を体現したままだ。


「しかし、まさか生徒会でもない部外者を教室に入れて、こんな馬鹿げた話をしているとは思わなかったよ」

「……忘れたとは、言わせないから」


 藍川が擦れた声で呟いた。何とか怒りを抑え込んでいるみたいだが、先ほどからずっと震えている肩を見る限り、あまり余裕はなさそうだ。


「ああ、覚えているとも。忘れるわけが無い」黒河内は感慨深そうに息を吐いた。「藍川春樹……彼の成長には私でさえ目を見張るものがあった。……本当に残念だったよ」

「お兄ちゃんの名前を気安く呼ぶなっ!」


 藍川が声をあげながら黒河内目がけて突然と距離を詰め始めた。


「藍川さん!」常葉も叫ぶ。


 パシッ……と、寸でのところで振り上げられた手を掴む。ギリギリ後ろから手が届いた。


「離してよ!」

「駄目だ! これはやっちゃいけない!」


 藍川がこれでもかともがく。常葉も離すまいと力を込め、後ろへ引っ張とうと試みる。

 段々と抵抗力が落ちていき、しばらくして藍川はだらんと腕を垂らした。黒河内から少しだけ距離を取らせ、常葉もそこでようやく手を放す。


「冷静になったか? 藍川真歩」


 黒河内がニヤリと笑う。彼は一切動こうしない上、ポケットに手を突っ込んでいた。

 肝が据わっているのか――それとも、あえて殴らせようとしたのか。


「絶対に許さないから!」

「一体それを何度言われたか分からんな。お前はいつもそればかりだ。罰したければまず証拠をもってこいと、私だって何度も言ったはずだ」

「どうせこの学校でも洗脳して口封じするんでしょ!」

「洗脳なんて現実離れしたことを言うものだから、警察も呆れていたのを覚えているよ。そんなこと、私ができるわけがない」黒河内が鼻で笑う。「大体、もしそんなことができるのならば、とっくに君を洗脳して口封じしているはずだろう」

「そんなの……っ! そんなの……」


 藍川の声がしぼんでいく。後ろ姿だけでもかなり疲弊していることが分かった。肩の動きに合わせて、体全体も同じように動いている。呼吸がままならないのかもしれない。


「一之瀬くん。彼女の言葉には耳を貸さないほうがいい。そんなことより……」黒河内は常葉に手を差し出す。「さあ、早く君の悩みとやらを解決しようじゃないか。日下部くんの、生徒会長の願いを無下にするもんじゃあない」


 藍川に向けた表情とは打って変わった、まさに教師といわんばかりの慈しむような表情で、黒河内は言った。

 確かに、藍川の言動は明らかに感情的で、まさに涼が言っていたように、ヒステリックという言葉が似合うと言われても否定できないような、酷い有様だ。

 けれど。

 だからと言って、黒河内の潔白が明らかになったわけでもないのだ。


「黒河内先生」

「なんだ?」

「だったら、見せてください」黒河内の目を真っ直ぐ見据える。「貴方に一切の非が無いというのなら、その証拠を僕らに見せてください。この件に関して、完全に潔白であるという証拠を、提示してみてください」


 再び黒河内からスッと表情が消えていく。差し出された手も下ろされる。


「なるほど……君もそっち側というわけか」黒河内の目付きは鋭い。「成績という結果が最も重要視されるこの世で勉強を捨てた君には、心底理解に苦しむとは思っていたが、まさかここまで訳の分からないヤツだとは思わなかった」


 突然吐き出された毒に、思わず表情が引き攣る。


「言っておくが、この藍川の父親は私を相手取って民事訴訟を起こした。そして何度も審理を重ねたうえで、裁判所はその訴えを棄却した。つまり、司法が私にはなんの落ち度もないと認めたのだ。だからこうやって、私はまだ教職に就いている。それでもなお、君は私の罪の有無を問うのか?」


 ……裁判だって?

 初めて聞いた。けれど、しかし。

 常葉は藍川の前に踊り出て、藍川を守るように片手を広げてみせた。藍川の顔を覗いてみる。視線は虚ろで、少し俯いているが、どこを見ているのか分からない。それに肩も震えている。

 誰がどう見ても正常じゃない。極度の緊張状態だといえる。

 視線を戻し、黒河内を睨みつけた。


「僕は……僕は、きっとまだ、何かあるように思えて仕方がない」


 頭の中で、もう一人の自分が「言うな!」と叫んでいる。それに対し「黙っていろ!」と叫び返す。「後戻りできなくなるぞ!」と、もう一人の自分が、再び声を荒げた。

 ――そんなこと、分かりきっている。

 しかし、自分はそれでいいのか? 

 会長のことは?


「……いいわけ、ないじゃないか」常葉は視線をさらに鋭くさせる。「あなたと対峙しただけで彼女がここまで衰弱するのって、おかしいと思います。とても、不自然だ。先生……そう思いませんか? どうですか? 何か心当たりが、あるんじゃないですか?」


 常葉の言葉を受けた黒河内は、侮蔑の視線をありったけ常葉に浴びせると、


「まあいいさ。君がそういうつもりなら、私だって然るべき対応をとらせてもらう。もう前回のようにはいかん。私に喧嘩を売ったことを後悔するといい」


 そう吐き捨て、ゆったりとした動作で踵を返すと、そのまま廊下へ出て姿を消した。

 常葉は黒河内の背中が見えなくなるまで見届ける。やがて、廊下から妙に響いていた足音さえも無くなるまで、常葉はそのまま動かずにいた。

 そして、一気にしんとする。だが緊張の糸はまだまだ張ったままだ。

 常葉は振り返り、藍川を見た。


「藍川さん」

「……」


 彼女はのろのろとした動作で、やや虚ろな瞳をこちらへ向けた。 


「一先ず、信じてみようと思う、藍川さんの話」

「……え?」藍川は口をポカンと開けた。


 ちょっと間抜けな表情に、常葉は表情が緩む。


「裁判の話が出てきたときはちょっとびっくりしたけどさ……でも、やっぱり、何か隠されているような気がする」

「……」

「だから、その秘密を探ろうと思う」

「……ありがとう」


 藍川は安堵するように小さく呟き、そして微かに口元を緩めた。

 やっと見ることのできた、彼女の笑顔だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る