第07話 事情
「ふぁ~……眠い」
何度目か分からない欠伸をしながら常葉はペダルを漕いで正門をくぐった。周りには人の気配は全くなく、まるで世界に自分だけしかいないような錯覚を覚える。人のいない建造物と言うのは、それだけである種の不気味さを放つものだった。
駐輪場に自転車を止めて、リュックからスマホを取り出して画面を見た。
時刻は七時二十分。まだまだ日が浅く、急に肌寒さが体に纏わり付いてくる。
次いでチャットアプリを開き「会長」のアイコンをタップすると、
「まだ起きてるかな? 実は昨日のダンボールなんだけど、どうやらまだいくつか残りがあったみたい。明日の朝、早めに学校に行って運んでくれると、とっても助かります。今度は廊下に放置しないように」
などというメッセージ(あくまで旨)が表示された。昨夜、突然送られてきたものだ。
言い方にムッとした常葉は既読スルーを実行し、それから一時間が経って「スルーすなっ!」という可愛らしいスタンプが返ってきたのを確認した後、もう一度既読スルーをしたところでこのやりとりは終結している。
とはいえ、既に失態を犯した常葉からしてみれば、とても断れるものではないのも確かだった。
スマホをしまい、自転車にロックを掛ける。
常葉の以外にも、ほんの数台ではあるが自転車が停められていた。きっと、親に送迎してもらっている生徒らが放置しているものが大半だろう。今頃、毎朝電車に揺すられて登校している人間からすれば、さぞかし憤慨ものだろうと思う。
当然ながら誰もいない2‐Fの教室にカバンを置いて、常葉は職員室へ向かった。途中、2‐Cの教室の前を通りかかったところで、くすくすという女子生徒の笑い声が微かに廊下へ漏れており、常葉はつい立ち止まって中を窺った。
二人の女子が一つの机を囲って何かをしているのが見える。彼女らの手には萎れた花が握られており、それが校内にあちこちに生けてあった花で、ちゃんと世話をしていればあんな姿にはならないはずのものだった。
二人は楽しそうに花の茎をバキバキに折り、あろうことかその残骸を囲んでいる机の中へまるで適当に放り込んだ。
「酷いな……」
小さな声で呟き、再び職員室へ向かう。
名前の覚えていない初老の男性教師から鍵を受け取り、そのまま生徒会室へ足を向ける。
渡り廊下を進んで別棟へ。角を右に曲がると、遠くに人が立っているのが見えた。
生徒会室と書かれたプレートの下で壁にもたれていた彼女は、常葉が近づいたことでスマホから視線を上げた。
「随分と早いね、藍川さん。かなり余裕を持ったつもりなんだけど」
「こんな時間に他の生徒と出くわしたくなかったし、それに教室にも寄ってないから」
確かに、藍川の肩にはバッグが掛けられていた。
「唐突な質問で申し訳ないんだけどさ」常葉は鍵を差し込む。「クラスはどこなの?」
「C組だけど」
「やっぱり……」
「やっぱり?」
「あ、いや、なんでもない」
慌てて扉を開けて、生徒会室へ入った。
後ろから藍川の鼻で笑った声が聞こえてくる。
「ほらね。教室にカバンを置いてこなくてよかった」藍川は扉を閉めた。「つまりそういうことでしょ?」
常葉は藍川の表情を見たが、昨日のように取り乱した様子は一切無く、むしろ驚くほど落ち着いているようで、まさに微塵も気にしてない、といった具合だった。
だから、思い切って言ってしまう。
「女子生徒が二人、花の屑を机に突っ込んでたよ」
おそらくトイレかどこかに生けていた花を勝手に持ってきたのだろう。
「そ、ありがと」
「随分と察しがいいんだね」
「昨日の時点でもうそれっぽい予兆があったから、別に驚きはしない」
転校した初日から、そういう扱いとは……。
もちろん原因は分かっているだろうけれど、それを本人が平然と受けて入れている様子にも、多少のショックを受けてしまう。
酷い話だ……と思う。
「……何とも思わないの?」
「昨日の私なら、多分冷静じゃなかったと思うけど、一晩経って、何だか腹を括ったみたい。自分でもびっくりするぐらい、何とも思ってないよ」
藍川はそう、無表情で、平然と言ってのけた。
「……すごいな」
ただならぬ覚悟が、彼女からひしひし伝わってくる。腹を括ったとは言うけれど、これはきっと、そんな甘いものではないはずだ。
冷え切っている――感情の完全冷却だ。
そんな風に理性的になれる人が、虚言癖でもない限り、果たしてあんな嘘が吐けるのか。
「で、早速本題だけど」
藍川のカバンが、ドサっと机に下ろされる。
そう、本題。
なぜ彼女がここにいるのかと言えば、それは他ならぬ常葉が呼び出したからだった。
まだ誰も登校しない朝の時間に生徒会の仕事がある、という環境は、誰かに聞かれたらマズイ話をする、という目的にとって最適だったという話だ。
正直、常葉はチャットか通話で話を聞こうと考えていたのだけど、藍川はあくまでも直接会って話がしたいと言い張ったのだ。
昨日、そのやりとりをしていたところへ、会長のメッセージが飛んできたというわけだ。
しかし藍川の主張も、考えてみれば当然だった。
声を荒げる、あるいは人によっては笑い飛ばされるような話を信じてもらおうとするのだから、文明の利器に頼ってしまうよりも、やはり実際に顔を合わせて信じてもらうとする方が圧倒的に効果的と言える。
むしろ、そんな文明の時代だからこそ効果的、とも言えるのかもしれない。
加えて、黒河内に「影」の部分があるのかどうか、手遅れになる前にハッキリさせたかった常葉にとっても、今回の会長のメッセージはなんとも絶妙なタイミングと言えた。
「じゃあ、僕の今の見解から……」頭の中で話を纏めていく。「まず、お兄さんが自殺されて、その影響で母親にも何かあった。それで、それらの原因が黒河内にある」
「……」藍川は何も言わない。
「そして、そんなことが明るみにならないのは、黒河内がある種マインドコントロールのようなことができて、それによって情報の漏洩が防がれているから……ってことでいい?」
「大体あってるよ」
そう言って藍川がパイプ椅子に腰掛けたので、常葉も適度に離れた席に座った。
「やっぱり問題は、マインドコントロール云々の話だと思う。この辺りのことについて、教えて欲しい」
「せっかくだし、最初から話すよ」藍川は目を瞑って一度深呼吸をした。「少し長くなるけど、ちゃんと聞いてほしい」
それからしばらくの間、藍川は真相を事細かく、ゆっくりと語った。最後まで、ずっと落ち着いた様子で。
つまり、藍川が言うのには、こういうことだった。
去年の出来事だ。
藍川の父親は医者で、長男である兄にそれを継がせようとしていたらしく、兄はそれで毎日のように机へ向かっていた。父親のプレッシャーは本人でない彼女でさえ露骨に感じるほど大きなものだったが、兄はそれをものともせず、弱音も決して吐かなかったそうだ。
元々勉強が得意ではなかった兄ではあるが、父の意向を初めて聞かされた高校入学当初、一切の不満を言わなかったらしい。それどころか、どんどん成績を上げていき、当然目指すことになる医学部への道も、徐々に明るいものになっていった。
それほどに、兄はメンタルが、意志が強かったのだ。
――しかし。
高校三年生になり、本格的に受験勉強を開始したころから、兄の様子が日に日におかしくなっていった。
弱音を決して吐かず常に明るかった兄の顔から、笑顔がみるみる内に消えていったのだ。やがて口数も少なくなり、妹からの呼びかけにも、ほとんど生返事状態だったそうだ。
流石に勉強で疲れたのだと、父親を含め、家族は一旦休むよう兄に言った。それからしばらくは兄の勉強する姿は見られなかったらしいが、元気が戻ることも無かった。
もしかしたらと、兄と同じ高校の新入生だった藍川は、学校側に問題があるのではないかと疑った。
それで兄が黒河内から個別指導を受けていることを知り、密かに調査を始めたのだ。
けれどそこからは、なんとも不気味なことばかりだった。
というのも、黒河内から個別指導を受けている生徒全員が――誰一人として、指導内容を一切語ろうとしなかったのだ。ほんの断片さえもだ。
こうなったら、後は直接問いただすまで。
……そう決意を固めた直後、兄が首を吊ったのだった。突然だった。
あそこまで心の強かった兄が、自殺という手段とったことに、藍川はどうやっても困惑を隠すことができなかった。そんな人ではなかったのだ、兄という人は。
だからこそ、藍川からしてみれば、黒河内に原因があるのは火を見るより明らかだった。
しかし、遺書も何も残されていなかったこともあり、表沙汰にはならなかった――できなかった。
受験生がストレスで自殺……そんなニュースでしかなくなってしまったのだ。
加えて、その日を境に母の様子もおかしくなっていった。
やつれていく速度は兄の変化よりも早く、一瞬にして精神までおかしくなったらしい。
そうして、そんな環境に耐え切れなくなった父親は、入院した母を置いて別の地へ越したのだ。
……一人の娘を連れて。
「だから、今はお父さんと二人暮らし。私としては、悪いのは完全に黒河内だし、お父さんが悪いなんて全然思っていないけどさ……それでもやっぱり、近所の人からは悪者扱いで、お父さん自身も罪悪感があったみたいだから、引っ越すことになって」藍川は苦笑する。「それがまさか、転校先でも黒河内と会うことになるなんて、思うわけないでしょ? ……とまあ、これが全貌――黒河内のせいで起こった家庭崩壊の、全貌」
「家庭崩壊……」
想像の数倍は重い。実に重すぎる話だ。
なんて言葉を掛けたらいいのか、まるで分からない。生きてきた時間はほとんど同じなはずなのに、彼女が冷静でいられる理由が全く分からなかった。
正気とは思えない……なんてことを、一瞬だけ考えた。
けれど表情や口調に、違和感は見られない。少なくとも、常葉から見て正常だった。
だからこそ、嘘には聞こえなかったのだ。突飛な話だというのに、驚くほど。
もしこれが本当の話なら、また他の誰かが藍川の兄と同じ道を辿る可能性も、ゼロではないということになる。
それはつまり。
その「誰か」が、常葉の「知り合い」になる可能性も、十分にあるということだ。
「随分と考え込んでるみたいけど……どう? 信じられる?」
藍川の一言で我に返る。
全身に嫌な汗が浮いている。動悸が激しい。最悪の想像をしたせいだ。
信じられるかなんて問われても、結局マインドコントロールの確証は得られないままだし、現時点では何とも言えない。
分かることと言えば、これが真実であれば、本気でマズイということだけだ。
「信じられるわけないだろう」
途端、男の声が教室に響いた。
扉の音なんて忘れるぐらいその声は強烈で、不意打ちで、そして何より、聞き覚えがあったのだ。
「っ!?」藍川が咄嗟に席を立つ。
「え……?」
身構えた藍川が睨みつけている扉を見て、常葉も思わず立ち上がった。
「飛んだ出鱈目を聞かされているようだな。一之瀬くん」
「黒河内……っ!」
殺意にも近い感情を剥き出しにした声音で、藍川が言った。
冷静だった彼女は、一瞬にして姿を消したようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます