第05話 接触
ようやく頭が回りだし、現状が理解できるようになったと思った矢先、常葉を掴む手が離れ、代わりに床へ叩きつけられた。叩きつけられたとは言っても、引きづられて来た痛みの余韻があるせいか感覚が麻痺しているようで、それほど痛くはない。ただ頬に当たる床が冷たかった。
小さな呻き声と共にすぐ上半身を起こすと、ここが屋上へ繋がる扉の前であることが分かる。錆びだらけのロッカーが踊り場の隅で寂しそうに佇んでいた。
それも束の間、
「アンタ、盗み聞きしてたよね」
という敵意剥き出しの声音が後ろから聞こえる。
この声は……彼女だ。
咄嗟に体を仰向けにして視線を上げる。
「君は……えっと、謎のヒステリック美少女転校生」
「はぁ?」
「ああ違う、ごめん!」思わず手の平を突き出す。「藍川さん……だっけ」
「名前知ってるって事は、やっぱり話聞いてたってことでいい?」
校長に藍川と呼ばれていた彼女は、常葉の目の前で腕を組んで逃げ道を塞ぐように仁王立ちしている。小動物が対峙しようものなら迷わず死んだフリをしそうな程には、特に視線が鋭く恐ろしい。
「な、何のこと?」
「部屋から出るとき見えてたから、アンタの姿。扉のすりガラス越しにね。惚けても無駄」
「……」
冷や汗が三滴ほど頬を伝っていく。まるで言い訳ができそうにない。
「で、何で校長室の前にいたわけ? もしかして私の後をつけてたってこと? 全くクラスの女子共もそうだけど、この学校って教師だけじゃなくて生徒もイカれてるんだ」
「いやいや、そんなストーカー紛いのことなんてしてないって」
「じゃあ何で居たの?」
「生徒会の仕事だよ。えっと、ダンボール箱が置いてあったでしょ? あれを校長室に運ぼうと……ね」
「ふぅん……」
藍川は怪訝そうに常葉を眺め回したが、すぐに「ま、そんなことどうでもいいや」と吐き捨てた。
「ね、ねえ藍川さん」
「ところで、私の話、全部聞いてたんだよね?」
常葉の言葉は問答無用で跳ね除けられ、代わりに質問が飛んでくる。無回答は許されない類のものだ。
「いや……全部は聞いてないよ。途中から」
「それで十分」
質問の意図が全く分からない。けれども、それでも何故だか背筋が冷えた。
「どうせその話、アンタは微塵も信じて無いだろうし、そんでもってどうせすぐに拡散するだろうし、そんなことされたら堪ったもんじゃないから、口封じとしてアンタの顔写真を撮る」藍川はスカートのポケットに手を添える。「私って、結構ネットでは名が知れてるんだよね。アンタの顔写真一枚アップして、適当なはったりを書き連ねておけば大抵の人は信じてくれちゃうぐらいには。あ、当たり前だけど本名でやってないから」
「ち、ちょっと待って! 確かに信じきってるわけじゃないけど、だからと言って微塵も信じてないなんてことないし、それに広めたりもしな――んぐっ!?」
「声がデカイ。下に聞こえるでしょ」
藍川は立ち膝の状態で常葉の上に跨り、そのまま前のめりになって左手で口を塞いだ。これでは頭を床に押し付けられているようなものであり、重心を抑えられていては起き上がろうにも起き上がれないため、大した抵抗もできやしない。滅茶苦茶に暴れれば何とかできるかもしれないが、加減が分からないので怪我をさせる可能性だって十分にある。
彼女の威圧感に怯まずに、さっさと立ち上がっていればよかったのだ。
後悔先に立たず。されど、それはそれとして自分に腹が立つ。
こんなの、まるで首根っこを押さえられた草食動物じゃないか。
後は食されるのを待つだけか。
藍川は空いている右手で自分の胸ポケットに手を当てている。中を確かめると、次は再びスカートのポケットの方へ手を伸ばした。
「あれ?」
あれ? って何だ。なんの呟きだ。
いつまで経っても写真を撮られる気配がない。
藍川は何度も何度も同じポケットの中を確かめている。表情にどんどん焦りの色が滲んでいっていた。
……そうだ、思い出した。
「……」常葉は藍川と同じようにポケットを確かめる。
あった。
今、藍川が必死こいて探しているものが、間違いなく常葉のポケットにあった。
写真を撮られる気配がないどころか、そもそもスマホの気配が無かったのだ。
形勢逆転である。
自分のポケットから藍川のスマホを取り出し、本人に見えるようあからさまにちらつかせる。藍川はそれを見ると瞬間的に表情が困惑へと染まったが、体は素直にスマホへと向かっていた。
手を伸ばしてきたので、手を遠ざける。
次の瞬間、常葉は一気に腹筋と自由な左手に力を込め、全力で起き上がろうと試みる。
「きゃっ!」
重心が斜めに傾いていた藍川は、そのまま体勢を崩して横転した。
ようやく解放された常葉は急いで立ち上がり、飛び退くように藍川から距離をとる。
「……」
左手には階段があり、逃げようと思えば逃げられる。
だが、常葉にはまだやらなければならないことがあった。
両手両膝をついた藍川が、こちらへ首を回して睨みつけてくる。
その表情といえば、例え大人であっても戦々恐々としてしまうような、それはもう凶悪なものだったが、幸い今の常葉は優位に立っているという確信があったため、怯みすらしなかった。
常葉は、手に持っているスマホを紋所の如く提示する。
「これ、藍川さんのだよね」
「……何でアンタが持ってるの」
「今朝、廊下で僕とぶつかったの、覚えてない?」
「え?」
「その時に落として、僕が拾った。届けようにも見失っちゃったから、一先ず預かっておこうと思って、そのまま持ってたわけ」
藍川はしばらく黙って地面を見つめた後、おもむろに立ち上がり埃を払った。よく見てみると、彼女の制服が新品であることが分かる。
「思い出した――なるほどね」藍川は手のひらをこちらへ差し出す。「だったら、返して」
「え? いやだよ」
「は? なんで?」
「写真撮る気まんまんでしょ」
「……悪い?」
「当然」
お互いに黙りこくる。
常葉は藍川が動いてくるのをひたすら待った。
「ていっ!」
予想通り、藍川が距離を詰めてスマホを奪おうとしてきたので、
「よっと」
常葉はさらっとそれを避けた。見てから回避は余裕である。
藍川お得意の睨みつける攻撃が再び炸裂したが、流石に見飽きた。
「返して欲しかったら、さっき校長室で喋ってたこと全部話して」
「絶対嫌」
「さっきも言いかけたけど、別に信じるし、笑ったりもしない」
「……それって、こんな脅しまでして聞きたいこと? 私が言うのもアレだけどさ」
「心を意のままに操る、隠蔽、自殺……こんな不穏な単語が出てくるような教師を、放っておけない」
「正義漢ぶるのも大概にして。あ……もしかして、アンタ特進コースなの?」
「違う」
段々と感情的になってきた藍川が口を開き、
「黒河内は特進コースだけの担当。なおさら意味が――」
「自分のことはどうだっていいんだ!」
それを途中で遮って、常葉が言う。
「……じゃあ、一体なに」
突然叫んだ常葉に驚いたせいか、藍川は一つ下がったトーンでそう訊ねた。
常葉は藍川の目を真っ直ぐ見据える。
「特進コースに、知り合いがいるんだ――大切な知り合いが、いるんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます