第02話 転入生

「ふあ~」


 酷く間抜けな大あくびをしながら、家の洗面所で顔を洗った。いつもならこれで眠気が飛ぶが、今日はそうもいかなかった。明らかに夜更かししてまで行なった編集のせいだろう。結局編集は完遂できたものの、失ったものは大きかった。

 現在時刻は朝7時。睡眠時間は結局三時間ほどになってしまった。これがまだ春休みであれば、少なくとも倍ぐらいは眠ったはずだ。

 歯ブラシを手にとって、目の前の鏡を見る。

 薄い茶色の髪が、肩に触れるか触れないかぐらいまで真っ直ぐに伸びている。耳は完全に隠れており、一見したら女性がするようなショートヘアに見えなくもない。


「まだ切らなくてもいいな」


 そう呟いて、歯磨きを始める。

 口をゆすぎ終えた後、頭頂部あたりでぴょこんと跳ねている寝癖を直す。

 耳が出るように髪の毛を後ろの方で手際よく束ね始めた。しかし束ねるには長さが足りているとは言いづらく、縛るとほとんど竹箒みたいな毛先に広がるだけだった。でも別にこれでいい。もとより髪を縛り始めたことにこれといった理由はないのだ。


「おはよう」


 リビングに顔を出すと、母親がエプロン姿で朝食の準備をしていた。味噌の香りが鼻をすぅっと抜けていく。


「おっはよー」

「母さんの挨拶は相変わらず気が抜けるというかなんというか」

「なにそれひどーい!」

「そういうところ」

「どういうところなの!?」

「この天然っぽさに負けて落ちたんだね……父さん」

「なに? お父さんに会いたいの? だめよ、お父さんは今、私たち一之瀬家のために一生懸命働いてるんだから」

「分かってるって。母さんこそ、おいしい味噌汁を父さんに食べてもらえなくて寂しいんじゃないの?」

「え、おいしい味噌汁ですって! もう常葉ったら、褒めても何もでないわよー」


 一之瀬家は父、母、姉、そして常葉の四人家族。父はアメリカに単身赴任しており、プロのテレビカメラマンとして大都市から大自然まで様々なロケーションで活躍しているらしい。が、実際の仕事ぶりを目でみたことはない。危険の多い職種で心配ではあるが、時折母がリビングに置かれた家族共用のパソコンでビデオ通話をしているところを見ると、一先ずは無事らしいので安心できる。

 姉は常葉と三つ年が離れており、常葉が高校一年になるときに美容系の専門学校へ入学し、上京した。姉弟間で特別連絡は取り合ってはいないが、母親にはきちんと定期的に連絡を入れているらしく、母曰く元気でやっているらしい。

 従ってこの家にはいま、常葉と母の二人しか住んでいない。


「はい、お待たせ。ご飯は自分で盛ってねー」


 母が味噌汁をテーブルに置いたので、伏せられていた茶碗を持って炊飯器のところへ行き、白飯を並々と装う。


「いただきます」


 対面に母が座り、同じように手を合わせた。

 やっぱり朝はご飯と味噌汁だなと常葉は思う。パンだと口がカラカラになってしまい、とても喉を通らない。


「そういえば、今日は始業式よね。帰りは何時ごろになるの? 半日?」

「そう。午前中で終わりだから、すぐ帰ってくると思う」

「じゃあお昼ご飯はどうするの?」

「あー……適当に済ませるよ」

「あ、久しぶりにどこか食べにいこっか!」

「勘弁してよ、恥ずかしい」

「もう、お父さんと全く同じ反応するんだからー」


 朝食を食べ終えて、自室で制服に着替える。部屋着をベッドの上に脱ぎ散らかして、ポールハンガーからカッターシャツとネクタイを取る。真っ黒な制服ズボンを履いたあと、ネクタイを締めてブレザーを羽織った。

 高校入学時に学校用として買った少し大きめのグレーのバックパックに、クリアファイルと筆記用具を入れる。始業式のため他に必要なものもなく、バッグの中はスカスカだ。途中、春休みの課題のことを思い出したが、提出日は大体が新学期最初の授業なのでまだ大丈夫だろう。たぶん、おそらく。

 気付けば七時五十分だったのでバッグを背負って部屋を出る。玄関のドアノブに手をおいた。


「行ってきまーす」

「はーい!」


 リビングの方から母の返事が聞こえたのを確認して、ノブを下げて外に出た。

 四月といえど朝はまだ肌寒い。そんな少し冷たい春風が、短く結われた毛先を柔らかく撫でた。

 常葉の住んでいる町は、昔は日本の主要都市と肩を並べるほど栄えていたらしいが、現在は無慈悲にも地方都市と呼ばれていた。当時の面影といえば、呉服店や和菓子屋が並んだ情緒ある商店街がきっとそうなのだろう。

 今は駅前の大型ショッピングモールが代わりに町を活気付ける役割を担っており、盛者必衰の言葉の意味を常葉にまざまざと見せ付けていた。

 加えて一之瀬家が駅に近い住宅街に建っているため、それはなおさら強く感じられる。

 常葉は家を囲む塀との僅かな隙間に止められた自転車に鍵を差し込み、ゆっくりと道路の方へバックさせた。

 サドルに跨り、ペダルに力を込めた。数日前にクラス発表のため事前登校があったものの、この一連の動作はかなり新鮮に感じた。やはり、引き篭もって配信に没入していた春休みが与えた影響は、相当デカイらしい。

 自転車を走らせること十五分。常葉は校門をくぐった。

 常葉の通う高校は、私立実湯木みゆぎ高校といい、自由な校風が特徴の学校である。

 偏差値的には真ん中あたりをキープしているのだが、校則が極端に緩いため、そのギャップがここら一帯ではかなり有名だった。

 男子の常葉がここまで髪を伸ばせるのも、校則に引っかからないから出来ることなのだ。

 常葉はそのまま駐輪場まで行き、2‐Fと書かれたスペースに自転車を止めた。

 今年から三学年となった上級生たちは、どこか緊張感漂う面持ちへと変わっているようだ。でもそれは、病院の雰囲気に当てられてつい顔が強張ってしまうのと同じように、しばらくすればいつも通りの気楽さが見えてくるものだろう。

 それに対して二年生は、久々に友人と顔を合わせたことでテンションでも上がったのか、そこらじゅうで笑い声を上げていた。

 下駄箱で青色のスリッパに履き替えて、自分の教室へ向かう。

 廊下を歩いていると新入生の姿がチラホラ見える。彼らのスリッパは赤色なので目立ちやすい上、言動に初々しさが滲み出ているからすぐに分かった。

 入学式は昨日だったが、二、三年は式には参加しないため休日扱いになる。そうでなければ、きっと昨日の配信中にゲームをクリアすることはできなかっただろう。

 途中、後ろから勢いよく肩を叩かれる。

 振り向くと、うるさい笑顔がそこにあった。常葉の予想通りだ。


「ご無沙汰だな、常葉!」

「ご無沙汰ってワードのチョイスは、男子高校生の中では少し珍しいんじゃない?」

「数百人相手に……いや、数千人か? どっちにせよそんな大勢相手にゲーム配信する方が間違いなく珍しいと、俺は思うね」

「……一理ある」


 彼の名は牧野涼まきのりょう。図体がでかく、迫力があるのが特徴といえる。

 涼とは去年からの付き合いで、違うクラスだったくせに何故だか話すようになった。いつ出会ったのかはイマイチ思い出せないが、おそらく合同体育だと常葉は予想する。

 性格で見ると二人はまるで違うタイプではあるものの、確かに馬が合っているといえた。


「ってか常葉お前、まだそんな髪型してんのかよ。いい加減切ったらどうだ? 鬱陶しいだろう、それ」

「ワックス増し増しのツンツンヘアーに言われたくないんだけど」

「馬鹿、これぞ男子高校生って感じだろ! 比べてお前はなんなんだ、そのサラッサラの髪の毛は! 女子か!? 女子なのかお前!? あ、もしかしてお前、こっち系?」


 と、涼がわざとらしく手の甲を頬に当てた。


「ほんと朝から元気だよね。寝不足で苦しんでいる僕への配慮が欠けてる」

「なんだ、遅くまで配信でもやってたんか?」

「ご名答。でも声がでかい」

「おっとわりぃ。でも寝不足は自業自得だろ」

「仰るとおり」


 涼はこの学校で唯一、常葉の配信活動のことを知る生徒でもあった。

 初めは隠す気などなかったのだが、一月の上旬から配信を初めて早三ヶ月、リスナー数が想定以上に増えてしまったため、身元がばれて不都合が起こる事態を極力避けなければらなくなったのだ。

 もちろん嬉しいことではある。

 しかし人気があればあるほど、荒れたり炎上した時の影響は想像を絶するものなのだ。

 身内に知れて、本名をコメントで流されたりなどしたら、とても配信なんて続けられないだろう。

 そんなことを話しているせいか注意が十分に行き渡らず、常葉は廊下の正面からやってきた女子生徒と肩がぶつかった。


「っ!」


 小さな衝撃。こぼれる吐息。お互いの体勢が崩れた。


「えっと、すいませ――」


 と、咄嗟に謝りながら相手の顔を見て、常葉は一瞬息を呑む。

 魅力的に伸びた長いまつ毛とは反対に、ヘビのように冷静で鋭い双眸。目鼻立ちは年相応の幼さを含んで可愛く仕上がってはいるが、どこか恐ろしいほどに大人びてもいる。

 ぶつかったことで、長い黒髪がさざなみの如く空を舞い、光沢が艶やかに放たれていた。

 女子用の純白のブレザーと黒タイツというコントラストも相まって、その様は控えめに言って容姿端麗だと言える。


「こちらこそ、ごめんなさい」


 女子生徒は芯のある声音で端的にそう告げると、頭を下げて常葉の隣をスタスタと抜けていった。

 常葉はその後ろ姿を呆然と眺める。すると、突然涼が「うおおおお」と声を上げた。


「どうした、急に」

「今の女子、滅茶苦茶可愛いな……。でもあんなヤツいたっけ? ネクタイ青色だったし、俺らと同じ学年ってことだろ?」


 確かに、知らない顔だった。

 同学年全員の名前なんてとても覚えられないしその気もないが、だとしても顔ぐらいはぼんやりと覚えてはいる。しかし今の女子生徒に限っては、常葉の脳内でどのデーターベースを検索してみても、該当者は見当たらなかった。

 そもそも、一度でもあの目を見たら、忘れることなんてできないように思う。


「転入生か何かだったりするんじゃない?」

「転入生だったら一昨日の事前登校で顔ぐらいは合わせてるはずだろ?」

「何か事情でもあったんでしょ」

「訳あり転入生なんてめっちゃ物語始まりそうじゃねーか。そーいやちょっと前に配信してた学園モノRPGの導入も、こんな感じだったよな」

「あんな波乱万丈な高校生活なんか送ったら、配信する暇が無くなっちゃうだろ」

「馬鹿。イレギュラーな体験こそ配信とか動画のネタになるって、常葉自身がいつか言ってたことじゃねぇか。な、いっちょ主役買って出てみようぜ!」

「冗談じゃないぞ」


 涼が「あの子のこと後で色々聞いて回ろっかなー」と呟いたのを無視して、常葉は2‐FのあるB棟三階へと歩き続けた。

 その間、ずっと脳裏にあの女子生徒の顔が張り付いて離れようとしなかった。

 確かに涼の言うとおり可愛いとは思う。

 だが、その彼女の瞳はまる光が灯っていないようにも見えたのだ。


「……ん?」


 足元に白いスマホが落ちていた。辺りを見渡してみても、こちらを見ている生徒は誰もいない。


「まさか……」


 さっきの女子生徒が落としたのか?

 彼女の背中は既に見えなくなっており、名前は愚かクラスすらも分からないともなると、野暮に追いかけるわけにもいかなかった。

 常葉は少しの面倒臭さと共に、一先ずポケットに突っ込んでおくことにした。

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