夏とレモンと潮の匂い

きさらぎみやび

夏とレモンと潮の匂い

 アイスクリームの溶けたクリームソーダみたいな色と、もっちりとした白玉みたいな色のツートンカラー。まん丸い目と、両端が吊り上がってちょっと悪戯っ子のような口をしたこの子が私の相棒。

 軽ナンバーだからもちろん大きくはないけれど、一人で乗るには十分な広さ。後部座席に手を加えて車中泊もできる様にしてある。


 私はいま島に住んでいる。

 古民家を買い取ったカフェ兼シェアハウスのオーナーというのが肩書ではあるけど、それだけだとご飯が食べられないのでwebのお仕事もやっている。


 今日はカフェの休業日なので、トーストのみの簡単な朝食を済ませると、外でお仕事をしようと相棒と連れだって島内をうろつき回ることにした。


 辿り着いたのは斜面に広がる一面のレモン畑を見渡せる高台にある広場の端っこ。ちょうど木陰になる場所に車を停めて仕事を始めることにした。

 運転席を降りて足元を見ると、木々の隙間を抜けて落ちる夏の太陽からの熱視線が、地面に複雑な幾何学模様を刻み付けている。


 後部座席に設えたテーブルにノートパソコンを置いて電源を入れる。

 窓を全開にして、吹き渡っていく風をレモンの木と一緒に受け止めながら、キーボードを叩き始める。レモンの木が風に揺らされて一斉に騒めくのが、どこか遠くの潮騒のように耳に染み入ってくる。吹き抜ける風の匂いはレモンの黄色に彩られている。ときどき眼下に広がるレモン畑を眺めながら私は調子よく仕事を進めていく。


 太陽がつむじを睨みつける時間を過ぎると木陰はほとんどなくなり、私もノートパソコンも熱中症の恐れがでてきた。気がつけば持ってきていたレモン水入りの水筒はすっかり空になってしまっている。


 そろそろ場所を変えようかな。お昼ご飯も食べたいし。


 ノートパソコンをパタンと閉じて運転席に移動。私はキーを回して相棒の目を覚まさせると、窓を閉めてから昼ご飯を探す旅に出る。そうは言っても選択肢はあんまりない。町まで出るか、家に戻るか。


 あー、なんかおうどん食べたいなー、と思って町まで出ることにした。


 ハンドルとアクセルで相棒に進路を告げる。はいはい分かりましたよ、と言いたげに少し回転数を上げながら相棒は高台を下っていく。うねる農道を抜けていくと途中で水色のホースが道を跨いで寝転がっていた。ブレーキを使って一旦停止。どうします?と言うように相棒の回転数がちょっとだけ下がる。ホースの先端では麦わら帽子をかぶったおじさんが、シャワーヘッドを使って乾いた畑に満遍なく水を飲ませていた。


 おじさんは私と相棒に気がつくと、ぺこりと頭を下げた後、儀仗兵のように恭しくこのまま進むようにと手で指し示す。私は小さく頷くと、相棒に命じてホースの上を乗り越えていく。ぐにょん、という何とも言えない感触を足元に感じながら引き続き農道を下っていった。


 町には平日にも関わらずちらほらと観光客の姿が見えた。

 自転車道が整備されているから、目に写るのはサイクリストがやっぱり多い。流線型のヘルメットを被り、虹色に光るサングラスをかけてはいるけど、町中だから自転車を降りてゆっくりと押していた。

 ひとたび跨り漕ぎだせば相棒よりも素早く坂道を駆ける自転車も、ただ押されている時は手綱を握られ不満げに首を振る競走馬のようだった。


 ちょっと外れたところにある市営の駐車場に相棒を停めると、裏路地に入る。鮮やかな幟の目立つ表通りと違って、裏路地はお昼ご飯の匂いと洗濯物の匂い、そういった生活の匂いに満ちていた。


 埃をかぶったガラスケースに、すっかり色あせた食品サンプルが目印のおうどん屋さんは地元の人たちの憩いの場となっている。

 擦りガラスがはめ込まれた格子戸を引き開けると、途端に出汁と醤油の香りが鼻腔を刺激する。店内にはお冷片手にテレビの野球中継を眺めるおじさんと、差し向かいでお喋りに興じているおばさん二人がお客さんだった。


 席についてすぐにお水を持ってきてくれた店のおばさんに、ざるうどんと海老天セットを注文する。おばさんが厨房に声をかけるとたちまち油の跳ねる音と香ばしい香りが漂ってきた。

 ほとんど待つこともなく、注文の品が運ばれてくる。

 おつゆをつけてうどんを啜ると、乾いた体に塩分が染み渡っていくのが分かった。思った以上に塩分が抜けていたんだなと改めて自覚したところで、塩を軽く振った海老天に齧り付く。やけどしないように気を付けながら、慎重に衣を砕くと、弾力のある海老の身が口の中で弾けた。

 その後は少々はしたないかな、と思いつつも勢いに任せて一気におうどんと海老天を平らげてしまった。

 食べ終わった後ふと顔を上げるとおしゃべりしていたおばさんの一方と目が合った。おばさんは目元だけでくすりと笑う。勢いよく食べすぎただろうか。ちょっと恥ずかしい。


 おばさんの視線をちらちらと気にしながら会計を済ませ、相棒の所へ戻ると1時間経っていなかった。この市営駐車場は太っ腹にも1時間までは無料なのでそのまま相棒と共に駐車場を後にする。



 午後からは気分を変えて海辺にある道の駅の隅っこで続きの仕事をすることにした。ここなら水分の補給もすぐにできるので、熱中症の心配も少ない。


 先ほどと同じように窓を開けてノートパソコンを立ち上げ仕事を再開。

 ここでも風が吹き抜けて来るけれど、さっきと違って潮の匂いがより強く感じられた。パソコンのキーボードを叩きながらも潮の匂いに包まれる。人によっては生臭さを感じるかもしれないけれど、生物の息遣いを感じる匂いが私は好きだった。無機質なパソコンの画面を見つめながらも、生き物の営みを感じられる匂いに包まれていると、画面の向こうにいるであろう人たちの事を考えながら仕事ができるような気がする。


 街中のカフェで仕事をしている人も、同じように息遣いを感じながら仕事をしたいから、そこにいるのかなと思う。


 有機物と無機物の間を漂っているような不思議な感覚に陥りながら無心に画面に向き合っていると、気がつけば手元が暗くなり始めていることに気がついた。


 顔を上げると目の前の海に、夕日が落ち始めていた。

 近くて遠いパソコンの画面から、遠くて近い沈む夕日に視線をずらす。

 かくれんぼをするかのように手を振りながら立ち並ぶ島陰に身をひそめていく夕日を、テーブルに頬杖をつきながらぼんやりと眺める。


 一日の終わりを言祝ぐかのような赤。それは徐々に紫色の入り混じったマーブル模様に世界を染め上げていくと、エンドロールを締めくくるかのように夜の帳が降りて来る。


 距離にして10kmもない範囲をうろついていただけなんだけど、今日一日で目にした世界は万華鏡のようにくるくると色と匂いを変えて私の前に立ち現れて、そして過ぎ去っていった。


 世界はこんなにも色彩に満ちている。

 私の目の前で沈んでいく太陽は、水平線の向こう側で、別の土地に新しい朝を告げるのだろう。


 彼方の土地に想いを馳せながら、私は相棒のエンジンをかける。

 ハンドルを軽く叩いて、一日付き合ってくれた相棒にお礼を述べると、私はゆっくりと家路への道のりを辿り始めた。

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