十年前の少年
「あー、よかった」
不意に気の抜けるような声が天井から降って来た。
「はい?」
声の方を見上げれば、ふよふよと白い猫が浮かんでいる。
「間に合ったよ、アイリーシャ。君が、そう思ってくれないとだめだったんだよねぇ……」
とぼけた表情でテーブルの上に降りた神は、ひょいと後ろ足で伸びあがった。そして、肩に手をかける。
「君が、この世界を守りたいと――三百年後に続くためじゃなく、今を守りたいと思った時じゃないとだめだったんだよ。聖槍の力は引き出せない」
「神様なんだから、そのくらいひょいっとできないの?」
というか、神様なんだから他の世界から侵略してくる魔神くらい簡単に退治できるだろうに。わざわざこの世界の人間であるアイリーシャにやらせるだなんてどういうことだ。
(まあ三百年後も同じことをやっているわけだけれど……)
「それは、我にもどうにもできないよねぇ……世界の理を壊しちゃうし」
しれっとした顔で神様は言う。
世界の理って、神様にもどうにもできないのか。
そして、神様は、アイリーシャに向かって言う。
「悪いんだけど、教会に行ってくれない? 聖槍を、奪おうとするやつがそっちに向かっているから」
「はいぃ?」
思わず裏返った声を上げた。聖槍って教会にあったのか。そして、それを奪おうとしているやつがいるとかもっと早く言ってほしかった。
「ものすごく……ものすごく、後手、よねぇぇぇぇぇ!」
思わず神様の肩をひっつかんで揺さぶってしまう。そう言えば、つい最近こんなことがあったような。
「しかたないでしょ、我の力もそがれちゃったんだもんー。言っておくけど、十年前から始まってたんだからね、これは!」
むくれた顔で、そんなことを言うな。
そう突っ込みたかったけれど、今はそんな場合ではない。
「ええと、馬車を用意してもらう? それとも馬で行く方が早い?」
急ぐように言われて、一気にパニックに陥った。うろたえているアイリーシャに、エドアルトが言う。
「ミカルを呼んで、神殿に転移させてもらおう」
そうだ、その手があった。ミカルならば、人を連れて転移することも可能だ。つい最近まで、父を連れて領地まで往復していたのだから。
「そいつが今、神殿に向かってるんだけど」
「え? なんで?」
「だって、そいつが元凶だし」
上がりかけた声を、アイリーシャは押さえる。
どうして、こうなった――とにかく、説明は後だ。
「私に乗って! 今なら飛べる!」
ルルが、アイリーシャの前に身を伏せる。元の大きさになったルルなら、アイリーシャ一人くらいならば乗せられそうだ。
「俺も行く!」
「あなたは無理! 諦めて」
血相を変えたエドアルトが、ついてこようとするのをルルは止めた。たしかに、二人は無理そうだ。
「無理とか言うな! アイリーシャ一人を、行かせるわけにはいかないだろう! 今度こそ、守ると決めた!」
「まったく暑苦しいねぇ、君は」
「黙れ!」
なんでエドアルトと神様がやり合っているのだ。思わず額に手を当てる。
こんなことでやり合っていられるほど、今は暇ではないはずなのに。
「いいわよいいわよ、私が乗せたらいいんでしょ!」
やけっぱちの勢いでルルが叫び、ルルの背中に同乗させてもらうこととなる。
用心深くルルの背中にまたがると、後ろにエドアルトの重みを感じた。
「落ちるなよ」
背後から聞こえた声に、こんな時なのに息がつまりそうになる。身体に回された腕は力強くて、緊張感がすぅっと抜けていくような気がした。
窓から勢いよく飛び出したルルは、一気に空高く駆けあがる。
教会までは、直線距離ならばすぐだ。
「どうして、一緒に来るんですか? エドアルト様が来ても……」
「十年前――俺は誘拐されたことがある」
エドアルトの胸に背中を預けているから、彼の表情はわからない。けれど、彼の声は重苦しくて、今から口にしようとしているのは、彼にとって重荷なのだと伝わってくるようだった。
「俺を誘拐したのは、隣国の王族だった。俺を誘拐し、人質として父との交渉に望もうとしていたらしい――当時、国境をまたがる地域で鉱山が発見されたんだが、その採掘で問題が発生していたそうだ」
十年前、誘拐。黒髪の少年。アイリーシャには教えてもらえなかった、犯人達のその後。
ぴたりぴたりと、今まで問うことさえしなかったパズルのピースが頭の中ではまっていく。
「ああ――あれは、エドアルト様だったんですねぇ……道理で、一緒に誘拐された男の子のこと、『無事に家に帰れた』としか教えてもらえないはずだわ」
王子が誘拐されたなんて、公表するわけにもいかない。
幸いなことに――と言えばいいのだろうか。当時のアイリーシャは五歳。すぐに忘れるだろうと大人達は思っていたのだろう。
実際のところはしっかり覚えていたけれど、無事に家に帰れたのならどこの誰か追及する必要はないと思っていただけだけれど。
それで納得できた。事件について、ろくな記録が残っていなかった理由が。
「あの時、俺は情けなくてどうしようもなかった。自分より小さい女の子に、守ってもらうしかなかった自分が」
「や、それはしかたないですよ。当時のエドアルト様は、まだ十歳にもなっていなかったんだし」
「君はまだ五歳だった」
頭の中身は十八だった――と、エドアルトに言う必要もないだろう。
あの時、二人とも全力を尽くした。その結果、今があるのだからそれでいい。
「あの時、決めた。今度は俺が守ると。剣なら、絶対に君を巻き込まない」
「……それで」
それで、剣術を磨く方に向かったのか。何かあった時、アイリーシャを巻き込まないために。
どうしよう。こんな状況なのに、心臓が早鐘を打ち始めている。
耳までが熱くなったけれど――ちょうどその時、ルルが教会に到着した。
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