聖女だなんて呼ばないで

 屋敷の廊下を歩いていたアイリーシャは、前から人が歩いてくるのに気づいて身を潜めた。


「お嬢様、どちらにおいでですか?」


 壁にぺたりと張りつくようにして、アイリーシャは相手をやり過ごす。どうやら、アイリーシャを探しているようだ。

 ルルを腕に抱いたまま、ほっと息をつく。腕の中からルルが見上げてきた。


「行かなくていいの?」

「いいのいいの。だって、私の顔を見たいってだけでしょ。最近、多いのよね……研究所の方も騒がしくて」


 以前、ルルを抱えて逃走していた時とは違う。

 アイリーシャが、倒れた人達の呪いの解除をしたということで、アイリーシャの株が急上昇。 おかげで、アイリーシャと友好的な関係を結びたいという人が、次から次へと屋敷に押しかけてくるようになったのだ。

 "聖女"なんて呼ぶ人も出始めて、若干げんなりしているところではあった。


「……嫌?」

「そうね。できれば、そっとしておいてほしいかな」


 できれば、今回の人生は地味に生きたかったのだが――神様との約束もあるのでしかたない。


(……研究所に、避難させてもらおうかな)


 屋敷があまりにもやかましいようであれば、研究所に避難してもいいと言われている。当面の間、そこに避難することにしようか。

 魔術研究所は王宮の敷地内にあるから、敷地に入る段階でまずチェックが入る。その後、何か所かチェックされる場所があるから、屋敷で過ごすよりは静かだろう。


(所長も、研究所に泊まればいいって言ってたし)


 呪いを解除するのに忙しすぎて、直接報告はしていないけれど、ミカルに手紙は送ってある。その返事に、『あまりにも人が押しかけてくるようなら、研究所の宿泊施設を使ってもいい』と書かれていた。

 昔の王族が使っていた建物で、ミカルの部屋がある三階には、何か所か宿泊部屋もあるそうだ。そこに泊まらせてもらうことにしよう。

 当面の荷物をまとめて魔術研究所に向かったけれど、そこもまた静かな場所とは言い難かった。

 というのも、ヴィクトルが駆けつけていたのだ。

 アイリーシャの姿を認めるなり、ヴィクトルはこちらに大急ぎで駆けつけてきた。

 白を基調とした近衛騎士の制服が実によく似あっているが、必死の形相で台無しだ。


「リーシャ! 無事か! 本当、大変なことになってしまったな……」


 三人の兄達のうち、ルジェクとノルベルトは割と楽天家だ。どうにかなるだろうと思っている節もある。だが、ヴィクトルだけは違う。

 かつて、アイリーシャが誘拐された時のことが、彼には深い心の傷になってしまっているらしい。


「お兄様、私なら大丈夫だから……お仕事に戻ってちょうだい」


 近衛騎士なのに、王宮の警護を放り出して研究所に押しかけているのはあまりよくない気がする。ヴィクトルは剣呑な目つきになった。


「聖女だぞ? 神殿だって、お前を利用しようとしているんだろう。きっと、ここも安全じゃない。俺に任せておけ」

「利用なんてされないわよ。呪いを解除しただけだし――それに、ルルもいてくれるし」

「聖獣なんか、伝説の存在と思われていたんだぞ! ルル狙いのやつもいるかもしれないし、ルルだって危ない!」


 正式に契約したルルは、今は子犬の姿のままだが、その気になれば元の大きさに戻ることができる。

 毛並みは素晴らしく、思う存分モフっているのだが、ルルだけでは護衛としては不満と言うことなんだろうか。


「私じゃダメ? ダメなの?」

「ほら! ルルが気落ちしてる!」

「ヴィクトル、何があった? アイリーシャ、問題発生か? 困ったことがあるなら――」


 ヴィクトルとアイリーシャががんがんやり合っているのを聞きつけたのか、エドアルトまで駆けつけて来てしまった。


(なんでこうなるのよ……!)


 兄達にとってのアイリーシャは、いまだに守らなければならない存在なのだろう。可愛い末っ子なのに、長い間離れて暮らさないといけなかった。


「――リーシャだってそうだろ? どこに行っても人に囲まれて疲れたんだろう。そういう顔をしている」

「姿を隠しているから、捕まることはないから大丈夫よ、お兄様」


 そういう意味では、前世よりはるかにましだ。前世では、一度囲まれてしまったら、逃げ出すことなどできなかったのだから。


「それにしたって、ここまで徒歩で来るとか危ないだろ?」


 年が一番近い分、ヴィクトルは兄達の中でも一番過保護だ。気を失って運び込まれた十年前の記憶が、トラウマになっているらしい。

 兄にそんなトラウマを植え付けてしまった責任の一端はアイリーシャにあるので、心配するなとも言えないのだけれど……。


「それに、魔術研究所だとすぐに見つかりそうな気もするんだよなぁ……」

「ならば、王宮に滞在するか?」


 頭を抱え込んでしまっているヴィクトルに重ねるように、エドアルトが言う。


(や、部屋ならなんぼでもあるでしょうけど……!)


 王宮には、外国からの使者や、地方から招かれてやってきた客人が滞在するための部屋がいくつもある。それらは、毎日丁寧に手入れされ、不意の来客にも対応できるのは知っていた。


「そこまでご迷惑はかけられません――」

「そうしてほしい。その方が、しっかり警護できる。ヴィクトルもそう思うだろう?」


 エドアルトの提案に、ヴィクトルはぱっと顔を輝かせた。


「そうですね、それなら近衛騎士が警備につくので……」


 それって、ものすごい大ごとだと思う。アイリーシャは顔をひきつらせたけれど、王宮への滞在はしっかり約束させられてしまった。


「兄が心配性ですみません……!」


 アイリーシャのために、急きょ部屋が用意される。

 客室ではなく、王族の住まう区域に部屋を与えられて、居心地悪い。


(たしかに、その方が警護が楽と言えば楽なんだろうけど……)


 アイリーシャのために、来客用の区域に警護を派遣するより、王族と一緒に護衛する方が騎士団の負担が少ないのもわかる。

 でも、落ち着かないものは落ち着かない――。


「しばらくの辛抱だ。ここにいるのは嫌だろうが」

「いえ、嫌ってわけじゃないんですよ。それに、下手に外に出るより、人目につかないですむと思うんですよね……」


 なにせ、アイリーシャの勤務先は、王宮と同じ敷地の中にあるのである。家から通うより、人目につかないと言えばつかないのだ。


「そのことなんだが、しばらく、魔術研究所への出勤も取りやめてほしい」

「え?」


 あまりのことに、声が裏返る。


(私、役立たずみたい……)


 あそこにいれば、何もできない自分ではないと思うことができた。けれど、それは余計なことだっただろうか。

 アイリーシャの気持ちは、エドアルトには実によく伝わっているらしい。彼は、アイリーシャの方に身をかがめた。


「君の身を、守るためだ。自分が、重要人物であることを認識してほしい」

「――わかりました」


 エドアルトがそう言うのなら、そうした方がいい。

 用がある時は、ミカルも王宮に来るということで話がついた。

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