近づいていく、彼との距離
書庫の片隅にはルルが飛び越えることのできない程度の高さの柵で、ルル用のスペースを作り、昼寝用の籠が置かれている。
朝、出勤するとまずはルルをそこのスペースに入れる。
中にはおもちゃもあるし、アイリーシャやノルベルトが見える位置にいることに安堵するようで邪魔をすることはなかった。
(やっぱり、ルルには何か不思議な力があると思うんだけど……)
どうやってかケージから飛び出してしまい、アイリーシャのスカートを加えて引っ張りながらルルが激しく鳴くということがあった。
指示された方向に向かってみると、そこで昏睡状態に陥った人を発見したので、やはり何かあるのだろうと思っている。
もうひとつ変わったことと言えば。
エドアルトがしょっちゅう研究所を訪れるようになったということだろうか。時には一日に二度、彼はここに訪れる。
もともとアイリーシャがここで働くようになったのは、アイリーシャならば他の人が開くことのできない魔術書を開けるのではないかという期待からだ。
今までは、書物の内容を調べ、目録を作るのが主な役目だった。
そこに、エドアルトが自ら運んでくる書物――国のあちこちから集めてきたもの――が加わる。
ノルベルトも一緒になって、呪いの解呪の方法を調べているけれど、その量は膨大なものだ。
「無理はさせていないか。顔色が悪いような」
「――な、大丈夫ですっ!」
テーブル越しにこちらの顔をのぞきこんでくるのはまだいい。テーブルの上に置かれているのは、ペンとノート、そして積み上げられた書籍くらいだ。
内容を確認したものは後ろの書棚に並べられ、エドアルトを通じて返却するものと、残しておいて改めて調べなおすものに分けられている。
その山の向こう側から手を伸ばされ、頬に触れられる。とたんに、鼓動が跳ね上がる気がするから、不用意に触れるのはやめてほしい。
(……本当に?)
やめてほしいって、本当にそう思っているんだろうか。
ドキドキしている暇なんてないはずなのに、この部屋に近づいてくる足音の中で、エドアルトのものだけ聞き分けることができるようになってしまった。
「大丈夫ならいいんだ。ルルはどうした?」
「えっと……そこで昼寝をしています」
ルルは、自分用に用意された籠の中ですやすやと眠っている。
ちらりとテーブルの下をのぞき、ルルの尾が見えているのを確認するとエドアルトは改めてこちらに向き直る。
「休む時は、休んでくれ。君は――無理をするから」
「……無理はしていません。大丈夫です」
それでも、そんな風に声をかけられるのを嬉しいと思ってしまうのだからたいがいかもしれない。
ふと視線を感じて顔を上げれば、今の今まで存在感を消滅させていたノルベルトがにやにやとしながらこちらを見ていた。
(た、質が悪い……!)
どうも、ノルベルトはアイリーシャとエドアルトを結び付けようとしているようだ。
その念をひしひしと感じるから、エドアルトと一緒にいるところを兄に見られるのは気まずい。
「殿下、王宮に戻る時、俺も一緒に行っていいですか。お預かりしている資料、殿下一人じゃ持てないでしょう」
「そうだな――あとで誰か来させてもいいが」
「いや、ヴィクトルに話があるので。リーシャ、お前も来いよ」
いきなり兄に言われて、アイリーシャは固まった。
(……なんで?)
目でそう訴えかけるけれど、兄はその訴えは完全にスルーしたようだ。
「お前、このところこもりっぱなしだっただろ? 少しは外の空気を吸った方がいいって」
「……わかった。一緒に行く」
エドアルトの前で、兄と激しくやり合っているところを見せる必要もあるまい。おとなしく、ノルベルトの提案を受け入れることにした。
たいした距離ではないから、帰りは歩くことにして、エドアルトの馬車に同乗させてもらう。
王宮に到着し、エドアルトが先に降りるとノルベルトは素早くささやきかけてきた。
「ルルは、俺が見ててやるから、リーシャが資料を返して来いよ」
「……お兄様が持ってくれないの?」
「や、殿下もお前が持って行った方が喜ぶだろ?」
「お、お兄様! そういうことを言うのはやめてよね!」
かっと頬が熱くなるのがわかった。
たしかに、アイリーシャに対しては、ほんの少しだけ他の女性に対するより空気が柔らかくなる――ような気がする。
けれど、それは初対面の時にさんざん脅してしまったことを気にしているからじゃないだろうか。
さすがに、首に剣を突き付けられたなんて家族にも言えないので、あの時のことは二人しか知らないが。
「俺は、ヴィクトルに用があるって言ったろ? そっちならルルを連れて行っても問題ないし、お前が運べよ」
「……しかたないわね。ルルがいなくなったら、ちゃんと探してよね?」
「任せろ」
ルルの追跡装置は、ノルベルトの分も追加した。ノルベルトも、問題なく受け入れてくれている。
「じゃあ、お兄様は騎士団の方をお願い。私が行ってくる」
「どうした?」
「いえ、俺、先に騎士団に回るので、リーシャに運ばせてください。ルル、行くぞ!」
ぴょんと馬車から飛び降りたノルベルトは、ルルと一緒に走り出してしまった。
「こら、足にまとわりつくな! まっすぐ走れ!」
「ワンッ!」
ルルはノルベルトには気を許しているらしい。傷まないよう、シルクの布に包んだ本を手に馬車から降りる。
「――君は持たなくていい」
「いえ、このくらいは持たせてください。そうでないと、わざわざここに来た意味がなくなってしまうので」
エドアルトがアイリーシャの手から本を取ろうとしたけれど、それは首を横に振って断った。
この建物には何度か来ているが、いつもは客人として、舞踏会や晩餐会の行われる区画にしか足を踏み入れない。
エドアルトと並んでここを歩いていると思うと、不思議な気分になる。
(こうして見ると、三百年後もあまり変わりないかも)
ゲームの中でも、何度か王宮を訪れることはあったが、その時とたいして変わりないように思えた。アーチ形の天井に描かれている美しい絵。窓の上部にはめ込まれたステンドグラス。
もともとここが、ゲームと同じ世界ということもあるのかもしれない。文化水準がなんだか不思議な感じなのだ。
電化製品はないけれど、魔術を使った道具類である程度はカバーできていて、不便というほどではない。水回りも、日本とさして変わりがないほどだ。
移動は馬車がメイン。電車は存在しないし、蒸気機関車もまだ作られていない。
けれど、長距離の移動には、転移術が使われていて、王侯貴族や資産家は、それを使うことによって、国内をあちこち行き来していてさほど不便は覚えていないようだ。
(国の端から端まで旅行に行くってこともそうそうないし……)
日本での便利な生活を知っているアイリーシャ自身、不便を感じているかと言えばそうでもない。こちらの世界で十年以上生きて来ていて、こういうものだと思っているからかもしれないけれど。
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