広がる不安

「ところで、アイリーシャ。それは、どうした」


 エドアルトの視線が足元に落ちる。彼の視線を追うように頭を下げ、アイリーシャは目を丸くした。


「……え、ルル?」


 街中で迷子になったら困るからと、今日はルルは家に置いてきた。それなのに、今、足元に行儀よくお座りをして、ちぎれんばかりに尾を振っている。


「あなた、また逃げてきちゃったの?」

「逃げてくるって?」

「この子、部屋に置いてきてもなぜか脱走するんですよね……」


 よし、とつぶやいたエドアルトは、ルルを抱き上げた。ルルは前足でエドアルトの鼻を押す。


「ちょ、ルル、やめなさいっ!」


 今の今まで地面に接していた足でエドアルトの顔を抑えるとはどういうつもりだ。

 だが、エドアルトは気分を悪くした様子もなく、小さく笑った。


(……笑った――!)


 彼と顔を合わせた機会はそう多くない。だが、こんな風に彼が笑うのは見たことなかった。笑顔らしきものを見せても、口角がちょっと上がるだけだったのに。

 見てはいけないものを見てしまったというか、胸のあたりをぐっと掴まれたような気がして、アイリーシャは顔をそむける。


(耳、熱いし……!)


 今は、こういうことに関わり合っている場合ではなかったはずなのに、胸がドキドキするのはどうしようもないらしい。


「せっかくだから、連れて行こうか。ルルも、祭りを楽しみたいんだろう」

「……すみません」


 迷子になるのを恐れているのか、エドアルトはルルを抱き上げたままだった。ルルの方もおとなしくエドアルトの腕の中におさまっている。

 歩きながら、何気ない口調でエドアルトは口を開いた。


「最近、バートン伯爵令嬢以外にも、似たような事件が起きていると知っていたか?」

「……そうなんですか?」

「老若男女、問わず、倒れた後は意識が戻らないらしい。医師が診察しても、異常はなく、教会で回復魔術を施してなんとか持たせている」

「アデル嬢と同じ症状ですね……」


 こうなってくると、病気ではないだろう。


(……極端な話になってしまうけれど、魔神が関わっている……とか?)


 いつか、蘇るであろう魔神と対決するのが役目。

 聖女としてその役を果たせと言っている割に、神様はアイリーシャにはたいした情報を渡してくれなかった。アイリーシャが"隠密"を完璧にこなせるようになった後は、姿も見ていない。


「教会で話を聞く……ってことはできますか?」

「それは難しいだろうな」


 歩きながら話をしている二人は、いつの間にか祭りのことなんて頭から消え去っていた。どうにかして、この謎を解くしかないのだ。


「……難しい、ですか」

「ああ、アイリーシャは知らないんだな。君は、王立魔術研究所の職員だろう。教会は、魔術研究所に対して、あまりいい印象がないらしいんだ」

「なぜです?」

「魔術は創世神のお力。人間がそれを解読しようなどと、神に対する冒涜だ――というのが、教会側の言い分だな」


 古の魔術を解析し、現在に役立てようとしている魔術研究所。それに対して、教会では力が失われたのは、人間が創世神を信じなくなったから力が失われたのだ、という言い分なのだそうだ。


(……そんなのって、ひどい)


 現に、ばたばたと倒れている人がいるのに。

 くだらないことで意地を張りあって、本質を見失っているのだとしたら、ここも日本と大して変わりないらしい。


(――人間の考えることなんて、どこも変わらないのかもしれないけど)


 エドアルトは、現状をどう思っているのだろう。


「グ……グルルゥ!」

「――おっと!」


 不意に唸ったかと思ったら、エドアルトの腕の中から、ルルが飛び出した。


「なんだ、あいつ……」


 呆然としたエドアルトは一瞬固まったけれど、すぐに自分を取り戻す。


「追うぞ!」

「あ、はいっ!」


 今日も水晶は家に置いてきてしまっていた。それを悔やみながら、エドアルトに続いて走り始める。


(こんなことなら、あれを常に持ち歩くべきなんじゃないの……!)


 留守番させていたはずのルルが、ついてきてしまうとは思っていなかった。さらには、一緒にいたはずなのに逃げ出すなんて。


(私、ひょっとして信じられていないのかしら……)


 アイリーシャはルルを可愛がっているつもりだけれど、ルルの方ではアイリーシャを必要としていないのではないだろうか。

 不意にそんな風に思えて、走りながら落ち込んだ。


「エドアルト様、どこに向かってるんですか?」

「あいつの声が、こっちから聞こえる!」


 どうしてエドアルトには、ルルの声が聞こえるのだろう。アイリーシャの耳には、何も聞こえていないのに。

 けれど、エドアルトの耳には聞こえているというのなら、彼の後を追うだけだ。

 エドアルトは人ごみを外れ、教会の裏手の方へと回っていく。町にはたくさんの人が出ているけれど、教会の周囲は例外だ。

 ここを訪れるのは、教会に参拝する者か、中で治療を受けている者への見舞客くらいだろう。

 教会の裏は、建物がごちゃごちゃとしている地域だった。

 そこに足を踏み入れかけ、アイリーシャはそこで足を止めてしまう。


(……このあたりって)


 十年前、どこの家に連れ込まれたのか覚えているわけではない。けれど、逃げ出した時、同じような街並みを見た記憶があった。

 ぶるぶると頭を振って、あの時のことを頭から追い払う。


(大丈夫、大丈夫――だって、私は、あの時よりも強い!)


 エドアルトは、右手の方に曲がっていく。彼の後に続こうとして、アイリーシャの耳にも聞こえてきた。

 激しい犬の鳴き声だ。


「――ルル!」


 エドアルトを追ってその路地に入り込んだ時――そこでの光景に既視感を覚える。


(これは……)


 道端に倒れていたのは若い男だった。そして、その側で鳴き声を上げているルル。

 公爵邸の中を流れる小川のほとりと下町と。場所も違う。倒れているのも男女で違う。

 ――けれど。

 倒れている青年の側にかがみこんだエドアルトは、唇を引き結んで立ち上がった。


「呼吸はしている、脈もある――意識がない。同じだ」

「……なんで?」


 思わず呆然とつぶやいた。前回といい、今回といい。

 どうして、ルルは人が倒れているのに気付いたのだろう。


「すぐそこが教会だ。教会に協力を仰いで、中に運ぼう」


 教会に務めている神官の中には、医師の資格を持つ者もいる。一番近くで医師を見つけられるとしたら、すぐそこだ。

 アイリーシャが青年に付き添っている間に、エドアルトは教会まで自ら足を運び、医師を呼んでくれた。

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