十年目のラベンダー祭り

 アイリーシャの誕生日からひと月が過ぎようとしているけれど、あの日倒れたバーデン伯爵家の娘、アデルの意識はまだ戻らないらしい。


「……え? アデル嬢、まだ意識が戻らないの? 教会に行ったのに?」


 父からそう聞かされて、アイリーシャは目を見張った。

 自分の誕生日に倒れたということで、責任感を覚えたアイリーシャも見舞いに行ったけれど、教会に運んで治療を受けているということで、会うことはできなかった。


(お医者様では治療ができないから、教会に運んだと聞いていたけれど……)


 四大属性魔術の中にも、肉体をいやすための魔術は存在する。

 そして、創世神を奉る教会の神官達は、回復魔術を得意とする者が多かった。


「教会でも、原因は不明なんですか?」

「ああ――極端に生命力が落ちているそうだ。今は、教会の神官達が、朝晩回復魔術をかけることによって、どうにか命を長らえているというところらしい」

「……そう」


 アイリーシャの表情が曇った。

 ゲーム内にて、モニカが使用していた神聖魔術の使い手は、今は存在しないとされている。

 魔神が出現するならば、知識はあった方がいいだろう。

 アイリーシャなら使うことができると思って、資料を探してみたけれど、魔術研究所の資料室にも、神聖魔術を使えるようになる方法については記されていなかった。

 表情を曇らせた娘を気遣うように、父が肩に手を載せる。


「それより、祭りを見学に行くんだろう。気を付けて行ってきなさい」

「はい、お父様」


 十年前、ちょうどこのラベンダー祭りの日に拉致されたから、両親は嫌がるだろうと思っていたけれど、今のアイリーシャは違う。自分の身ぐらい守ることができるからと外出の許可が下りた。遠巻きに、護衛もついてくれるから安心だ。


(アデル嬢にポプリとか探そうかしら。眠っている間も、香りは感じられるかもしれないし)


 教会に届けたら、彼女の枕元に置いてもらえるだろう。

 食べ物を届けても食べられないし、美しい花も見ることはできない。でも、香りならきっと楽しむことができる。

 アイリーシャが馬車を降りた時には、街はもう多数の人でにぎわっていた。


「夕方、別宅の方に迎えに来てね」

「かしこまりました」


 御者と待ち合わせ場所を打ち合わせてから、ぐるりと周囲を見回す。

王宮前の広場には、たくさんの屋台が出ていた。

この景色が、懐かしい。十年前、たった一度見ただけなのに、こんなにも懐かしく感じられるのはなぜだろう。

アイリーシャは、屋台に足を進めた。可愛らしい袋につめられたポプリだの、アロマスプレーだの、ラベンダーを含む商品がずらりと並んでいる。


「お嬢さん、これなんてどう?」

「友人に贈りたいの。もっと、可愛らしい感じの……」


 屋台の一つで、あれこれと商品を見比べていたら、ぽんと肩を叩かれた。


(まさか、ナンパ?)


 日頃、ナンパなんて縁のない世界で暮らしているが、今日は違う。

 アイリーシャも、貴族の娘には見えない服を着ているから、単に声をかけようと思う者がいても不思議ではない。

けれど、ナンパを警戒しながら後ろを振り返り、そこでアイリーシャは固まった。


(どうして、なぜ)


声に出さなかっただけ、誉めてほしい。そこに立っていたのは、エドアルトだった。


「で、殿下……?」


 そう声にすると、彼はしっと人差し指を唇に当てた。


「今日、ここに来ると思っていたんだ」


 なぜ、そう思う。

思わず、じっとりとした目をしてしまう。たぶん、父親か誰かに聞いたのだろう。


「エドアルト」

「……はい?」

「今日はそう呼んでほしい」


 そんなことを言われても。

だが、エドアルトは、アイリーシャと同じように庶民と区別のつかない服装だ。これって、お忍びと言うやつではないだろうか。


「……でも」

「護衛はちゃんとついている、問題ない」

「そういう問題じゃ……」


 たしかに、エドアルトは強い。アイリーシャもそれは知っている。アイリーシャにも護衛はついているから、十年前のような危険はないはずだ。

――けれど。

 それで問題ないと言われても困る。


「あのですね、殿下。どうして……」

「名前で呼べと言ったのに」


 じっと見られて、思わず赤面した。おまけに手まで取られてしまって、ますます顔が熱くなる。

 どうして、と心の中で繰り返す。

 なぜ、他の人とは違う対応をされるのだろう。


「わ、私、買いたいものがあって、ここに来てるんです……」


 懸命に訴えると、はっとしたように彼は手を離した。

そのすきにアイリーシャは、屋台の店主の方に向き直る。店主は二人を見てにやにやとしていた。


「あらあら、恋人が迎えにきた?」

「そう言うんじゃ、ありません……! ええと、そちらのピンクの袋と、水色の袋と……アロマスプレーもください。二本」


 エドアルトの登場で、計画が狂ってしまった。

アイリーシャは代金を支払うと、受け取った品を手にしていた籠に押し込む。


「――用はすみました! 殿下――エドアルト様」


 どうして、ここに彼がいるのだろうという疑問は、やはり頭の中をぐるぐると回ったまま。

アイリーシャの手を引いて、エドアルトは歩き始める。


「君が誘拐されたのは、十年前だったな」

「そうですよ、このお祭りの当日です。でも……怖くはなかったんですよね。一緒に誘拐されたお兄さんが、優しくしてくれたから」


 あの時の少年は、どこの誰だったのか。アイリーシャはそれを教えてもらっていない。

父にたずねたけれど、名前を教えてもらえなかったのだ。

だから、お忍びで来ていた外国の貴族とかそういう人なのだろうと思っている。下手に名前を知ってしまうと、国際問題に発展するような相手。


(元気で、生きていてくれればそれでいい……きっと、優しい人になっているんだろうな)


 あの時の彼は、アイリーシャを懸命に慰めようとしてくれた。

アイリーシャが、実際のところは五歳より精神年齢が高かったからこそあの程度ですんでいたのであって、中身も五歳児であったら、あの場でわぁわぁ泣いていたのは間違いのないところだ。

 さほど不安にならなかったのは、彼と身を寄せ合っていたおかげだろう。


「一緒に誘拐された相手のことを覚えているのか」

「殿下」


 そう言いかけたら、目つきが若干鋭くなった。


「ええと、エドアルト様。正確に覚えているわけじゃないんですけど――でも、誘拐されたのは、あのあたりだった気がします」


 あの男の子が一緒に誘拐されたアイリーシャを、懸命に気遣ってくれたのは覚えている。

あの時、絶対に彼を守らないといけないと思ったことも。

 アイリーシャには魔力を暴発させる程度の能力の持ち主という噂はついてしまったけれど、実際にはきちんと制御していたわけで、問題はないと思っている。

それに、あの事件がきっかけでミカルに指導をしてもらえたのだから、よかったと言えばよかったのだ。

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