不安の始まり
(……嘘っ!)
アイリーシャは青ざめた。この屋敷で暮らしている犬はルルだけだ。そして、今の鳴き声は、間違いなく家の中からではない。
(また、脱走しちゃったの……!)
さっき、言い聞かせたばかりだというのに、まったく通じていなかっただろうか。
だが、あの鳴き声はただ事ではない。
「殿下、申し訳ないのですが」
「わかった。俺も行く」
違う、そうではない。
もう馬車のすぐ近くまで来ているのだから、このまま乗ってもらってよかったのに。
というか、次の予定があったのではないだろうか。
だが、アイリーシャが口を挟む前にエドアルトは身をひるがえしている。
ルルの首輪と対になる水晶は、部屋に置いてきてしまっていたけれど、これだけ激しく鳴き声が聞こえてくるのだからそちらに行けば問題ない。
「犬を飼い始めたと、ノルベルトが言っていたが、その犬か。どれだけ閉じ込めても逃げ出してしまう、と」
「そうなんです。ミカル先生にお願いして、探すための装置を作ることになりました」
声の方に大急ぎで向かう。
公爵邸の庭園は、庭には池や小川まである贅沢なつくりだ。その小川の側に、一人の少女が倒れていた。
ピンクのドレスが地面に広がり、その側で、ルルが激しい声を上げている。
アイリーシャ達が近づくのを見て、ようやくルルは鳴くのをやめた。
「なんで!」
思わず、声が漏れる。
(……招待客よね、彼女……)
招待客が、なぜ、このようなところに倒れているのだろう。
「気をしっかりもってください、大丈夫ですか?」
アイリーシャは彼女の側にかがみこんだ。
エドアルトも同じようにアイリーシャの側にかがみこむ。声をかけたが返事はないと知ると、手首をとって脈を確認し始めた。
よく見れば、わずかに胸が上下している。だが、エドアルトの問いかけには、ピクリとも反応しなかった。
「怪我はなさそうだ。だが、頭を打っている可能性がある。医師が来るまで下手に動かさない方がいい」
今日は暖かいが、地面に倒れている彼女の身体は冷え始めている。エドアルトは、自分のマントを脱いで、彼女の身体にかけていた。
「す、すぐに手配します」
使用人を呼ぼうと見回すと、騒ぎに気付いたらしい父がこちらに向かってくるのが見えた。
「殿下、お騒がせして申し訳ありません。アイリーシャ、何があった」
「お父様、急病人のようです。お医者様を手配してください」
父にうなずいて見せたエドアルトは、ルルの方に向き直った。
「――人が倒れているのに気づいて、声を上げたというわけか。お前は、賢いな」
誉められたことはわかったらしく、ルルはエドアルトに尾を振っている。頭を撫でられても、嫌がる気配はなかった。
(そうよね、ルルは賢い。毎回部屋から脱走するくらいだもの……脱走は困るんだけど)
ルルの頭を撫でているエドアルトの目元が、ほんの少し柔らかくなっている。
"氷"と彼のことを呼ぶ人も多いけれど、気を許していい相手として認識されていないだけではないだろうか。
だって、アイリーシャの兄と一緒にいる時とか。今、こうやってルルを撫でているところとか。
わかりにくいかもしれないけれど、確かに彼の表情は変化している。ヴァレリアにしているように、最初から壁を作っているわけでもない。
「まあ、アデル!」
気がついたら多数の人が集まっていて、その人の輪の間から、女性の声がする。
そちらに振り返ってみると、倒れている少女とよく似た顔立ちの女性が、両手を口に当てているのが見えた。どうやら、母親のようだ。
「今、医師を手配したところだ。落ち着いて……側に付き添ってあげるといい」
エドアルトが声をかけ、女性は急いでこちらに近寄ってくる。
(アデル……と言えば、バーデン伯爵家の令嬢ね)
アイリーシャはまだ面識がなかったが、招待客の名前は頭の中に叩きこんである。今日、他にアデルと言う名の招待客はいないから、バーデン家の娘で間違いないだろう。
その前に、集まっている人達をどうにかしなければ。
「皆さんは、あちらでお待ちください。気分が悪くなっただけのようですから」
おそらく貧血か何かを起こして倒れたのだろう。コルセットをきつく締めあげている貴族の令嬢にはしばしば見られることだ。
そう納得した招待客達は、思い思いに散っていく。父も、他の招待客に事情を説明するために戻っていった。
「殿下は、次の予定があったのでは?」
「遅れると連絡させた。問題ない。こちらの様子を確認してからだ」
エドアルトは、バーデン伯爵夫人の側に付き添っている。特に声をかけるような真似はしなかったけれど、夫人はエドアルトが付き添っていることでずいぶん安心したようだ。
大急ぎで呼ばれた医師が駆けつけ、動かしても問題ないと判断されてから邸内に運び込んだ。
「たいしたことがなさそうでよかった。では、アイリーシャ嬢、失礼する」
「あ、はい!」
倒れたアデルが部屋に運ばれ、落ち着くのを確認してから、エドアルトは屋敷を後にした。
彼を見送ってから気づく。
(……そう言えば、殿下は何か言おうとしていたんじゃ……?)
ちょうどルルの鳴き声が聞こえたから、話は中断してしまったけれど、エドアルトは何か話そうとしていた気がする。
話さずに行ってしまったということは、たぶんたいした話ではなかったのだろう。
(……やっぱり)
氷と言われているから誤解しそうになるけれど、エドアルトの胸にはちゃんと温かいものがある。彼なら、この国をきっと盛り立てて行ってくれる。
その場の空気を読んだのか、ルルはアデルが運ばれていく間もおとなしく座っていた。
アイリーシャは、ルルの方を振り返った。
「あなたは、部屋に戻ってもらうわよ。どうしてこう脱走癖がついてしまったのかしら」
指を振って見せると、しゅんとして尾を丸める。
こうして、アイリーシャの誕生日は、少々不幸な出来事があったにせよ成功に終わった――と思っていたけれど。
物事は思いがけない方向に進み始めているということに、誰も気づいていなかった。
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