十年後――卒業

「お嬢様、どちらにいらっしゃるのですか?」


 乳母の呼ぶ声が聞こえる。


(……そろそろ、先生の来る時間だった!)


 アイリーシャは、四阿から飛び出した。


「ごめんなさい、ばあや。四阿で本を読んでいたの」


 アイリーシャが都を去って十年。まもなく、十五歳の誕生日を迎えようとしている。


「お嬢様は、本当に隠れるのがお上手だから……」


 五歳の誕生日、側にいた乳母もまだ現役だ。アイリーシャが結婚したら、嫁ぎ先までついてくるつもりらしい。

あれから十年の間、ひたすらに修行を積み、アイリーシャは"隠密"スキルを限界まで高めることに成功した。

今では、まったく人の目につくことなく、堂々と歩き回ることができる。常に気配を殺しているために、すっかり影の薄い人間になってしまった。


(修行の成果は出ているんだけど……首都に戻ったら今のままってわけにもいかないわよねぇ……)


 領地にいる間は、人の目につくことはない。今の生活は気に入っているのだが、そろそろ首都に戻らねばならないという話も出始めている。


(最近、神様も来なくなったし……)


 隠密スキルを限界まで極めるまでは、神様は側にいてくれたけれど、ここ一年ほどは姿を見ていない。

 今のところ、不自由は感じていないからいいのだが。


「本はお部屋に戻しておきます。先生はもうお待ちですよ」

「大変、急がないと!」


 足早にアイリーシャは、庭園を進む。

魔術の勉強をするために用意されているのは、庭園の奥、目立たない場所に設けられた訓練所だった。

五歳にして、建物の屋根を吹き飛ばしてしまったアイリーシャのために、ミカル自ら用意したものだ。厳重に結界が張られていて、中の魔術も結界の外には影響を及ぼさないようにされている。


「先生、お待たせしてしまってごめんなさい!」

「いえ、私も少しばかり早く来てしまったので」


 訓練所に駆け込むと、ミカルは穏やかな笑みを向けた。

 十年前に会った時から比べると、成熟した大人へと変化していた。穏やかな笑みは変わらないが、物腰に落ち着きが増している。


「アイリーシャ様、では始めましょうか」

「はい!」


 アイリーシャは知っている。ミカルは思ったほどアイリーシャが成長していないことに内心がっかりしているのだ、と。

五歳の時、魔術を暴発させてしまったのは、あの時ただ一度の偶然である、ということも。

 実際には、暴発させたのではなく細心の注意を払って発動させたのであるが、大人達はそんなことは知らない。


(三日に一度、ここまで通ってくださったのにね)


 アイリーシャは、非常に優等生的と言えばいいのだろうか。

 四大属性魔術すべてを使いこなすことができる。だが、いずれも秀才どまりであって、天才ではない。

アイリーシャの場合、すべてが平均点以上でありながら、平均以上でしかない。そこそこでしかなく、天才の域に達しているものはなに一つない。それは、かつて首都で民家の天井を吹き飛ばしたアイリーシャが期待されるには、あまりにも凡庸な結果でしかなかった。


(もう少ししたら、神聖魔術に目覚めるって神様は言っていたけれど……)


 最後に会った時、神様はそう言っていた。それがいつのことになるのかまでは教えてもらっていない。


「では、この的を射抜いてください」

「はい、先生」


 訓練所の端に、アイリーシャは立つ。訓練所の壁には、四枚の的が取り付けられていた。


「炎の矢よ、射抜け! 水の槍よ、貫き通せ! 風の刃よ、切り裂け! 土の拳よ、押しつぶせ!」


 四大属性の魔術を次から次へと放つ。アイリーシャの魔術は正確だった。口早に紡がれた魔術は、左から順に的を射抜く。

だが、いずれの的も壁に固定されたまま。もっと勢いのある魔術師なら、的そのものを破壊できるともいう。


「やはり、正確。そして発動までが速い。そこが、アイリーシャ様のよいところでしょうね。それに魔力の量が多い。適切なタイミングを見計らって発動することができる」

「……はい」


 アイリーシャの長所は、魔力が多いことと、正確に魔術を発動できることだ。そして、発動までの時間も短い。

本来魔術は短い呪文を詠唱することで発動しているけれど、最近では無詠唱で発動できないか工夫しているところだ。

 無詠唱で魔術を発動できる人はそう多くない。さらには威力が落ちてしまうのだ。


「先生、お手本を見せていただけませんか?」

「かまいませんよ」


 アイリーシャの頼みに応じ、ミカルは的を見据えた。彼は何も口にしない。

だが、次から次へと的に魔術が炸裂する。的が破壊されなかったのは、彼が威力を抑えているからだ。


「すごい」


 アイリーシャの口から、素直に感嘆の言葉が漏れた。さすが、十五の年には、宮中魔術師として王宮に務めていただけのことはある。

 だが、彼にも欠点はあった。体内にためることのできる魔力が、今のアイリーシャと比べると圧倒的に少ないのだ。

訓練で多少増やすことはできるけれど、こればかりは天性のものでどうしようもないらしい。


「その分、威力を高める方に専念しているのですよ。敵を先に倒さなければなりませんからね」


 ミカルはにっこりとする。

魔術の使い方は、工夫次第。それを教えてくれたのも、ミカルだった。


「今日で、卒業にいたしましょう。私がお教えすることはもうないようです。あとは、アイリーシャ様の、訓練次第」

「いいんですか?」

「ええ。心配していた魔術の暴走もありませんし、完璧に制御なさっておいでです。ここまで完璧に制御できるようになるのは、大変だったでしょう」

「ええ、まあ……」


 うっかり遠い目になってしまった。訓練は、本当に、本当に、本当に大変だった。

神は、アイリーシャに細かく指導した。隠密スキルを高めるのに、魔力の制御は必須だったから、アイリーシャとしても必死にやらなければならなかった。

石を背中に背負って十キロ走らされたりとか、水の中に潜って一時間耐える――呼吸は魔術で制御する――とか、本当に本当に大変だった。

ミカルの前では、そんな過酷なことをしているなんて見せなかったけれど、ここまで来たのには、『人目につきたくない』というアイリーシャの願いがあったからである。


「王宮においでになっても、魔術を暴走させることもないでしょう――陛下も、アイリーシャ様の成長をお喜びですよ」

「ありがとうございます、先生」


 王宮に戻るのは残念だけれど、もう、完璧に身をひそめることができる。社交上の付き合いは最低限にし、地味に立たず過ごすことにしよう。



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