誘拐犯から逃げましょう
涙に濡れた目をごしごしとこすり、気合を入れなおす。
(たぶん、神様が助けに来てくれるってことはなさそうだそうし……そうなると……逃げ出すチャンスを狙う、しかないかな……)
この一か月の間、必死に"隠密"スキルを磨いてきた。他に男達の目を向けることができたなら、その隙をつくことはできると思う。
(私一人なら、なんとかなりそうな気もするんだけど……)
けれど、この男の子を残して出ていくのは心配だ。アイリーシャは本命の獲物ではなかったようだけど、残った彼がひどい目にあわされるのは確実だ。
(どうやって、男達の意識を集中させる?)
考え込んでいたから、アイリーシャは男の子が自分に興味深そうな目を向けているのにまったく気づいていなかった。
「――ねえ」
「な、何?」
声をかけられると思っていなかったから、うっかり飛び上がる。
「脅かすつもりはなかったんだ――ごめん。それと……巻き込んで、ごめん」
申し訳なさそうに、男の子はうつむいた。
「大丈夫、あなた――お兄さんのせいじゃない」
アイリーシャの言葉に、彼は驚いたように目を見張った。
(私、落ち着き過ぎてる……かな)
こう自分を取り戻しかけているあたり、だいぶ落ち着いてきたのだろう。アイリーシャをまじまじと見ていた男の子は、もう一度頭を下げた。
「巻き込んでごめん、本当にごめん。謝ってすむ話じゃないけれど」
彼は、アイリーシャを巻き込んだことを、心底後悔しているようだった。
「ちょっと護衛をまいたら、面白いかなって思っただけなんだ……」
あー、と心の中で唸る。
たぶん、彼からしたらちょっとした冒険心。人が多数いる広場で多少離れたところで、問題はないと思っていた。
母とはぐれたアイリーシャも、すぐに合流できるだろうと思っていたし、気持ちはわからなくもない。
まあ、普通の五歳児なら塀の上によじ登って母を待つのではなく、あの場でわぁわぁ大泣きしていただろうけど。
(……それにしても、この子、どういう理由で誘拐されたのかしら)
アイリーシャはちらりと男の子の様子をうかがった。
清潔感のある黒い髪。身に着けている茶の上着もズボンも上質のものだ。白いシャツの襟のところにラベンダー色の刺繍が施させている。
アイリーシャ同様、貴族の出身、もしくは資産家の家の息子。身代金目的の誘拐だろうか。
「……ラベンダーの香りがする。そうだ、さっきポプリを買ったんだった」
アイリーシャを落ち着けようとしたのか、不意に男の子が話題を変える。
男の子のポケットには、ラベンダーの詰められた小袋が入っていた。赤い袋は、アイリーシャの手にすっぽりと入る程度の大きさだ。
「リーシャも買ったけど、お母様に渡しちゃった」
「そうか。リーシャは、どの花が好き? 僕は、ひまわりかな」
「スイートピー……かな、ピンクが一番好き」
「スイートピーもいいね。それから?」
「うーん、薔薇も好き。お母様がお風呂に入れてくれるの」
「薔薇はいい香りがするね」
「でも、ジャムはおいしくないの。知ってた?」
母は、薔薇のジャムが好きで公爵邸ではしばしば茶の時間に出される。けれど、アイリーシャはジャムにした時、口内に広がる香りは苦手だった。
そんな話をしているうちに、男の子との距離が近くなってきた。
「本当に、ごめんね……君だけでも逃がしてあげられたらいいんだけど」
どこまでも、この男の子は紳士なようだ。自分だって、どうなるかわからないというのに。
「ねえ、お兄さん。リーシャ、隠れんぼ得意よ? リーシャが隠れたら、誰も見つけられないの」
「かくれんぼが得意?」
「うん。かくれんぼすると、誰も気づかないの。すぐ前にいるのにねぇ」
いきなり何を言い出すのかと思っていたらしく、彼は怪訝な顔になる。
(……本当はあまり好ましくないんだけど、この際しかたないわよね)
立場は公爵令嬢でも、徹底的に存在感を消したら、モブ的にその他大勢の一人として生きていくことも可能じゃないかと思っていた。
そのため、身に着けたスキルについては、隠しておくつもりでいたけれど……まあ、あとのことは、帰ってから考えることにしよう。無事に帰れるかどうかもわからないのだし。
「あっち見て」
アイリーシャの指が向いた方向に、彼の目が向く。そして、彼の注意がこちらに戻ってくる前に、こそりと立ち上がり、壁に密着してスキルを発動した。
「……あれ?」
すぐ側にいるはずのアイリーシャが、どこにも見えないらしい。実際のところは、壁にぺたりと張りついて、できるだけ小さくなっているだけだ。
「……お兄さんも見えなくなってる?」
「うん、君、どこにいるの」
アイリーシャは、"隠密"スキルを解除して、男の子の隣に戻る。彼は、びっくりしたように目を丸くした。
「リーシャ、かくれんぼ得意って言ったでしょ? リーシャと手を繋いでいたら、お兄さんも見えなくなるよ」
アイリーシャがそう言うと、彼は考え込む表情になった。
「僕達は縛られていない……ということは、チャンスをうかがえば、逃げ出す機会は十分あるということか」
この家の外に出てしまえば、彼かアイリーシャを探している人に援護を求めることもできるだろう。
見た目の年齢通り、二人そろってわあわあ泣いていたら、逃げ出す算段なんてできるはずもない。
「音は出しちゃダメ。見えなくなるだけなの」
「わかった」
"隠密"はあくまでも気配を殺すためだけのものである。
呼吸もできるだけ密かに行わなければならないのだ。目の前にいるのに認知されない、そのためのものだから、存在を限界まで希薄にしなければならない。
「わかった」
でも、彼の様子なら大丈夫だろう。
改めて窓の外をうかがってみる。どうやらここは、下町にある一軒家のようだ。遠くから、祭りの喧騒が聞こえてくる。
(……人波に紛れ込むっていうのもありかな)
男の子の方を振り返る。
「……そのうち、きっと逃げるチャンスがあるわよ」
部屋の扉が開かれたら、逃げるチャンスだ。アイリーシャは、彼の側によって、ぎゅっと手を掴んだ。
(……あ、やっぱり怖いんだ)
彼の手は、汗でじんわりとしている。年下の子の前で、怖がっている様子を見せてはいけないと懸命なのだろう。
(なんとかして、ここから逃げなくちゃ)
絶対に、ここから逃げ出すのだ。男の子も一緒に。
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