うっかり拉致されてしまったらしい

 こういう時は焦ってもしかたないのだ。馬車を追う人達をよけて、、邪魔にならない場所に移動する。

鼻をかすめるラベンダーの香りに、妙に心が落ち着くのは、前世でもラベンダーの香りを愛用していたからかもしれない。


(今は不眠には悩まされてないんだけど)


 前世では、両親の期待を裏切れなかった。

 友人達の期待も、先生の期待も。常にぴんと張り詰めていた気持ちを、寝る前だけは安らかにしたい。そう思って、ラベンダーのポプリを部屋に置くようになったのだった。

今となっては、まったく必要はないけれど――。


(お母様、どのあたりにいるのかしら)


 母もアイリーシャがいなくなったことに気づいているだろう。もうちょっと人が少なくなれば、あちらから見つけてくれるはずだ。


(……護衛にも見つけてもらいやすくした方がいいだろうし、高くて目立つ場所に移動した方がいいかな)


行儀は悪いけれど、民家の塀に登らせてもらおうと思っていたら、不意に目にとんでもない光景が飛び込んできた。


(……あれ?)


 祭りの華やかな雰囲気からすると、ちょっと地味過ぎる装いの男達。なぜか、胸騒ぎがして彼らの動向を目で追った。

 彼らは、アイリーシャの目の前で、妙に手際よく男の子の口を塞ぐ。男の子はじたばたしていたけれど、あっという間に馬車に押し込まれてしまった。


(ゆ、誘拐……!)


 目を離すことができないでいたら、男達のうちの一人とばっちり目が合ってしまう。


「――ひ、人さら――」


 声を上げる間もなく、一瞬にして、男はアイリーシャのすぐ側まで近づく。


「きゃあああっ!」


 悲鳴は、男の大きな手によって塞がれる。

 そのまま担ぎ上げられたかと思ったら、アイリーシャも馬車に押し込まれてしまった。


「なんだよ、そいつ」

「そこで、見てたんだよ。誰か呼ばれたら、面倒なことになるだろ?」

「それもそうか」

「やだ、帰る! 離して!」


 じたばた暴れるけれど、五歳児の力で大の大人にかなうはずもない。あっという間にぐるぐる巻きにされてしまい、そのまま口に布を押し込まれた。


「んー! んむぅ!」

「おとなしくしてろ! 痛い目にあいたいのか!」


 足をばたつかせて蹴ろうとしたら、男に一喝された。びくりとして、アイリーシャは身を縮めた。


(こいつら、いったい何なの……! お母様の手を離すんじゃなかった……)


 前世の記憶が戻ってから、屋敷の外に出るのは初めてだった。目に映るものすべてが新鮮で、必要以上にはしゃいでいた自覚もある。


(……こんなところで死ぬの?)


 そう思ったら、ぽろっと涙が零れた。一度涙があふれてしまったら止まらなくて、そのままぼろぼろと涙を流す。

 馬車が揺れて、ごつんと床に頭を打ち付ける。縛られた手では身体を支えることもできなくて、また新しい涙が溢れてきた。

どこをどう走ったのかもわからない。馬車は永遠とも思えるほど長い時間走り続け、ようやく止まった。


「それじゃ、荷物を下ろすとするか」


 目を塞がれているから、周囲の状況がわからない。担がれ、馬車から降ろされる。


「一人多いじゃないか。どうしたんだよ」


 今まで聞こえなかった声が聞こえてきた。どうやら、ここで待っている男がいたようだ。


「しかたないだろ、誘拐の現場を見られたんだ。まあ、部屋に入ったらゆっくり見てくれよ。高く売れそうだぞ」


 今度は外階段を登る。逆らう元気もなくて、男に担がれるままだった。


(皆、きっと心配してる……)


 母の手を離すんじゃなかった。アイリーシャが誘拐されたことで、母は責任を感じているのではないだろうか。

ひっくひっくと泣いていたら、柔らかなベッドの上に放り出された。それからもう一度ベッドがきしんで誰かが隣に投げ出される。


「いいか、声を出すんじゃないぞ。窒息したら面倒だから、布は外すぞ。大きな声を出したら、殴るからな」


 こくこくとうなずけば、目隠しと口に押し込まれていた布が外される。

 隣に目をやれば、そこにいたのはアイリーシャ同様、ぐるぐると縛られた男の子だった。正面から目が合い、男の子は情けなさそうに眉を下げた。


「いいか? おとなしくしているなら、縄は解いてやる。約束できるか?」


 そう声をかけてきたのは、この家で待っていたらしい男だった。どうやら、この男が指導者的立場のようだ。

 アイリーシャの目の前で、男がわざとらしくナイフをひらひらとさせたので、アイリーシャはまた、こくこくと首を振った。隣の男の子も、うんうんとうなずいている。

手足を拘束していた縄をぽいっと放り出すと、まじまじとアイリーシャの顔を見つめた。


「これはまた……いい商品だな。大人になるのが楽しみだ。高く売れそうだ」


 顎に手をかけられ、背筋がぞくりとする。


(……この人達、人身売買をしているの……!)


 また、じわじわと目に涙が浮かんできた。

 隣にいる男の子が、少しばかりアイリーシャの方に身を寄せてくる。力づけるように、腕に手をかけられ、ようやく息を吐きだした。


「そっちの坊主もおとなしくしておけ。いいな」


 そちらには視線をやらなかったから、男の子がどう返したのかはわからない。けれど、かすかに首を振る気配がした。

 おとなしくしている二人の様子に満足したらしく、男は部屋を出ていく。声を潜めるつもりはないらしく、隣の部屋の会話がここまで聞こえてくる。


「娘の方は、どうするんだよ?」

「いつものやつに連絡すれば、すぐに買い手はつくだろ。どうせ、警備が緩くなるまでは逃げ出せない」

「そうだな、しばらくは動けないし……あれだけの美貌なら、欲しがるやつは山ほどいるか」


 縄を解かれたことで、ようやく落ち着きを取り戻したアイリーシャは、男達の会話をしっかりと記憶した。

今日頼まれた商品。たぶん、これは一緒に誘拐された男の子のことだ。

それともうひとつわかったこと。

いつものやつ――ということは、たぶん、こういった取引をするのに決まった相手がいるということ。

一緒にいる男の子は、誰かに頼まれて誘拐してきたということだ。


(引き渡しに時間がかかるってことは……)


 たぶん、今は祭りの真っ最中で、首都から出ていく人がほとんどいないからだ。今出ていくのは目立つ。

それに誘拐犯がいつまでも首都にとどまっているなんて普通は思わないだろう。すでに、街から出る街道は厳重に警戒されているかもしれない。

三日後には祭りも終わるし、それさえ過ぎてしまえば、都の外に出るのもさほど難しくはないだろう。

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