逃亡

桜雪

第1話


 せせこましい部屋にぽつり、わたし「たち」は体育座りをしながら、

「何か」を待ち続けている。

明日が来るのが怖い。だからといって今日のままなのも怖い。

独りになるのは怖い。だからといって誰かといるのも怖い。

わたし「たち」はずっと何かに怖気付続けては自己の世界に閉じこもり

いまかいまかとその「何か」が訪れるまでひっそりと息をしている。

「わたし」はパンを一口齧り、賞味期限切れのワインをラッパ飲みする。

ああ、今日も今日とて快晴か。

撥ねた髪を整えるでもなく「わたし」はラッキーストライクの箱を手にし、

外へと足を運ぶ。

いつになってもストライクは入らず、デッドボールを受けてばかりだ。

否、自らストライクの球に当たりに行っているといったほうが的確か?

最寄りの公園内にある椅子に腰掛け、

タバコを一本取り出し、火をつけ、吸い込み、

「わたし」は空をぼーっと見上げる。

空の蒼さと日差しの眩しさでつーっと透明な血が流れ、強烈な吐き気が催す。

そう、いつだって「わたし」は透明だ。ワインなぞ慣れたもんじゃない。

色がついたところで「わたし」は「わたし」のまま、変わるわけもなし

「何か」は自ら近づいていかない限り到来するはずもない。

「お嬢ちゃん、こんなところで一人で塞ぎ込んで、何か悩みごとでもあるのかい?」声のする方を見上げると見知らぬ老夫婦が立っていた。「わたし」は静かに頷く。「あ、そうだそうだ、婆さんや、さっきもらってきたばっかりのアレ、このお嬢ちゃんに一つくれてやったらどうじゃ」

「そうやねえ、こんなにも数が多いと食べ切る前に腐らせちまうしねえ」

「わたし」は吸い殻をコンクリートの床に擦り付け、ただ老夫婦が話しているその光景を眺めていた。

「ほら、これでもお食べ」

そうやって老婆は「わたし」に桃を差し出した。

「悩んでいるときゃあ糖分をちょいっと入れてやると悩みの種は根っこから飛んでいくさね。そんでその種があった場所から“いいこと”が芽吹いて気づいたら花が咲くのさ。」

「わしらはそうやってこんなにヨボヨボになるまで生きてきてるんじゃ」

「ほんまに」

笑い合う老夫婦は蜃気楼に溶け、夏風に包まれ消えていった。桃を一玉足元に残したまま。

「わたし」はそれを拾い上げ、しばらく眺め続けた。

そうか。

「わたし」は無性に笑いが抑えられず身体の震えが止まらなくなった。悩み、泣き、叫び、悶え、苦しみ、仕舞いの果てには宗教に染まりつかったこれまでの日々はなんだったんだ。「何か」はもうとっくの昔に「わたし」の目の前に来ていたというのに。大きく息を吸い込み、「わたし」は軽く表面を拭きとり、その桃に齧り付いた。食べ口から溢れ出る桃の果汁をこれでもかというくらいに吸い、啜り、しゃぶり尽くし、「わたし」の咀嚼音で充たされている公園内に種の部分を投げ捨て、「わたし」はその場を立ち退きあのせせこましい部屋に戻った。


セミがわたしを嘲笑うように四方八方で鳴き喚き続けた暮れなずむ夏の日、

「わたし」はわたしから離れた。

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逃亡 桜雪 @REi-Ca

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