第49話 甘味の鬼5
首をかしげながらも、歩みを進める。
(……赤、と申したな。まさか、本当に……?)
「いやいやまさか。その道を極め切った御仁の術を神業と称したり人にあらずと申したりするあれであろう」
通いなれた道を歩いていた太一郎の背が、ぞわりと粟立った。
「む」
咄嗟に長刀に手をかけながらも腰を深く沈める。その瞬間、赤い塊が物凄い勢いで通り過ぎて行った。立っていたなら、間違いなく頭部が蹴られていた。
「ぬおお、今のは何だ?」
その言葉が終わらぬうちに、咄嗟に太一郎は地面に体を投げ出して横へごろごろと転がった。やはり、太一郎の首のあたりをめがけて、赤い何かが鋭く繰り出される。
その何かを、太一郎は奇跡的に視界の隅にとどめていた。
「む、下駄を履いた足か? 太い枝のようでもあったが……赤かったぞ!?」
二度の襲撃をかわされた「赤き塊」はぽーんと飛び跳ねたかと思うと今度は急に降りて太一郎の胸の辺りに落ちてきた。さすがにかわしきれず、太一郎はおのれの腹肉に下駄がめり込むのを見た。
「ぐぎゃあ……何奴じゃあ! 何の謂れがあってわしを攻撃をするのか!」
慌てふためきながらもしっかりと誰何するあたり、さすがこのあたりを取り仕切るやくざの親分である。
だが襲撃者はそれに答えることなく、太一郎の眉間を踏みつけた。
「ぐ……!」
太一郎の悲鳴が終わらないうちに、赤い塊はその姿と気配を消した。
すっかりと気配が遠ざかったのを確認した後、肥えた胸を激しく上下させて身体を起こしながら、太一郎は呟いた。
「英次郎、そなたの言葉は真であった……あれは……異人ではない……」
というか、人でもなさそうである。
ただし太一郎は、自分が思っている以上に世界が広いことを、知っている。
この国へやってきている異人たちは、思いもよらぬ器具や技術、知識を持っている。だからあの攻撃も、単に太一郎が知らない武術や武具の類かもしれない。
それを『化生』の類だと判断するのは早計である。クルチウス商館長に尋ねてみるか、蘭学者に聞いてみるか。
「にしても……恐ろしかった……」
だが、なぜ自分が襲われたのか、皆目見当がつかない。
動揺した己を落ち着かせようと、懐へ手を突っ込んだ太一郎は、今度こそ本当に叫び声をあげた。
「ない! わしの大事な糸切り餅がない! 一大事じゃ!」
慌てて周囲を見回したが、歩きながらでも食べやすいようにと喜一が一口大に切ってくれた餅はひとつも落ちていない。
「ここへ来るまでに落としたか」
探しに戻りたいが、長崎屋へ行かねばならない。しかし、甘味は大好物である。それのために日夜活動に励んでいると言っても過言ではない。
が。
「はあ……致し方ない。クルチウス、金平糖やぼうろを持っているであろうか……」
色とりどりの砂糖菓子や赤い葡萄酒を脳裏に思い浮かべながら、太一郎は長崎屋へと足を向けた。
そのころ長崎屋の二階では、血相を変えた英次郎が足踏みをしていた。
「親分、一大事! 鬼がまた出た!」
窓を開けて通りを見ていたらしく、歩く太一郎を見つけるなり、大声で叫んだ。
「なに? 英次郎、そなたが襲われたのか?」
「襲われた」
大変じゃと呟いた親分は、巨体を揺すって長崎屋の二階へと駆け込んだ。そこにはいつもの面々の他に、衣笠組の若い衆と蘭方医了蘭、それと見慣れぬ若い男がいた。
「英次郎、こちらも鬼、いや、赤き塊じゃ!」
なんと! と叫んで親分の身体を隅々まで検分した英次郎が、無事でよかった、と言った。
クルチウスたちの診察をしたあと、医学書らしきものを手にしていた男――蘭方医・了蘭の弟子だとクルチウスが教えてくれた――が、二人の体を診てくれた。
「親分、それがし、蘭方医に支払う金子は持ち合わせておらぬ」
英次郎が心配顔で言うが、部屋の隅で葡萄酒を煽る了蘭は豪快に笑い飛ばした。
「心配いらぬ。すべてこの親分が支払ってくれる。たっぷりため込んだ金子、世のため人のために使ってもらわねばな。わしはちと、美味い酒と美味い蕎麦と美味い女が欲しゅうなった」
言いながら、親分に向かって手を突き出す。
「……ええい! 業突く張りの上に、欲の権化であるか、生臭蘭方医」
「それのどこが悪い。欲に忠実に生きねば長生きできぬぞ」
親分から金子を毟り取り豪快に笑う蘭方医を前にして英次郎の口はぽかんと開きっぱなしだ。済まぬことです、と、弟子が言う。
「さて親分、このたっぷり肥えた体に救われましたな」
なんと? と、英次郎と太一郎の声が重なった。
「もう少し親分の体が薄ければ、骨が折れて肺腑にささっておったでしょうね」
この骨です、と、若い弟子が人体図を見せながら説明する。
ひっ、と息をのんだ英次郎と太一郎は、そっとお互いの顔を見合わせた。
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