第26話 道場破り1

 ある夏の朝、まだ眠りについたままの衣笠組の戸をどんどんと叩いた青年がいた。

 着物は草臥れた木綿を着流しにしているものの、手入れの行き届いた大小がきちんと腰におさまっている。が、手ぬぐいで頬かむりをし、破れた笠は背中の荷に括り付けられている。どことなくちぐはぐな印象ではあるが、その風体からいえば武家の若者、しかも長の無役で貧乏暮らしが染みついた貧乏御家人のせがれあたりであろう。さては醤油や味噌を買うに事欠いて衣笠組に金を借りに来たか、と道ゆく人は思うとこであるが、それにしては、いささか口上が妙である。


「親分、おれだ! ここを開けろ、疾うに日は昇ったぞ。起きろ!」


 道行く人が、ぎょっとする。

 いかんせんここは、本所深川界隈を取り仕切っている衣笠組の親分一家が住まいする屋敷である。表の看板には「金貸し」とあるが、このあたりで一番の「やくざ」である。そこの戸を遠慮なくどんどん叩き、夜廻ののちに朝寝をしているであろう親分を情け容赦なく起こそうとする者など、お江戸広しといえども滅多にいない。

「おおい、太一郎親分、おらぬのか」

 何度も叫ぶが返事はない。ついに訪問者は、中の様子を伺うために戸にぴた、と、耳をつけた。

「お?」

 すぐそばで立派な鼾が聞こえる。どうやら誰かが戸に凭れ掛かって寝ているらしい。

「おーい、ここを開けてくれ。それがし、暑くてたまらぬ。開けてくれ」

 根気よく叩き続けること十数度。

 ついに、戸の前の人物が目を覚ましたらしい。いかにも眠たそうな声が、

「おい、それがしではわからないぞ、どこの誰か?」

と、誰何した。思ったより若い声――若いどころか、少年のものである。

 ははあ、と訪問者は小さく頷いた。もしかしなくともどこかの長屋で持て余した『厄介者』が親分のところへ預けられているのだろう。はてさて、どうしたらいいものか……と、思いはしたが、とにかく暑い。真夏の日差しが首筋をじりじりと焼いてたまらないのだ。このまま正攻法では開けてはもらえないだろうと考えた訪問者は、にやりと笑って、寝惚けているであろう少年を少しばかり挑発してみることにした。

「それがしのこの声を知らぬとは、さては衣笠組の正規の者ではないな? そっちこそ誰だ」

「なっ、なんだと?」

と、相手の声がとんがった。

「いやいや名乗らずともよいぞ。大方悪さをしすぎて長屋の連中の鼻つまみ者になった洟垂れ小僧であろう」

「だ、だ、誰が洟垂れでい! もっ、もう一遍言ってみやがれ、この野郎!」

 案の定、扉の向こうでは、かーっと頭に血が上ったのであろう少年が刀――といってもせいぜいが匕首だろうが――を構えた気配がした。

 そこで待っていろだの、冥土へ送ってやるだのと、お決まりの科白を喚く。

「わかったわかった、待っていてやるから、ここをあけてくれ」

「うるせぇやい! こんちくしょう!」


 その声を聴いたのだろう、「これっ、幸太!」と叫ぶ声がした。

 次いで、どたどた、と騒々しい足音がする。訪問者は思わず耳を澄ました。いや、澄ますまでもない。この大きな足音は、衣笠組の親分・太一郎の足音であることは疑いようがない。

 縦にも横にも大きく、力士が小柄に見えるほどに丸々と肥えているため、歩くだけでどすどすと派手な音がする。

 音の割に前進しないのだが、本人はとてもとても、急いでいるのである。

 その足音が、ふいに乱れた。

 おやと思う間もなく、ずっでーん、と痛々しい音がし、屋敷が揺れた……ような、気がした。

 訪問者は、慌てた。

「親分!? 大丈夫か!?」

「英次郎、済まぬ……戸を開けようと思うたら……あたた……」

「良い、それがしのことは構わぬ! 怪我は!?」

 いたたたた、と言う声と、どっすんどっすん、とにぎやかな音がする。何が起こったのか嫌でも想像できてしまう。

「ああ、親分……落ち着いて」

「すまぬ、英次郎……。幸太、手を貸せ……足を捻った」

 ふんせ、と少年のかけ声がするが、どたん、と地響きがして少年の悲鳴をもした。いたい、と親分の声もする。

「親分、動いてはならぬ! その場にそっと腰を下ろすか横になるか、じっとするのだ。幸太と申したか、そなたは?」

「だいじょうぶでぇ、この程度で参ったという幸太さまじゃねぇや!」

 痩せ我慢なのか、本当に大丈夫なのか判然としないが、やたら威勢の良い声がした。

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