第16話 曰く付き長屋につき3

 たしかに、駕籠から降りてきたのは洋装の男性たちであった。

 彼らは、はるばる九州から将軍謁見のために江戸までやってきた、ヤン・ドンケル・クルチウス阿蘭陀商館長とその側近たちである。

 とは言え、彼らは頻繁にお忍びで江戸に出てきている。その度に密かに警護を衣笠組に依頼しているので、太一郎たちとは顔見知りである。ゆえに、普段なら「タイチロー、エイジロサン!」「カピタン、元気そうじゃな!」などと朗らかに声をかけ近況を報告しあうのだが、今日は互いに知らんぷりである。

「ただしき日程の江戸参府とは、かくも窮屈なものであるのか……」

 と、英次郎が気の毒そうに言う。

 役人たちがぴりぴりとしているのは、万が一にも攘夷論者による阿蘭陀人への襲撃があっても困るし、カピタン一行が勝手をしても困る。さらに、定められた刻限通りにカピタン一行を動かさねばならないのだから、役人の神経はさぞすり減っていると思われた。

 しかし、常成らざることが起こった。

 商館長たちが、ゆっくりと桜を見始めた。のみならず、太一郎たちの方へと歩いてくる。

「む、何事じゃ」

 と、親分も緊張するが、商館長たちはお絹の前で足を止めた。その中の一番背の高い男が、

「失礼、カピタンが、それはもしや近頃評判のお絹カステラではないか、と言っています」

 流暢な日本語で話しかけた。さすがにお絹の顔がこわばる。すかさず太一郎が、

「お絹さま、彼がクルチウスの部下の、フリシウスです」

 と囁けば、

「ふりしうすさま……ああ、たしか通詞の方ですね」

 とお絹が微笑み、太一郎と英次郎が首肯する。頷き返したお絹が、手にしていた風呂敷包みをすっと一堂の前に差し出した。

「確かに、かすていらにございます」

「コレコレ、コレタベタイ」

 にっ、と、他にわからないようクルチウスたちが口元を緩めた。

 太一郎も英次郎も、わざわざ商館長がお絹に会いに来たのだと、ようやく理解した。英次郎が微かに頭を下げ、カピタンも小さく頷く。

「商館長さま、お初にお目にかかります。佐々木絹にございます。菓子作りは趣味のようなもの、お口にあいますかどうか」

「オキヌサン……エイジロサンのハハウエネ。キレイなヒトね」

 はじめて目の前で見る異国の人であるはずだが、お絹は日頃の笑みを絶やさない。お世話になっております、と、丁寧に頭を下げた。カピタンたちも、お絹を真似て頭を下げる。

 と、そこへ、幾らか遅れていたのか駕籠がもう一丁やってきた。

 ゆっくり止まった駕籠からその人物が降りてきた瞬間、その場の視線が一か所に集まった。

「……女性にょしょう!?」

 と誰かが呟き、

「なんと……」

 人々の口から感嘆の声が漏れた。白い肌に、濃い茶色の髪。瞳は青。これまでに英次郎たちが見たためしのない美形である。

 裾と袖がやたらと膨らんだえんじ色の洋服に身を包み、桜をながめつつカピタン一行の方へ歩いていく。

「エイジロさん、前に約束したデショ。イイコ。マリアと言います」

 フリシウスが英次郎に向かって嬉しそうに言う。

「まりあ……」

「ハイ。日本ニ、キタバカリ」

 カピタンも英次郎に話しかけ、当の英次郎はマリアにすっかり見惚れている。事態を理解した太一郎とお絹は思わず顔を見合わせた。

 にこにこと笑みを浮かべたマリアはカピタンに促されて英次郎の前で、丁寧にあいさつをする。

「しばらく長崎屋にいるので遊びに来てください、とのことですよ。英次郎さん」

 フリシウスが嬉しそうに日本語に訳すと英次郎が真っ赤になりながらも「こちらこそ、よろしくお頼み申す」と返す。

 マリアがころころと笑い、フリシウスを介して会話を重ねる。

 ごほん、と、しかめ面の役人が咳払いをした。マリアはフリシウスに連れられて駕籠へと戻り、お絹が素早くかすていらを包み直してカピタンに渡した。

「お絹さま、これを……」

 傍からさっと冊子がお絹に渡された。誰が渡したものか。役人が「まて!」と見咎める。不躾に冊子の中をあらため不思議な顔をした。

「もしやこれは……菓子の作り方かな?」

 頁を見せられたお絹が、

「はい。おそらくカピタンのお故郷くにの菓子の作り方でしょう」

 と答えると、どうしたことかその役人が嬉しそうな顔をした。

「実はそれがし、お絹かすていらが大好物にござってな」

 まぁ! と、お絹のみならず太一郎や英次郎たちまでもが目を丸くする。

「親分が長崎屋へ持参したものを、カピタンが時々、分けてくださるのじゃ」

「そうでしたか」

「新たなる南蛮菓子、楽しみにしておる」

 ではな、と、一同をぐるっとみた役人は、役人らしくカピタン主従を急かしながら行列へと戻っていった。


 そんな一行の背後を、旅装の男女が俯き加減で足早に通り過ぎたかと思うと、桜の木の根元にどっかりと座り込んだ。

 浪人者とその娘といったところだろうか。娘といっても年のころは六つかそこいらなのだが、二人には「陰」のようなものがまとわりついていて、明らかに草臥れている。

 花見にしては花を見るでもなく、酒も食べ物もない。

 英次郎が二人に気付き、声をかけようと立ち上がりかけた。

「英次郎」

「親分?」

 太一郎が、小さく首を横に振る。今ではない、という意味だと理解した英次郎は、承知した、と頷いて、すぐに目の前の甘味に手を伸ばした。


 旅をしている二人は、色白で大きな目の少女の方を浮羽といい、日に焼けた浪人の方は青葉源太郎という。

 一見すると親子のようだがどこか余所余所しい。

「浮羽、しばらく江戸で普通に暮らさねばならん。路銀が尽きた。仕事は封印だ」

 こくり、頷く浮羽は無表情である。

「さて、清兵衛長屋とは、どこにあるのか……」

 旅に出るときに持ち出した絵図を頼りに江戸の町を歩き回ったが、どうにもこの絵図は大雑把すぎた。江戸に入ってからまったく役に立っていないのだ。

「浮羽、小宵は野宿も覚悟してくれ」

 こくり、こくり。

 浮羽は黙って頷いた。

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