第15話 曰く付き長屋につき2

「それにしても親分、今年はいつになく人出が多いように思うのだが」

 英次郎が首を傾げつつ言う。

 あたりは高揚した人々だらけ、些か声を張り上げねば会話がままならないほどである。日頃は温厚な太一郎が不快感を隠そうともせず大きく頷く。

「それがな、どうしたことか満開の桜の下で宴をするのが、江戸庶民の間に急速に広まったようでな……」

「それでこの馬鹿騒ぎか」

「うむ。とはいえ、桜を見ることもなく酒を飲み騒ぐとは呆れた。ややっ、桜の木に立ち小便とは怪しからん」

 どたどたと酔漢の方へ走る親分を、子分が数人追いかける。親分が手早く子分に指示を出して戻ってくるのを待つほんの僅かな間に、どんどん、と、赤ら顔で千鳥足の酔漢に何度もぶつかられた英次郎は、やれやれと呆れたようにため息をついた。

 昨年までは、ゆっくりと桜の下を歩けた。少なくとも、桜を眺めるゆとりがあった。だからやくざで金貸しの衣笠組は、親分を中心にして大所帯で繰り出し、のんびりしていたはずである。

 ところが今年はどうだ。まっすぐ歩くだけで人にぶつかってしまう。

 そのため、やれ刀がぶつかっただの肩が触れただの、連れの女の尻を触っただのと、小競り合いがあちこちで起きている。

「せっかくの美しい桜が、台無しですね」

 お絹が悲しそうに言う。

 お絹の視線の先では、酔っ払いが一人するすると木の枝に跨り、枝を力任せに揺らして無理に花を散らしている。かと思いきや、木の幹に抱きついていびきをかいたり、惚れた女に見えているのか口説いたりする輩もいる。桜の木々の悲鳴が聞こえてきそうな騒ぎである。

「英次郎、桜の名所というのはな、この飛鳥山だけではないのだぞ」

「む? 八代将軍さまは他にどこを解放なさったんだったかな?」

 はて、と首をかしげる英次郎に、人の良い笑みを浮かべた太一郎がこそっと耳打ちをした。

「なるほど! そういうことか」

 

 一同が移動した先は、意外なことに朱引きの内、しかも衣笠組の縄張りの内側であった。

 でっぷりと肥え過ぎで歩みが遅くなる親分と、そろそろ老齢のお絹を、馴染みの駕籠屋から呼んだ駕籠に乗せてのんびりと春の江戸を移動する。

 当初、駕籠かきに払うものがないからとお絹は遠慮したのだが、太一郎が、

「お絹さまよりほんの少し年若いそれがしが駕籠で楽をしたと知れたら子分どもに示しがつかぬゆえ、それがしも歩きます」

 と言った。

「親分、母上よりかなり若いと思うが……」

「はて、英次郎、それがしはそろそろ四十路。お絹さまはそれよりほんの少し先にお生まれになったと思うておるが……」

 太一郎の本気とも冗談とも取れる言い方に、思わずお絹も笑う。

「母上、駕籠かきに払うくらいの金はここにあります。それよりなにより、親分の歩みに合わせていたら桜の木に着く前に月が出ます」

「しかし英次郎……それはそなたの稼ぎです。たまには何か好きなものを……」

「わたしは構わぬのです。母上こそ、たまには駕籠に乗って楽を……」

 母と息子の会話を聞いていたやくざたちの何人かが、わっと泣き出した。何やら胸を打たれたらしかった。

「お絹さま……どうぞ駕籠に乗ってくだせぇ……」

 子分たちが、懐や胴巻から小銭を次々出して駕籠かきに渡す。困惑して親分を見る佐々木親子に、

「親を思う息子の心、子を思う母の心……それらを学んだ礼金と思うてくだされ」

 と、太一郎が言う。

「わかりました。それではありがたく……」


 一行はゆるゆると進む。

 お絹の方は、駕籠かきとお絹の軽妙な会話が聞こえてくるが、太一郎の方はそうもゆかぬ。

 店で一番の力自慢兄弟が来てくれたが、二人は声をそろえて「親分、痩せてくだせぇ」と悲鳴を上げた。

「おかしい……英次郎とともに剣術道場にも通っておるのに……」

 ぎしぎしと今にも壊れそうな悲鳴を上げる駕籠そのものを案じながら、英次郎は太一郎の駕籠傍についた。

「親分、クルチ……いや商館長らしき一行がいつの間にか後ろに……」

「構わぬ、わしらと行き先は同じであろう。素知らぬ顔をしておけばよい」

「彼らはいつも江戸にいるような気がするな」

「此度の江戸入りは正式なものであるらしい」

「なるほど……」

 ということは、彼らは勝手に定宿である日本橋長崎屋を抜け出しているのだろう。

 だが、行き先が同じということは、お絹が、念願の阿蘭陀人と会えるかもしれないのである。

「親分、母上がきっと喜ぶ」



「どうじゃ、まだまだ大きな木というほどではないが、美しかろう?」

 誇らしげに太一郎が案内したのは、古い寺の敷地内だった。

 日当たりが良い場所に若い桜の木が数本、どれも勢いよく枝を張り、沢山の花を咲かせている。

 染井吉野の発祥の地である巣鴨から職人を呼び、太一郎自身が丹精したらしかった。だが、太一郎は自ら筵を敷いて、さっそく宴会の用意である。

「あっ、親分、つまみ食いは止してくだせえ」

「喜一、この饅頭もあっぱれな出来じゃ。さすが江戸一番の菓子職人。おや、これは?」

 桜の花を模した最中に、白あんが入っている。

「へぇ、お絹さまにご指導いただきやした」

「いえいえ、製菓書を一緒に見て試作に付き合っただけですよ。それがこんな見事な菓子になるとは驚きました」

「母上、衣笠屋の甘味は江戸一番ですね」

「そうですね」

 喜一が照れたところで、近くに駕籠が止まる気配がした。さっと英次郎が身構えるが、太一郎がそれを制した。

「案ずるな、クルチウスたちじゃ」

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