第14話 曰く付き長屋につき1
このところ江戸は長閑で心地よい晴れの日が続いていた。
まさに春うらら、江戸の町のあちこちに植えられている桜は例年より幾分はやく開花したようであった。
薄桃色の花がひとつふたつと咲くにつれ長屋の八っつぁん熊さんがそわそわと浮き足立ち、おかみさん連中も、青物や魚を売りに来る棒手振りに桜の開花具合を聞く有様だ。
「満開にはもう数日かかりまさぁ」
と言われながらはや数日。
この二、三日は寒さも落ち着き、風もなく雲もない。これは花見日和だとばかりに、桜の名所には朝な夕なに人が押しかけていた。
「母上、はぐれないよう、それがしにしっかりついて来てください」
「はいはい」
人々が押し合いへし合いする中、おっとりと頷く初老の女性がいた。大小二本を差した子息らしき青年と一緒である。
二人とも上物の着物というわけでもなく、むしろ、着古したものを丁寧に仕立て直したのだろう。しかしながら凛とした佇まいである。それは頭に貧乏とつく御家人であっても捨てることのない武家の矜持からくるものだろう。
「母上、弁当持参で花を見に来るのは久しぶりですね」
「そうですね。ありがたいことです」
貧乏を絵に描いたような御家人佐々木家には、ながらく弁当持参で花を楽しむような余裕は皆無だった。せいぜい、満開の下を、内職の荷を背負って通るくらいだ。
だが今年その余裕が出来たのは、ひとえに次男英次郎の働きによるものである。
彼が、年の瀬からこちら大きな仕事をいくつもこなし、まとまった額を稼いで来た。苦労し通しの母に、花の一つも見せたいと、孝行息子は考えたのである。
しかし花よりも何よりも、方々にたまりにたまったつけをいくらか払うのが先である。律儀なことに幾らかの支払いを行い、ようやく残ったいくばくかで、こうして花見に出かけてきた次第である。
ふいに、おや、と、母が口元を綻ばせた。剣術の達人である英次郎の背中は、いつの間にか広く逞しいものになっている。その背を見ながら、いつかこの子にも嫁女が来ると良いのだけれど、とつい余計なことを思ってしまうお絹である。
このご時世、御家人は御家人でも頭に貧乏がつく御家人の、しかも次男に嫁を探すのは難しいだろう。それでも、我が子の幸せを願ってやまない。
「あ、母上、あの背中は親分でしょう」
ふいに、英次郎が声をあげた。
そちらを見れば人込みの中、見慣れた背格好の男がいた。派手な柄の着物を着た、縦にも横にも大きい彼に、お絹は躊躇うこともなく声をかける。
「太一郎親分もお花見ですか」
「これはお絹さま!」
「桜がほんに綺麗で、英次郎に無理を言って連れてきてもらいました。ひらひらと……桜散る、梅はこぼれる」
「椿落つ……花の散る様は、それぞれ風情があって昔の人はうまいことを言うたもの」
「ほんにそうですねぇ」
お絹と親分のやりとりに、英次郎と、些か人相の悪い男たち――本所深川界隈を取り仕切っている、やくざで金貸しの衣笠組の子分たちはぽかんとしている。
「桜散る……?」
続きはなんだったか、と英次郎が傍らの子分たちを見るが、彼らは一斉に首を横に振った。
「英次郎兄ぃ、あっしらは野暮を絵に描いたようなもの、難しいことは知りませんや」
「それがしとて、剣術馬鹿ゆえ……」
そんなやりとりを気にもとめず、目を細めて舞う桜を見つめるお絹の背に、どん、とぶつかった者があった。
あっ、と小さく呟いてぐらりと揺れる華奢な体を、咄嗟に太一郎が支えた。
英次郎も、慌てて母の背に手を添える。
「母上、大丈夫ですか」
「ええ、親分が支えてくださったので助かりました。いけませんね、桜に見惚れてしまって」
お絹の言葉を、太一郎も英次郎も最後まで聞いてはいない。英次郎は周囲にいる酔漢を威嚇することに忙しく、太一郎は先ほどの男の腕を掴んでいた。
「あら親分、その方はどうしたのです」
「お絹さま、こやつは酔漢に見えて掏摸でした」
男の手には、お絹の財布が握られていた。
ぶつかったときに掏り取ったのであろう。まぁ、とお絹の目がまん丸になった。
「虎吉、幸吉、こいつを南町の――」
親分がみなまで言わぬうちに、掏摸は左右から衣笠組の若い衆に挟まれて速やかに連行されていった。
普通、やくざの若い衆に捕まったなら次は骸となって大川に浮かぶのではと心配するが、衣笠組の場合はその心配はない。きちんと、然るべきところに預けられる。そして吟味の上、必要とあれば正しく裁きや罰、或いは然るべきところに預けられ教えを受けることになる。決して野放しにはならないのだ。
「親分、助かりました」
「なんの!」
がははは、と豪快に太一郎が笑い、ひらひらと桜の花びらが舞った。
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