第11話 動く屍4

 翌日早朝、英次郎は本当に衣笠組の戸を叩いた。が、英次郎が名乗りを上げる前に、

「英次郎の兄ぃ!」

「親分をよろしくお願いいたしやす」

 と、若い衆が数人がかりで、寝ぼけ眼の親分を表へと押し出してきた。

 いやじゃ、と親分が中へ戻ろうとする。が、若い衆は断固として阻止するという気迫が伝わってくる。

「親分、稽古道具はこちらに」

「寅吉まで稽古に行けと言うか」

「へぇ」

 ご丁寧に、竹刀や手拭、真新しい稽古着まで用意されているではないか。それだけ、子分たちも親分の肥え過ぎを心配しているのだろう。

「なんと手回しの良い。良き仲間かな」

「英次郎の兄ぃ、親分の帯は……二人前なんで」

 絞り出すように呟いたのは、枯れ木のような男だ。彼は確か、衣笠組の台所を預かっている腕利きの菓子職人だったはずだ。その彼は今、手に包丁ではなく針を持っている。

「喜一、帯が二人前とはどういうことだ?」

「へぇ、こういうこって」

 帯を、職人がばらりと広げて見せた。なんと、二本の帯が端と端で縫い付けられて一本にしてある。

「ははぁ……親分の腹回りが大きすぎるゆえ一本では帯が結べぬのか」

「へぇ……ここまで肥えたからにはもう、やくざの看板を下ろして相撲部屋へ入門なすったらいかがかと、一昨日も親分に談判したところで……」

 子分に相撲部屋へ行けと凄まれる親分、江戸どころか日ノ本中探してもここにしかいないだろう。

「それでは親分を、お借り致す」

 若い衆に「いってらっしゃいませ」と盛大に見送られて、太一郎はしぶしぶ剣術道場へと歩きだした。

「冷たい子分どもじゃ……」

 ぶつぶつ言いながらも、親分は素直に英次郎ついてくる。太一郎にしてみても己が肥え過ぎているという自覚が多少はあるのだろう。

「親分、武士の血が騒ぐのでは?」

「……まぁ、多少は、な」

 にやり、と、親分が笑った。


 そして太一郎親分は、剣術道場で頑張った。

 礼儀正しく師範や門弟に挨拶した後、道場の掃除をはじめた。

「あれが衣笠組の親分か」

「聞きしに勝る肥えっぷりじゃが……人のよさそうな御仁であるな」

「本当にやくざか?」

「間違いないぞ。我が藩の下屋敷でな、渡り中間らが中間部屋を賭場にしておってな。さてもさても困ったと思うておったら、あの御仁が飛び込んで一網打尽じゃ」

「なんと。お上の耳目に届く前に、衣笠組が始末したというわけか」

「うむ。思うに、我が藩が窮地に陥る前にあの親分が助けてくだされたのじゃ」

「しかし、やくざ者、ごろつきどもの親玉であろう? 武家を助けるものかな」

 門弟たちがひそひそと語り合う。そんな、まさか、と言い合う声がある。英次郎は太一郎なら情けをかけて武家を助けることくらいはやるだろうと思った。

「親分、そろそろ打ち合おうか」

「お願い致す」

「では、相手は佐々木英次郎」

「はい」

 しかしいくら温厚な人柄とはいえ、太一郎はやくざの親分である。親分を竹刀で打ち据える度胸のある者は、師範と師範代と英次郎くらいのものである。それを承知している師範代が、英次郎を指名し、英次郎もにこりと笑う。

「さ、親分、どこからでも」

「む……」

 穏やかに立つ英次郎に、太一郎はいきなり飛びついた。

 ぱしっ、と軽やかな音がする。

「まだまだ! 親分、次!」

「む!」

 門弟たちは、英次郎にぽんぽん打たれて床にどっすんばったんと転がる太一郎を、はらはらしながら見守っている。

 その太一郎は、何度転がされても立ちあがる。

「親分、腕がのびきっておる」

「うっ!」

 痛いの辛いのと悲鳴を上げたのは最初のうちだけ、次第に、何も言わなくなった。

 転がされても打たれても、重たそうな体を必死で持ち上げて英次郎の前に立つ。

「親分はどうしてそこまでなさるのじゃ」

 門弟の一人がつぶやいた。が、それにこたえる余裕が太一郎にあろうはずもない。

 かわって高弟と思しき一人が言った。

「あの御仁は組を預かる親分じゃ。簡単に、参ったと言うわけもなかろう」

「しかし……」

 親分の必死な姿に、何か思うところがあったのだろう。稽古そっちのけで開国だの攘夷だの国策だのといった議論に熱中していた門弟たちも、次々と竹刀を構える。

 久方ぶりに、激しく打ち合う音が道場に響いた。


 時は流れ、午の刻過ぎ。

 剣術道場で大汗をかいてすっかり参ってしまった親分を衣笠組へ送っていく途中、英次郎たちは「それ」に遭遇した。

 ふらふらと覚束ない足取りの男が数名、列になって歩いている。

 そのまま、とある屋敷へと入っていく。


 男たちの様子が異様だったのを気にかけたのは太一郎。

 英次郎が首をかしげたのはその「屋敷」のほうだった。


「英次郎、おかしいぞ」

「親分、おかしいぞ」


 と、ふたりの声が重なった、

「親分どうした?」

「昼間から酒酔い……にしては、ちと様子が異なる。喚くでもなし泣くでもない。ご禁制の品か、あるいは……面妖な……」

「親分、それ以外にもちとおかしい」

「何がじゃ?」

「あの屋敷、ただいまは誰も住んでおらぬはず……」

「なんじゃと? 空き家に怪しからぬ者どもが潜り込んだかな」

 それは困るな、と、英次郎が眉根を寄せた。

「英次郎、あの屋敷の持ち主は誰かな?」

「元は、御家人が住んでいた。まぁ、この界隈に住まいしているのだから、我が家と同じく長の無役であるが」

 英次郎と同い年の三男坊がいて、よく一緒に棒切れを振り回していたものだ。

「松平だか、松川だか、そのような家名であった。だがある年、どこをどううまくやったものか、そこの長男が御役を頂戴して、千代田のお城近くへ引っ越していった」

「ほう。このご時世にな……」

「風のうわさに聞くところによると、次男もしかるべきところへ婿入りがきまり、三男は剣術の腕前を買われてどこぞのお屋敷の剣術指南役になったらしい」

 英次郎が、羨ましいと言わんばかりの表情になった、

 素直な男である。

「佐々木家も、きっとうまくいく」

「だがな、親分。先代の当主である我が祖父と、現当主たる父と、次期当主たる兄上は、絵に描いたような『ぐうたら』、この屋敷の当主は類稀な働き者。人の出来が違う」

 太一郎が「言葉が過ぎよう」と嗜めるが当の次男坊はけろっとしている。

「なんの。父も兄も、貧乏が嫌だ無役が嫌だと嘆く気概すら持っておらぬ。釣りに酒に博打に錦絵に……と、隠居老人が三人居るようなもの。呆れ果てて言葉もない」

 それを支えているのが、次男坊の英次郎と佐々木家唯一の女人であるお絹なのである。

 ぐぅ、と太一郎の腹が鳴った。


――ああ、お絹かすていらが食べたい……

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