第10話 動く屍3

「しかし……まったく南町は頼りにならぬということか。腑抜けじゃな」

 声高な英次郎の発言を、しーっ、と慌てて諫めたものの、残念ながら太一郎はそれを否定するだけの情報を持っていない。それどころか、腰抜けである証ならいくらでも出てくる有様である。

「お上が頼りないと、民が何かにつけ不安になるでな……」

 ぽつんと太一郎がつぶやく。

 会話が途切れ、大川から涼しい風が吹いてくる。

 それほど暑い陽気ではないのに大汗をかいている親分は、橋の欄干に背を預けて横目で川面を見た。

 穏やかな川面を眺めつつ、懐から取り出した潰れてひしゃげた紙袋から色とりどりの金平糖を取り出し、口にぽんぽん放り込んだ。

 なかなか大きな金平糖である。

 それを見ていた英次郎は、ぽん、と手を叩いた。

「親分、それをするから肥えるのだ」

「んあ?」

「甘味を食らうときは、一回につき一つ。そしてほんの少し、運動を致せばよい」

 そんな! と、親分が悲愴な声を上げた。市中引廻しの上獄門磔を言い渡された悪党もここまで蒼褪めはすまいと思われるほどに狼狽えて、唇が震えている。

「英次郎……酷いぞ! わしの楽しみを奪うとは酷い! 運動なぞ好かぬ」

「しかし親分、肥え過ぎると、ある時突然亡くなることもあると聞く。あの世に行くには、まだ、早いぞ」

 英次郎がゆっくり言えば、なんと……と親分が言葉を失った。

「突然あの世に、か」

「うっ、と苦しんでぽっくり逝ってしまうそうな」

「……恐ろしいな」

「しかもあの世には、饅頭やかすていらはないそうな」

 本当にないのかどうかは知らないが甘味が売られているという話は聞いたことがないから、きっとないのだろう。

 親分は、手元の金平糖をじっと見つめた後、懐にしまった。

「……相わかった。甘味は一回に一つじゃな」

「うむ」

 しかし、と英次郎は苦笑する。

 大きな金平糖は一粒作るのに職人が何日も何日もかけて丁寧に丹精込めて作ると聞いている。それを親分は、ばりばりとあっという間に食べてしまう。

「……豪快よな……」

 この豪胆さが、人々がつい頼りたくなるところではある。

「そうじゃ、英次郎。今度、お絹さまもお誘いして金平糖作りの名人のところへ見物に行かぬか」

「出来上がる過程が見せてもらえるのか」

「うむ。見事な職人技であるらしいぞ」

 行きたい、と、英次郎は頷いた。母も間違いなく喜ぶだろう。

「手配しておくゆえ、お絹さまに、楽しみにしていてくだされと伝えてくれぬか」

 細かい日程は後日、親分が伝えに来てくれるらしい。こまめな男である。

「して、英次郎。運動は何を致さばよいのじゃ」

 これに決まっておろう、と、英次郎は竹刀を掲げて見せた。

「はぁ、そうであるな」

「我が道場は、誰にでも門戸が開かれておる。門弟でなくとも稽古は出来る」

 本来はな、と、わずかに英次郎の顔が曇った。

「……それほどの道場でも、剣より論、か?」

 親分には隠せぬか、と、と英次郎が笑った。

「うむ。竹刀を握る者より激論を交わす者の方が多いわ」

「仕方あるまい。昨今の風潮じゃな」

「おれは、剣術がやりたくて通っておるのだ。議論に興味はない」

 何かと攘夷だ開国だと騒がしいが、英次郎は己は徳川家の家臣、御家人であるという信念しか持ち合わせていないのである。今どきそちらの方が珍しいといって良い。

「じゃが英次郎、自慢ではないが……わしは幼き頃、江戸屋敷内に設けられた道場に通っておったが……打ち合うよりも羽目板に叩き付けられて伸びていたことのほうが長いぞ」

 なんと!? と、英次郎が目を丸くした。

「親分、どこぞのご家中であったのか!」

「お、そこに驚くか……。うむ、わしの父祖は代々さる藩の江戸詰めであってな。たいそうなお役ではななかったが……わしも弟妹もみな江戸の産まれよ。みな、元気かな」

「ほー」

 太一郎は、幼いころから体はすこぶる丈夫であった。ために、すぐにお殿様の参勤交代の行列に加わるようになった。

 意味もわからぬまま江戸と国表を行きつ戻りつする生活に嫌気がさして、家督は弟に譲ってくれるよう一筆書き残して出奔した。以来、一度も親兄弟に会ってはいない。

「親分、親兄弟に会いたいとは思わぬのか?」

「遠目に見たりすれ違ったりすることは何度もあった。だが家中でお役目を頂戴したと思われる弟に、やくざ者が迂闊に声をかけるわけにはいかぬし、別嬪に育った妹も、しかるべき家の嫁になったようじゃ。もはや、住む世界が違うゆえな」

「親分にも武士の血が流れておるとわかれば、躊躇うことはない。明朝、誘いに行くゆえ、道場へ参ろう!」

 英次郎が嬉しそうに宣言した。

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