優夢『神は正ならずとも聖である』

 その夜、足立信執あだちしんとは死体を見つけた。正確には渋谷聖也しぶたにせいやの傍らにある死体を見つけた。信執はただコンビニに行って、夜食のあんまんとレッドブルを買いに行っただけだった。その帰りに偶然、本当に偶然に、彼とその傍らの死体を見つけてしまったのだ。

 その場所はたまたま目に入った路地裏で、全くと言っていいほど人通りもない場所だったから、自分以外は気づかないのが幸いにあったように思えた。

 雑なブリーチを施した聖也の髪が、夜に溶けず電灯の漏れた光でキラキラと輝く。そのダイヤモンドダストの様に輝く髪が揺れ、信執と目が合った。いつものことだが、どこか遠くを見ているような目だ、と信執は思う。けれどもその顔は血に濡れていた。

 それを確認してもなお、普段と同じ調子で信執は聖也に声を掛ける。

「何やってるんですか、先輩」

「ん、信執じゃん」

 普段とは何も変わらないような口調で聖也は手を振る。暗がりながらもその手には赤黒い汚れが付いているのが信執にはわかった。きっと、殴り殺したのだろう。

 はぁ、とため息をついて、信執は彼の元へ歩み寄る。カサカサとなるコンビニ袋の音が煩わしい。信執は聖也の前に立つと、

「よく平然としてますね、先輩」

 と、聖也を呆れるように睨みつけた。が、聖也は物怖じもせずに信執をみた。

「いや、フツーだろ」

「普通じゃないですよ。だってそれ、死んでますもん」

 そのまま聖也の足元へ、蔑むように目を向ける。足元に転がっている男はやけに図体が大きく、がっしりとした体つきをしている。服装はスウェットでサンダル。きっと信執のようにコンビニにでも行くところだったのだろう。しかし首はあらぬ方向に曲がっている。そこから流れ出たであろう血も尋常じゃない量だ。これを死体と言わずになんという!

「……マジで?」

「マジもマジ、おおマジです。脈、触ります?」

 信執はそのままあらぬ方向に曲がった首に手を当てる。当たり前であるが脈はもうない。血もすでに流れを止め、あったであろう温もりはないに等しかった。

「やだよンなもん。バッチい」

「これをバッチくしたのは誰ですか」

「そりゃ、フッかけてきたらそっちが悪ィだろ。俺は関係ねーし」

 ケッと聖也は足元のそれに唾を吐きかけた。どうやら聖也は売られた喧嘩を買っただけらしい。そういえばこの人は買う喧嘩を選ばない人だ。聖也らしいとは思ったが、その結果がこの有様だ。奇跡が起きない限り、彼はこのまま社会的に首を曲げられ殺される。現代社会の制裁が聖也に襲いかかることが、信執にとって一番危惧されることであった。

「……ともかく。どうするんですか、これ」

「どうするって、どーすんの?」

 そんな信執の気も知らず、悪気もなさそうな聖也はこれ、の言葉と共に、その死体の足元を蹴った。ゲシ、と蹴っても死体はもう微動だにしない。

「耐久力ねーのが悪いんだろ」

「そうもいかないですよ。現代社会、正当防衛であれ殺した方が悪いんですから。運転手がしっかり確認したところで、突然子供が出てきて殺してしまったら、運転手が全責任を負うんですよ」

 まぁその旨説明したら、罪は軽くなるんじゃないですか? と鼻で笑えば、聖也に睨まれる。何度も経験はしているが、その睨みは本能的に恐怖を感じる。前世はヤクザの頭領だったのではないだろうか、と思うが、それを言ったら半殺しにでもされる気がして、一生口には出せない。

「冗談ですよ」

 苦笑いでため息を吐く。そもそも元から信執は聖也をお縄に掛ける気など更々ない。そうであったら夜の路地裏が目に入って、死体と共に佇む彼を見つけたところで、「なにやってるんですか」と声などかけはしない。

 信執はただ、渋谷聖也を救いたいだけなのだ。

「捨てに行きましょうか」

 信執は死体の側から立ち上がると、聖也と目を合わせた。死体を捨てる、と言ったところで聖也には全く同様が見えない。ただただ遠くを見てるような目を、信執は真っ直ぐ見つめていた。やや間を開けて、聖也はハッと吐いてから口を開く。

「んで、アテはあんの? あんなデケーの運ぶのだりーし」

「僕、車持ってますよ」

「どこ止めてんの? 場所によっては話変わっけど」

「アパート、すぐ近くなんですよ。そこの駐車場です。すぐ持って来れますよ?」

 そこで今まで全く動揺を見せなかった聖也の目が丸くなる。

「……気味わりぃほどに都合がいいな」

「僕としては都合が良くて助かりました」

 そのまま聖也の横を通り、信執は表の路地へと向かう。

「僕が来るまで大人しく待っていてくださいね」

 聖也に向かってそれだけ言うと、信執は明るい街に向かって消えていく。聖也とは違い、色を抜いたことも染めたこともない黒髪は、街灯の明かりで天使の輪のようなキューティクルを顕にさせた。

 自分の姿など側から見えない信執はただただ、家路を急ぐ。ガサガサと鳴るコンビニの袋は相変わらず鬱陶しい。その中のあんまんはもうとっくに冷めている頃だろう。しかし信執にとってその事はどうでもよかった。

 死体も、彼の罪に手を貸すのも、自分が一体どのようなことをしているのかも関係ない。

 なんていったって今、渋谷聖也を守ることができる快感に震えていた。


 *


 高校生になるまで、信執は神などいないのだと思っていた。今となっては変に図太い神経を持つことに成功したが、昔はずっと細い神経をなんとか繋ぎ止めて日々をどうにか過ごしてきた。

 というのも、中学から高校にかけて、信執は虐められていたのだ。どうしてこのようになったきっかけは全く思い出せない。多分鈍くさいとか、根暗なのが気持ち悪いとか、小さいことがきっかけで起きたいじめは数年にわたって続いた。それは事実だ。

 俗に言う神はこの世の試練を乗り越えれば死後の世界は救われるのだと謳っていたが、信執はそれを蔑んだ。救うなら現世で救ってくれと内心毒づいた。それでも中学時代に信執を救う人はいなかった。この場所に神などいない。迫害された少年は静かに中学という村を後にする。

 しかし逃げた先でも迫害は起こる。結局地元の公立校に入学した信執は、中学時代のいじめっ子グループと運悪くクラスが一緒になってしまい、高校も中学の延長戦となってしまった。毎日細切れの神経を繋ぎ止めては、自分を救わない神を恨んで眠る。その繰り返しだ。

 その心情が変わったのは高校に入って数か月経ってからのことである。

 その日も信執は虐められていた。常日頃のいじめは人からの無視、物の紛失など軽度なものが多かったが、その日は帰り際に首根っこを掴まれ体育館裏に連れ込まれた。そこには男二人、女二人のグループがたむろになって、信執を待ち構えていた。退路もなく、人数も不利で分が悪い。更にいえば部活動の人々も滅多に使わない為、いじめの現場には絶好の場所。信執は苦虫を口に含んだような気持ちになる。今日も搾取されるだけなのだから。

 彼らから持ちかけられたのは金銭の貸与だった。五桁になるその金額は一高校生にとっては厳しい物である。更にいえば今の手持ちは小銭だけだ。その旨を素直にいえば、グループで一番体格のいい男に腹を殴られる。嗚咽と唾液を振り撒きながら、そこからは一方的な暴力とプライバシーもかけらもない物色が始まる。男は信執を親の仇のように殴り、女は放り投げられたスクールバックの中を漁り、いちいち醜悪なコメントを残しながら四方八方へと信執の私物を投げる。

 信執は信執で、ただただ痛みに耐えながらその行為に飽きるのを待っていた。神経をすり減らさないためには無に徹するのが一番だと思っていたから、その通りの行動をした。今日も神はいないのだから、自分で自分を救うための行動をしなくてはいけなかった。

 しかし、その思考に至ったのはこの日が最後であった。

 意識が朦朧となりかけ、そろそろ自分が気絶して終わるだろうかという頃。信執を殴っていた男は突如、何者かに殴られる。重たい肉と肉がぶつかる音がして、信執は唐突に痛みから解放された。ぼんやりとした意識の中どうにか顔を上げると、そこには校則違反の髪色をした男が立っていた。

 咄嗟に神様、と口走った。聖書のように後光を掲げ、清楚で潔白な神様はいなかったが、粗暴で劣悪な神様は今この瞬間存在しているのだと確信した。そして信執はそのまま意識を失い、倒れる。

 赤子が初めて見たものを親だと思うように、信執もまた助けてくれた校則違反の少年を神だと思った。彼を信じていれば救われる。そうとも思えるようになった。だから信執は意識に残る神の面影から人をどうにか探し出し、相手がどんな劣等生であり、自分を助けたわけではなく向こうにとってはただの憂さ晴らしであったとしても礼を言い、馬鹿みたいに尽くすようになった。どんな形であろうと自分は救われたのだ。

 その過程で神の名前が渋谷聖也であることや、謹慎処分等を喰らったことのある純粋な不良の人間であること、上級生であること、それから単純な趣味趣向や過去についてを知ることができた。神を知ることは今のように打ち解けた関係性を築くとともに、神への信仰心を増すための材料にもなっていた。馬鹿みたいな本当の話である。

 救われたと思う人間は、その救われた対象が窮地に陥ったときに、救いたいと思ってしまうのが世の常だ。神に自分が救われた分、神の窮地を救いたいのだ。信者としては当たり前の行為である。


 *


 急いでアパートに帰り、必要そうなものをリュックサックに詰め、車のキーを取り、アパートの鍵を閉める。そのまま駐車場まで行って黒の軽自動車に乗り、先ほどの路地裏近くまで戻ってきた。車を降りると副流煙が流れてきて、タバコ独特の臭いが流れてくる。視線の先の聖也は、首の曲がった死体の前でタバコを吸っていた。

「タバコ、本当好きですね」

「……暇だし、これくれーしか暇つぶしねーんだよ。悪りぃか?」

 そのまま聖也は煙草を手から落として、足で踏み潰す。ジュ、という音と煙と共にたばこは鎮火した。

「いえ、別に。吸いすぎに気を付けてくれればいいです」

「別に良くね? うめーもんはうめー」

「美味しいもの食べすぎて体壊したら困るんですよ?」

「へぇ、誰が?」

「少なくとも僕は困ります」

 じっと聖也を睨むように見つめる。人間にとって水が必要なように、神を信仰するものは神がいなくなったら困る。信執にとってはただそれだけのことだ。

 座り込んで馬鹿みたいに大きな男だったものを見る。時間がたって既に死後硬直も始まっていた。けれど幸いなことにここは路地裏、この場には男二人。二人だったら自分の軽自動車には運び込めるだろう。

「先輩、胴体の方持ってください。僕が足の方持つんで。そのまま後部座席に入れましょう」

「え、ダル」

 間髪入れずに聖也は言う。信執が呆れたようにジッと見たところで、それに聖也は動じることはない。

「自分のやったことの後始末くらいやってくださいよ」

「めんど」

 はぁ、と信執はため息を吐いた。信執の中で数秒迷った後、諦めたように顔をしかめた。

「じゃあ、後で何か奢りますよ」

「肉もアリ?」

「別にそれがいいならそれでいいです」

「しゃーねぇなぁ」

 そうして聖也は死体の胴体の元へいく。そのまま腰を下ろして死体の脇の下に腕を通した。ぐ、と持ち上げようとして、強面の聖也は信執を睨む。

「早くしろ」

「なんで先輩が偉そうなんですか」

 呆れながらも信執も屈み脚を持った。せーの、の声とともに巨大な体は持ち上がる。見た目通りの重さに苦しみながらもどうにか軽自動車付近まで運び、その死体は後部座席へ放り投げられるように置かれた。それを隠すように信執はあらかじめ車内に用意しておいた大きな毛布を被せる。

「これでまぁ、ごまかしは効くでしょう」

「ほんっと、都合がいいモン持ってんな」

「一回家帰った際に色々車に入れたんです」

「へぇ、めんどくさそ」

「それくらいしとかないと先輩が社会的にお釈迦になるんです」

 バタン、と乱暴に後部座席のドアは閉まる。そのまま回って信執は運転席に乗り込むと、車のキーを回す。暗く静かな夜の街にエンジン音が響いた。そして当たり前のように聖也は助手席へと乗り込んだ。

「別にこのまま帰ってもいいんですよ?」

「んゃ、いく」

「ならご勝手に。あ、シートベルトはちゃんとしてくださいね?」

 かちゃり、と聖也はシートベルトを締め、空いていない窓の淵に頬杖をつく。その一連の動作を見届けると、信執もシートベルトを締めた。

 エンジンのかかった車内には深夜ラジオが流れている。ひと昔前に売れた芸人コンビがパーソナリティを努めており、今はリスナーのメールに対する話題を繰り広げていた。『結婚詐欺なんて、引っかかる方が悪いんですよ』とゲラゲラと笑う声をどこか不愉快に感じて、ラジオの音量を落とす。その手で信執はシフトレバーに手をかける。

「なぁ」

 レバーを引こうと思った時、聖也は窓の外を眺めながら呟く。信執が聖也の方を向くと、呼応するように聖也は信執の方を見た。信執に向いているであろうその目は、どうしてもその先を見ているような気がして怖くなる。

「お前が困るから、こんなに俺に手を貸すわけ?」

 自嘲のように口の端をあげ、鼻で笑う。その様子はどこか悲しんでいるようにも挑発しているようにも感じた。自分の答えはひとつだ、と信執は真剣に目を合わせた。

「ええ、これは紛れもなく自分のためです。自分がやりたいからここまでやってるんです」

 信執の真剣な顔に一瞬だけ面食らったように目を開いたが、すぐに聖也は表情を戻す。そして「そ」とだけ言うと、また窓の方を向いてしまった。

 なんなんだ、と思いながらも信執もまたサイドレバーを握り、ハンドルを持った。前後の確認をバックミラーと目視で行う。幸い街灯の明かりはついており、更に死体を増やすようなことはないであろうと判断した。バックミラーを見つめて、ぼそりと呟く。

「人助けなんて、所詮自分のエゴですから」

 これが聖也に届いているのか、信執には知る由もない。レバーをDに動かして、アクセルをゆっくりと踏み込む。そして二人と死体を乗せた車は夜の闇へと走り出した。


 *


「なんで、僕を助けたんですか」

 高校時代に一度だけ、信執はこう尋ねたことがある。

「なんでって、何が?」

「何って、僕がここで殴られてたときですよ」

「あー、あったな。そんなこと」

 遠い目で空を見ながら、校則違反どころか法律違反のタバコをふかす。素行の悪い生徒以外は絶対に入ることのない体育館裏では、たとえ未成年がタバコをふかしていようが、止める人はどこにもいない。信執もまた、その様子をジッと見つめていた。

「何」

 煙を吐き終わった聖也は、信執の目線に気づきギッと睨む。まだ知り合って日も浅い信執は、ビクリと肩を跳ねさせた。

「怖じ気づいてんじゃねーよ」

「シンプルに顔が怖いんですよ、自覚あります⁉」

「知らねーよ。自分の顔は自分でみえねー」

 チ、と舌打ちの後、その口に再びタバコを咥え直す。十分に煙を吸うと、また空に向かって煙を吐き出した。有害物の塊である煙は聖也の体に入り、副流煙は上へと向かっていく。

「で、何だっけ?」

 煙を吐ききると聖也はまた、信執に向き直った。今度は睨みもせず、ただただ視線の合っていないような目を向ける。先ほどの恐怖とはまた違った恐怖を持っているが、先ほどよりはずいぶんましだ。はぁ、とため息を吐いて、信執は視線を合わせた。

「……僕がここで殴られてたとき、なんであなたは助けたんですか、って話です。先輩、あまり人助けとかするタイプじゃないでしょう?」

 これは信執が舎弟の如く取り入り始めてから気づいたことである。本当に彼は純粋な素行不良人間だ。髪は派手にブリーチされているし、制服も大幅に着崩して校則違反のTシャツやベルトを着けている。暴力は日常茶飯事であるし、今のようにタバコをふかしていることも珍しくはない。信執は見たことはないが、多分聖也は酒も飲んでいるだろうし、性の面も盛大に乱れまくっているだろう。そういう人だ。

 だからこそ、自分のみが救われた理由がわからなかった。わからないことは先生に聞くように、信者の悩みは神の使いに、目の前に神がいるなら神に聞くしかない。その思考に陥るのは短絡的であるが、賢明でもあったはずだ。不安定な瞳をジッと見つめ、正解を待つ。

 縋った神はあぁ、とぼんやり虚空を眺めた後、ハッと笑う。そのままタバコを持っていない方の手でピン、と信執のデコを指で弾く。信者はいて、と思わず声をだし、痛みに目を一瞬つむる。その様子を聖也は鼻で笑う。どこが滑稽だ、と信執は抗議の目線を向けた。

「たまたまだよ」

 その目線をものともせず、聖也は解答を差し出す。すると抗議の視線は一瞬にして丸くなった。

「だから、たまたまだっての。俺はタバコ吸いたかった、でも先客がいた。だから殴った。オマエは転がってたからほっといた」

 手に持っていたタバコを離し、吸うには短すぎたタバコは地面に落ちる。聖也が足で踏み潰すと、ジュ、と音を立てて鎮火した。

「なんか問題ある?」

 瞳はこちらに向き、声も淡々として威圧をかけてくる。が、この威圧は多分無意識的なものだ。これに抗っても真実はどうにもならないし、何の意味もない。本当はこうなんだろう、と陰謀論を企てるよりも、静かに信じるものを心に秘めた方がいい。

「いえ、ないですけど」

 ふてくされたように聖也の目線から逃げる。

 お釈迦様が蜘蛛の糸を垂らした時、周りに蔓延る愚者を倒して自分だけを救ってくれた。聖也がどうであれ信執の中で作り上げられた幻想は、今でも廃れることはない。


 *


 音量を落としたラジオでも、時報の音はしっかりと聞こえる。とっくに日付は変わっており、聖也は助手席で窓際に頬杖をつきながら眠っている。信執は先ほど買ったレッドブルを飲んで、ハンドルをしっかりと握り直す。そこそこ甘党のケがあるからエナジードリンクの味は好きな部類ではあるが、今は口の中の甘ったるい味がなぜか鬱陶しい。

 二人と一つの人だったものを乗せた車は市街地を抜け、山道を抜け、もうすぐ隣県にさしかかっていた。夜道の中車を走らせることは今までしばしばあったが、隣県に入るまでの長距離を走ることは今回が初めてだった。どうにか見覚えのある道を探し、車を走らせることができているのは自らの土地勘のおかげであり、田舎者であることを今日だけは誇らしく思う。

 レッドブルでどうにか覚醒させた脳で、信執は聖也が起きていた時の会話を反芻する。

 車を走らせて十数分。「行く場所、決めてんの」と窓を見たまま聖也は問う。それにもちろん、と即答できればよかったのだが、生憎そこまでは考えていなかった。

「どうしましょう、山にでも埋めますか?」

「ヤだよ、疲れるし。つーかそれアホほど掘るだろ」

「そうですね。男二人でも夜明けまでに掘り切って、死体を埋めて帰るの、現実的じゃないですもんね。山に死体遺棄、なんて話は山ほどあります」

 目の前の信号が赤に変わり、そのままブレーキを踏む。ハンドルにもたれかかるようにして、赤い信号を睨んだ。

「じゃ、コンクリにでも埋めてバラす?」

「えっ先輩、そういうコネあるんですか?」

「え、ねーけど」

「ないんですか」

「俺をなんだと思ってんだよ」

「そういうところに繋がりもってそうな先輩」

「は?」

「キレないでください。今ハンドル握ってるので、ミスったら死ぬのは先輩です」

 ハンドルを持つ手はそのままに、運転席の背もたれにもたれかかる。そのまま挑発するように笑うと、聖也はチッと舌打ちをして、シートの上に足を乗せる。律儀なのか迷惑なのか、靴は脱いでおり、シートが汚れないのはありがたいが、マナーととしてどうなのかと疑いの目を向けた。が、すぐににらみ返された。

「そういうところですよ。先輩の顔は凶器ですから」

「あ?」

「シンプルに怖いんですってば。強面を自覚してください」

「自覚できねーよ、顔見えねーし」

「じゃあサイドミラーでもバックミラーでもみて自覚してください」

 瞬間、信号は青になる。アクセルを踏み込もうとして、ふと脳裏にひらめきがよぎった。もしかしたらあそこなら、と思考を巡らせる。

「青」

 バシ、隣からデコピンが来襲するまで、動作は止まっていた。幸い後続車はおらず、ただただ自分の車が立ち往生しているだけですんだ。

「あ、すみません」

 アクセルを踏んで、軽自動車は発進する。片田舎の市街地はその車の異常さを気にもとめない。クラクションでも鳴らされたら、本当に聖也ごと事故に遭うような事態になっていたかもしれない。

「なにぼーっとしてんだよ。場合によっては死ぬぞ」

 自分の言ったことを忘れたのか、とシートの上であぐらをかいた聖也はこちらを睨む。すみません、と声のトーンを落として謝ると、露骨にへこむな、とキレられた。理不尽な人だ。

「思いついたん?」

「……何をですか」

「アレの処分先」

 聖也は右手の親指で後部座席を指す。そこにあるのは毛布をかけられた死体だ。運転している信執はそちらには目もくれず、「ええ」と小さく頷いた。

「じゃあどこだよ」

 右手を元に戻し、あぐらをかいたまま信執に問う。信執はアクセルの踏み込みも変えず、目の前の道を見つづけている。

「海です」

「海?」

「はい、海です」

「は、今から県外いく気?」

 聖也の声に動揺が乗る。現在地は海なし県。ここから海のある場所まで、高速道路を使っても数時間はかかる距離だ。

「そうですけど」

 それでも、あまりに信執が淡々としているものだから、聖也はへぇ、と目を見開き驚く。運転をする信執はその変化に気づけない。

「別に、運転するのは僕ですし。先輩は寝ててもいいんですから」

 道は市街地から離れ、どんどん灯りは消えていく。頼りになるのはヘッドライトの明かりだけ、という道に入るのもそう遠くはない。どんどん市外への道へと車は向かう。

「それに、ついていくって言ったのはあなたですよ。帰ってもいい、っていったんですから文句は言わないでください」

 わかりましたか? と語尾を強めにいうと、聖也からはチ、と舌打ちが帰ってきた。

 そこから数時間。とうとう県境のプレートが見えて、軽自動車は隣県へと踏み入れた。どうにかここまで来れたことをほ、っと思うと同時に、ここからが本番なのだと緊張が走る。

 チラ、と助手席をみると、彼は頬杖をついたまま器用に寝ている。助手席の前にはコンビニ袋とともに、あんまんの下にあるはくり紙が捨てられていた。別に食べてもいい、とはいったが散らかしておけ、とはいってない。それに加えて、手の血を拭けと渡したウエットティッシュも、使用済みの状態で散らかされている。

 けれどそれが、この神を神たらしめる一つだ。後で会話ネタにしようとは思うが、それ以上のことはする気は信執にはさらさらなかった。

 視線をしっかり前へもどし、ハンドルを握り直す。自分がするべきことを、自分が行うと決めたことを見据え、軽自動車を先へ走らせる。


 *


 海なし県出身の人間にとって、海というものはどこか特別なものである。川や湖、滝などは見たことがあっても、砂浜があり、満ち引きや波があり、特有の潮の匂いのある海という存在は、身近には存在しなかった。だから海を認知した時は心が躍る。

 生憎現在は深夜であり、海を認知するどころか道路を認知するのも怪しいのだが。

 それでいても、信執の田舎者の感覚は海の見える場所を覚えていたから、その景色を見ただけで気分は明るくなる。真っ暗で本来海の見える場所は何も見えないが、確実に目的地には近づいてきている。あと三十分弱でたどり着くだろう。よし、と点滅した信号を軽自動車は渡る。

 その傍ら、先ほどまで寝ていた聖也が大きく体を崩した。あぐらをやめ、あくびをして伸びをする。

「どこ、ここ」

 と寝起き特有の低く枯れた声で尋ねたのは、いつもの聖也を知ってる信執にとってはどこか滑稽であった。

「寝ている間にとっくに県跨ぎました。あと三十分もすればつきますよ」

「ふうん」

「テンション低いですね」

「ねおきだし、ふつーじゃね?」

 ふわぁ、と再度あくびをすると、足をダッシュボードの上に乗せた。その足下の散乱されたゴミは健在である。

「子供みたい」

 そう信執がイメージするのも、致し方ないほどであった。

「ん、なんつった」

「ガラガラ声で余計ガラ悪く聞こえます」

「んなのどうしようもねーよ。つか話そらすな、なんつった」

「あぁ、寝起きの機嫌は悪いですし、食べたものやつかったものは散らかすし、態度まで悪いなんて、ほんと、子供みたいですね、って」

「あ?」

「冗談です」

 普段より数倍ドスの効いた声は、慣れたものだとは言えど驚く。もしかしたらハンドルを誤操作していたかもしれない。全く、と愚痴ってやろうかと思ったが、やめた。そっちは眠ることができて元気かもしれないが、こちらはレッドブルで無理やり脳を覚醒させている身だ。これ以上脳を動かしたくない、と眠気とともに体は訴える。

 聖也はまた、あくびをして伸びをする。相変わらず足はダッシュボードに乗ったままだ。数秒後、つられて信執もあくびをする。

「あくび、移ったじゃないですか」

「ねみぃの?」

「まぁ夜中に数時間ぶっ続けで車運転してれば、眠いです」

「窓、開ければ」

「……それもそうですね」

 パワーウインドウのスイッチを押すと、運転席の窓が開く。風が入ると同時に、潮の匂いが車内に入ってきた。聖也も自席の窓を全開まで上げ、そこから顔を出した。

「海、ちけーの?」

「さっきも言いましたけど後三十分もしないで着きますからね」

「夜中の海って面白そ」

「言っときますが遊びませんよ? 海開きは半年先です」

「減るもんじゃねぇだろ、よくね?」

「少なくとも犯罪歴は増えます」

 つまんな、と窓から出していた顔を引っ込める。バックミラー越しに見る、ふてくされたような顔は本当に子供だ。信執はふ、と笑った。

「んだよ、てめぇ」

「いえ。先輩も海ではしゃぐんだな、って」

「たりめーじゃね? それ」

「案外当たり前じゃないんですよ。東京の子にそれ言ったら、お子様って笑われました」

「へぇ、お前も子供じゃん」

 その言葉にかっとなって、一瞬だけじろりと聖也を睨んだ。聖也はまんざらでもなさそうににやりと笑ってこちらを見ている。

「先輩に比べたらマシです」

 信執は拗ねて視線を前に戻す。海はもう目前だった。


 *


 夜明け前の海沿いを、軽自動車はただただ走る。住宅の建ち並んだ地帯も、夏場の昼であれば人が大勢いたであろう砂浜も、隣がどれだけ騒いでいようとすべて素通りした。なるべく目立たない場所での遺棄のためだ、致し方ない。

 つい数十分間まで寝ていた聖也はすでにあくびをかましており、相変わらず荒れ果てたダッシュボードに足を投げ出している。その隣で信執は運転しながら、絶好の場所を探していた。

 車のライトがあっても、夜の海辺は見通しが悪い。それに、空と海が暗闇で一緒になってしまったように思えて、どこか不気味だ。

 だからその暗闇にお似合いの場所――死体を遺棄するには好都合な場所を見つけた際、びっくりして心臓が高鳴った。思わず急ブレーキをかけそうになるが、どうにか押さえる。先ほどはやってしまったが、隣に乗るのは渋谷聖也だ。

「先輩、ここにしましょう」

 呟くように宣言すると、ゆっくりとブレーキをかけ、レバーをパーキングへ押した。そのままドアを開け外に出ると、荒い波の音が聞こえる。

 その場所は断崖絶壁、とまではいかないが程よい崖だった。周囲に建物はなく、人の気配もない。死体を遺棄するにはちょうどいい、ちょうどよすぎる場所だった。

「ほんっと、気味わりぃな」

 寝起き数十分の聖也があくびをしながら信執の横に佇んで、がけの下の波を見下ろす。

「気味悪いですよね、ここ。普通に不気味ですよ」

「んや、気味わりぃのはあんた。あまりにも都合がよすぎるっつーか」

 そう疑惑の目を聖也は向ける。その目を向けられたところで、信執は動じない。

「そうですか?」

 自分はおかしくない、と言わんばかりに首をかしげる。その返事に聖也はそ、とだけ返した。未だに疑惑の目は信執に向いたままだ。

「僕としては都合がよくて助かっているし、その都合がいいのもすべて偶然です。運がいい、と言った方が正しいかもしれない」

 それでも足立信執は、普通だと言わんばかりに言葉を紡ぐ。淡々と、それが日常会話であるかの如く。

「マジ?」

「マジです。今日の出来事も全部、偶然によるものです」

 二人の間に波の音だけが流れる。波の満ち引きは強さを増し、断続的にバシャと大きな音を立てて崖で飛沫を上げている。

「死体、運びましょう」

 十分に波を堪能した、とばかりに信執は踵を返して車へ戻る。聖也も後を追って車に戻った。後部座席を開けると毛布が敷いてあって、それを剥いだら丸々太って首の折れた死体が出てきた。血は止まっているはずなのに、不快な匂いしかしないそれを睨む。信執は後部座席に乗り込み、死体の片側を持った。

「僕が押すんで、適当に引っ張ってください」

「ん」

 そうして死体は隣県の路上に引きずり出される。道路にも歩道にも誰もいないことを確認して、ズルズルと崖の近くまで死体を運んだ。

「あっ、そこに置いてください」

 後もう少しで落とせる、というところで信執は言う。その言葉のすぐ後に適度に持ち上げていた死体の両足を離した。

「離れてください」

 聖也は何も言わず、ただ死体の前から後退(あとずさ)る。対称的に信執が死体の目の前にたった。侮蔑するようにその死体を眺めた後、大きなため息を吐いて信執は死体の手を踏みつける。そこから足を、腹を、胴を、顔を、ただただ踏みつける。まるで機械にプログラムされたかのように。信執に踏みつけられた死体は、喚きもしなければ血も吐かないのに。

 満足したようににこり、と笑うと、信執はそのまま足で死体を崖に突き落とした。バシャン、と重量のある音が聞こえる。その末路を見ないまま、信執は聖也の方に振り返る。

「はい、終わりました」

 海が月光を反射するように、信執の髪もまた月の光を反射する。先ほどまでの様子などなかったかのように、信執は穏やかに笑う。

 聖也はそれを、何も言わずに眺めることしかできなかった。

 信執はスタスタと聖也の元に戻ると、どうかしましたか、と何もなかったかのように言う。

「やべーな、おまえ」

「なにがですか?」

「さっきのアレ、バカみたいに蹴ってたじゃん」

「そうですね」

「どうしてそこまでした?」

 その言葉の後、信徒は沈黙する。どうして、なんてこの人の前で言えるはずがない。

「なんとなくです。僕あまりこういうことしなかったので」

「ふうん」

 懐疑の混じった目で信執を睨むように見つめる。けれどもそれに怖じ気づいたら信執の負けだ。ただ、その目を見つめ返すだけで、何も言わない。そうしていると、まぁいいけど、の文言で聖也は睨むのをやめた。

「じゃ、帰りましょうか」

 先ほどまでのことは何もなかったかのように二人は崖から背を向け、車へと歩き出す。

「帰りも運転する気?」

「だって先輩、免許ないじゃないですか。僕が運転するしか」

「運転する」

「また罪を重ねるんですか」

「今更一つや二つ重ねたって、なにもかわりゃしねーよ」

 聖也は自嘲する。そしてそのまま、運転席へと乗り込んだ。


 *


 その後、信執は無理矢理助手席に乗せられ、聖也の無免許運転の元、帰宅路を辿る。聖也の運転は案外安全運転で、最初はべちゃくちゃ文句を言っていたものの、いつの間にか寝てしまっていたようだ。起きたときにはすでに県は跨ぎきっており、窓を開けてタバコを吸う聖也をぼんやりと眺めていたのを覚えている。

 見慣れた道に戻った時にはもう朝方近く、人の往来も始まっていた。別にいいのに、と言う聖也をこの時はどうにか押し切り、コンビニで運転手交代を行う。ちなみに、聖也が散らかしたゴミ類もここでまとめて捨てた。

 コンビニのホットスナックで買収できる物だから、案外聖也は安い。とはいえ、信執にとっては重要な者であることには変わりない。

 運転手交代をして数十分。数時間前の出来事などなかったかのような、いつもの風景に出迎えられた。件の路地裏を横目で見ても、数時間前人が殺された現場だとは思えないほど、静かだった。

 目線を前に戻して、自宅のアパートを通り過ぎ、記憶の限りで道を辿る。

「そこの信号右曲がって、まっすぐでしたっけ」

「ふぁふぃが?」

 先ほど買ったホットスナックのチキンを頬張りながら、聖也は信執に目線を向ける。

「あなたの家です」

「ふぁー、ふぁっふぇる」

「口に物を含んでしゃべらないでください、聞き取れないです」

 んー、と口に物を含んだまま、解読不能の言葉を言った後に、ごくりと聖也は肉を飲み込む。

「あってるよ。そんくらい聞き取れよ」

「無理ですよそんなの。間違えたら嫌ですし」

 信号にさしかかったのでウインカーをつけ、右へとハンドルを切る。その先は住宅街で、その中に聖也の家があった。

「そこの家。茶色の」

 隣の聖也は自身の家に向かって指を指す。あれか、と信執も確認して、ゆっくりとブレーキを踏む。レバーをパーキングへと押すと車はしっかりと停止した。

「はい、着きましたよ」

 信執が左手を家に向かって掲げると、聖也は黙々とシートベルトを外す。チキンの入ってた袋をぐしゃりと丸め、手に持ったままドアを開けた。

「んじゃ。後で焼き肉な」

 聖也はじゃ、と開いた手をあげる。

「そういうとこは忘れないんですね。わかりましたよ」

 その手に応えるように信執も手を振ったのを確認すると、聖也は玄関に消えていった。実家暮らしなのに朝帰り、だなんて、親はどう思うのだろうか。いや、聖也だから常日頃こんな感じだろう。

 信執はシートベルトを締め、パーキングにしていたレバーを引く。そのままUターンして、目的地に向かう。


 *


 大学のチャイムの音が鳴る。ふわぁ、とあくびをして、ろくに聞きもしなかった哲学入門のテキストとノートを仕舞った。ホワイトボードには孟子の性善説が書かれていたので、今日はこれをやったのだろう。この講義は確か出席とレポートなので、一つくらい抜けていたところで変わらない。

 黒のリュックサックを締めて背負い、生徒の群れに紛れてそのまま教室を後にする。今日はこれ以降講義がない。そのまま逃げるように駐車場まで行き、自分の黒の軽自動車に乗り込んだ。田舎の大学生は通学時に車を使う、ということはよくあることだ。エンジンキーをかけると、車内ではラジオが流れ出した。この時間帯はラジオドラマだっただろうか? 平凡なサラリーマン役の劇がかった語り口調が耳に入る。適度に聞き流しながら、アクセルを踏み、駐車場を離れた。

 例の日からすでに数日経った。信執は今日も何事もなかったかのように大学に行き、適度に講義を受け、帰宅する。聖也は多分、仕事だ。確か土木工事のバイトをしていたような気がする。彼も彼で連絡はなく、普通の日々を過ごしているのだろう。連絡はないから、未だに焼き肉の日程は決まっていないのが、惜しいところだ。課題が終わったら、適当にLINEでも入れてみようか?

 考え事をしながら慣れた道を辿ると、例の場所――先日の死体発見現場の近くまで来てしまった。今の現場がなんとなく気になって、件の路地裏付近でスピードを落とす。まだ早いうちのはずだが、奥まった路地裏は暗いから、現場をしっかり見ることなどできない。気がついたらその現場を通り過ぎてしまった。後は家に戻ることしかできない。

 けれど家に戻った後、信執が現場に戻るという選択をしてしまったのはミスだった。

 あの日のように徒歩で路地裏に入ると、あの日のままの惨状が残っていた。しかもあの日よりも明るいから、地面の血の跡は鮮明に残っている。その跡を見回すと、その端には先輩の吸っていたタバコの吸い殻が残っている。

「すみません」

 肩にぽん、と手を置かれる。聞き覚えのない声だ。驚いて肩を震わせる。ゆっくり、ゆっくり、動揺を顔に出さないように振り向くと、そこには見覚えのない中年が立っていた。しっかりとスーツを着込み聖也とはまた違った強面は、その顔に笑顔を貼り付けていた。

「なんですか」

 それに負けじと、信執もにこりと笑う。図太く育った神経は伊達じゃない。けれどしまった、と内心焦っていた。アニメや漫画の見過ぎかもしれないが、ここで声をかけてくるのは警察とか、よくない者だ。

「私、こういう者なんだけれど」

 と、警察手帳を信執に向けて掲げる。その予感は的中するのか、とはぁと声が漏れた。警察の中年はそのまま続ける。

「いやあ、この先何もないだろう? それにこの惨状だ。だからちょっと気になってね」

「そうなんですか。別になにもしてないです。通りかかったら目に入って、気になって」

「そうなのか。でも、無闇矢鱈に危険な場所に入らないでよ」

「はい、わかりました」

「ならいいんだよ」

 パタリと警察手帳を仕舞うと、信執と警察の中年の間には沈黙が流れる。立ち去るのにも警察が道を塞いでいる。それに耐えかねて口を開いたのは信執だった。

「なにかありました? 補導には時間早いですけれど」

 チラリと警察を見ると、目が明後日の方向に泳いでいる。嘘をつくのが下手な警察だ。チラチラと眼球を動かした後、にこりとその目は細められた。

「まぁ、いろいろあってね。治安維持の見守りだよ」

「治安維持、ですか」

「そう、治安維持。喧嘩とか乱闘とか、流行ってるのか知らないけど、最近多いんだよ。夜中とか酷いよ? 毎日のように怪我した酔っ払いが来る。これも多分その一つだろうねぇ」

「へぇ、そうなんですね」

 無知な一大学生を装いながら、背中に冷や汗が垂れる。足は無自覚に引こうとして、その足にタバコの残骸が触れた。信徒は踏み絵を踏めないが、彼の吸ったタバコの残骸は残念ながらただのゴミだ。後ろ足でタバコを踏みつける。

「だから、あまりこういう所に来ないでね。君みたいな子が絡まれたら、殺されちゃうかもしれない」

「そうですね、気をつけます」

 ズリ、と足下のタバコを轢いて、違和感の無いようにもう片足も下げる。流れで軽く会釈をし、それでは、と内心逃げるようにこの場所を後にした。このまま帰るのもなんだか嫌だから、あの日と同じようにコンビニに入って、適当に商品を見繕う。この後は課題をしてゲームをしようかと思っていたので、新商品のスナックを手に取った。

 それにしても殺される、だなんて。殺したのは聖也だが、隠蔽したのは信執だ。実質一人の人間を殺しているのはこっちなので、なんだかおかしくて鼻で笑う。

 このまま死体のあった場所はなんだかんだうやむやにされるのだ。聖也が人を殺し、信執が捨てたあの死体は存在をどこかに葬られるのだろう。隣県で死体が見つかった、というニュースは未だに上がってない。多分、突発で立てた計画は上手くいった。この後捜査され聖也が殺したことを突き止められたら、信執は自首でもしてやろうかと思っていたが、その必要はなさそうだ。神のために死ねる心はいつもあるのは確かではあるが。

「なにしてんの」

 また肩に手を置かれ、後ろから声をかけられる。聞き覚えのある声に驚きながらも、呆れたように後ろを振り返った。

「こっちの台詞ですよ先輩。職場、近いんです?」

「そこの工事現場。今はきゅーけい」

 コンビニの窓の外を指さす。その先には建築現場が見えた。

「休憩にしては時間遅すぎません?」

「そんなもんだよ」

「とかいって、サボってるんじゃないですか」

「どうだろうな」

 聖也はスタスタとおにぎりコーナーに行き、個包装されたおにぎりの下にある、パック詰めされたおにぎりを取る。流れるようにパック飲料のコーナーに行くと、聖也はコーヒー牛乳を手に取って戻ってきた。

「で、何か用です?」

「んや、いたから声かけただけ」

「そうですか」

 じゃあ僕はここで、とレジに向かおうとして、聖也はあぁそういや、と話題を繰り出す。

「焼肉、忘れてねぇよな」

「忘れるわけないですよ」

 つい先ほどまで忘れていたが、その一刻前まではその連絡をしようと思っていた。忘れてはいない。

「いつ暇?」

「僕は基本暇ですよ、大学生ですし。先輩の休みとか、勤務後とかの都合に合わせます」

「ん、じゃいつ?」

「だから先輩の暇なときに合わせるって言ってるんですけど」

 じろりと聖也を睨む。聖也はそれをみて鼻で笑った。

「おもろ」

「何が面白いんですか?」

「その顔と態度」

「は?」

「キレんなよ信執」

 言い合いを止めたのは、けたたましい着信音だった。自分は配信で購入した音楽を着信音にしているから、これは聖也のだ。デフォルトで設定されているのは彼らしいが、その音を聞いて聖也は舌打ちをした。ポケットから携帯を取り出して、画面を確認するとそのまま出ずに電話は切られた。

「誰からです?」

「上司」

「やっぱサボりなんじゃないですか」

 疑惑の目を向けるが、それをかいくぐるように聖也はレジに向かう。レジでタバコを追加で頼み、現金で払うと何事もないように、袋を持って聖也は入り口に向かう。

「じゃ、あとはLINEで」

「返信、サボんないでくださいね」

「へいへい」

 あの日のように聖也は片手を上げ、コンビニを後にした。その後ろ姿を見送って、自分も会計を済ませることにする。電子マネーで支払ったあと、信執もコンビニを出た。


 *


 信執が望むのは神の幸せか、共に過ごす日常か。けれど万一のことがあるなら神のために五体投地するのが信執だ。汚れを買うのは自分だけでいい。それが救われた信徒の役目なのだと、信執は常々思う。

 けれども、神の隣で過ごすのも悪いものではない。むしろ心地いい。いつか神のために死ぬその日まで、この日々を過ごすのも悪くない。

 自分がいようがいるまいが、信ずる神が幸せであれと今日も信執は祈る。

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