2020 萌音

実践女子大学現代文学研究部

藤崎白楡『林檎への旅路』 

 Ⅰ 

「お姉さん、魔女を知らないの?」

 帽子を被った少年は、純粋な瞳を私に向けた。お使いだろうか、抱えた紙袋の中には小麦のパンが詰め込まれていた。

「森の奥には魔女がいるんだ。霧で子供を迷わせて、攫って食べてしまうんだよ。だからね、絶対に森に入っちゃ駄目なんだ。暗くなる前に家に帰って、ちゃんと良い子にしていなくっちゃ」

 分かった? と指を向けられれば、私は頷くしかない。後数十分程経てば、空は橙色に染まるだろう。そっとしゃがんで少年と目線を合わせる。そうして、柔らかく微笑んだ。

「偉いね。きっと君には……魔女は、手を出せないよ」

 少年は、嬉しそうに笑った。


 それから、いくつか店を回った。古本屋を出る頃には、空はすっかり橙色に染まっていた。少年も、きっと他の子供達も、家に帰る時間だ。御伽話の悪い魔女に、食べられてしまうから。

「だけど、私は子供よりも」

 夜を告げる風が肌を掠める。長い髪を抑えて、林檎の入った紙袋を落とさないように抱えた。そうして私は、街に背を向けた。

「アップルパイの方が、好きだな」

 暗い森が、私を出迎えた。

 *

 大国が滅びて、分裂して、発展して、革命が起こって、滅びて、発展した。何百回目かの新たなる一歩を踏み出した世界は、今日も平和だった。刻を数えるのは止めた。魔術師は史実となり、伝説となり、言い伝えとなり、そうして御伽話になった。子供を躾ける合い言葉として、辛うじて息をしていた。

「『勇者と森の魔女』……いつの話だろう、これ」

 古本屋で買った絵本を開くと、人間の勇者が悪い「魔女」を倒そうと森へ行く話が綴られていた。致命傷を負った魔女は森の奥深くに逃げて、二度と姿を現さなかった……なんて、後味の悪い結末を迎えている。

「……勇者、魔女を倒さないんだ」

 二、三回ぺらぺらと繰り返し読んでみても、やっぱりおかしな話だと思う。小さな小屋の中で、誰にでもない言葉が零れて落ちた。

 四回目、表紙をめくろうとしたその時。コツン、と扉を叩く音が聞こえた。驚いた。こんな所に誰かが来るのは、一体いつぶりだろうか。飲みかけの紅茶を置いて、私は扉の方に向かった。


 開いた先には、誰もいない……いや。目線を下げると、見慣れぬ姿の青年が倒れ伏していた。

「えっと、誰?」

 恐る恐る様子を伺う。息はあるし、毒が回っている訳でもない。霧にあてられた様子も見られない。

「重症だ……」

 微かに聞こえる、青年の声。外傷も見当たらず、それでも具合は良くなさそうで。

「大丈夫……? 何が、あったの」

「これは命に関わる……」

 震える手を伸ばしてくる。どうしよう。頭の中で薬草の数々を思い浮かべながら、一先ず彼の手を握った。

「大丈夫、できる限りの事はする。……何が、あったの?」

 私の言葉に、青年はやっと顔を上げた。弱々しく開かれた瞳は美しい緑色だった。よく見ると、額には二本の角が煌めいている。

 そうして彼は、漸く答えた。

「…………おなか、すいた……」


 *

「いやぁ、助かった! 危うく見知らぬ土地で野垂れ死んでしまう所だったよ」

 出来たてのアップルパイを頬張りながら、角の生えた青年は満面の笑みを浮かべた。暖かなハーブティを淹れるべく銀色のケトルを取り出しつつ、私はひとつ溜息を零した。

「……どうして、此処に?」

「ウーン、何でだろう。おかしな風に巻き込まれた事は覚えているんだけど」

 環軸外に迷い込んだかなぁ、と難しい言葉で考え込んでいる。その出で立ちからは、少なくとも街の人間ではないという事しか分からない。前が空いた衣服はワンピースの様だけど、袖にも多くの布が使われた不思議な形をしている。額に光る二本の角は、ドラゴンの様に鋭くもなければ魔物の様に曲がりくねってもいない。彼いわく、半鬼という種族らしいけれど。


「お兄さんが怪しい者に見えるかい?」

 水を暖める私の背中に、見透かしたかの様な声が降り掛かる。少し考えた後、私は小さく首を横に振った。

「分からない事が多いのは確かだけど……少なくとも、道に迷ってお腹が空いているのは事実でしょう」

 湯気の昇るケトルを前に、私はかざしていた手を下ろした。カモミールとオレンジを使ったハーブティは、きっと気持ちを落ち着かせる事ができるだろう。

「……それに、できる限りの事をすると言ったから。此処が知らない所なら、きっと元の場所に帰りたいよね」

「ふふ、優しいお嬢さんだ。まあでも、僕は言う程不安じゃないさ」

 ハーブティを持っていくと、御兄さんは悪戯っぽく目を細めていた。

「迷子である以上に、誰かと話をするのは随分と久しぶりだからね。こうしているだけでも嬉しいものだよ」


 そんな事より、と御兄さんは顔を上げる。黒髪に輝く金色の髪飾りが、シャラリと揺れた。

「この林檎のパイ、おかわりが欲しいのだけども」

 *

 夜のお茶会は続く。沢山買ってきたはずの林檎がもうなくなってしまいそうだ。何度目かの「おかわり」を受けて、私は炎を灯した。

「……こんなに食べて、大丈夫?」

「大丈夫だとも、お兄さん年中空腹だからね!」

 カラカラと笑うお兄さん。彼もまた、長い長い刻を過ごして来たらしい。――最も、私の見てきた世界とは全く違うものみたいだけど。少しだけ、私と何かが似ている気がした。

「帰る場所は追々見つけるとしてだ」

 ふと、視線が絡む。真剣な顔つきの割に、片手にまだ残っているパイの欠片がやけに可愛らしい。

「暫く、共に過ごしてはくれないかな?」

 予想していた、その言葉。何も変わらない、変わるはずがないと思っていた時間に、新しい風が吹いたような。言葉にできない気持ちが駆け巡って、私はやっと微笑むことができた。

「どうかよろしくね」

 


 Ⅱ

 今は昔。雅たる大和の国には、古来から人ならざる存在が棲み着いていた。中でも鬼という存在は人間に悪さをし、女子供を襲い、家財を荒らした。人間は鬼を嫌っていた。

 鬼は自然と同じ物であり、其所に居るモノである。故に、何も無い所から生まれて往年の刻を過ごす――人間に討たれるその日まで。

 ある時、人間の意識に色濃く影響された鬼が誕生した。貌は人間の様、額には二本の角。半鬼の彼は心優しく、人間を愛した。

 然し、人間は鬼を嫌う。それは半鬼であっても変わらない事だった。何もしない半鬼に石を投げ、反撃しない半鬼を嘲笑った。自然たる鬼は仲間意識を持たない為、同族の助けなど最初から無かった。

 彼は人間を愛していた。故に、彼等を責める事はしなかった。彼が責めたのは、愛する人間が嫌う存在、「鬼」そのものであった。

 彼は同族を討った。何体も何十体も何百体も。「この世には鬼なんて存在しない」という言葉が当たり前になるその時まで。

 全てを討ち果たした半鬼は、常世の片隅で悠久の刻を生きる。


 今もまた、人目の着かぬ所でたった一人――


「あぁぁああもうお仕事したくないっ!! お兄さん疲れた!!!」


 ……書きかけの護符を放り出して、冷房の効くワンルームの片隅で大の字になっている。

 *

 日本の世には古来から人ならざる存在が棲み着いている。それは神であり、物の怪であり、妖である。彼等は人間と友好的であり、日々の生活を護ってくれる存在だ。

 彼もその一人として、護符を書く。それは個人の依頼であったり神主の頼みであったりと様々だが……護符を知る存在は、彼一人であった。故に、その依頼は全て彼に差し向けられるのである。

「湿度の高い所には置かない様に、千切れてしまっては効能は見込めません……ってコレ何回目かなぁ!? 最近の神主はまともに護符を扱えないのかい、嘆かわしや」

 部屋の中には誰もいない。これは全て、彼の独り言であった。人間が目の前にいない以上、角を隠す必要も無い。ごろごろと床の上に敷いた畳マットの上を回転して……

「……あ痛ぁっ!!」

 角を机の脚にぶつける。一つの理由として、長い刻を生きるモノとして世界に順応した結果があるからといえようか。異質なのは黒檀の着物を常に着ている事くらい、後はすっかり現代に染まりきった……そんな、涙目の半鬼であった。


 コン、コン。

 ふと、か細く扉を叩く音が聞こえる。普通にチャイムを鳴らせば良いのに……等と考えたが、そもそも人間が尋ねに来るなんて滅多に無いと思い直す。

「どうしようかなぁ、またお仕事かな。居留守で良いかな」

 完全にやる気の無い半鬼は、一応扉の前に立つ。開けるか開けないか、うーんと頭を捻っていると。

 コンコンコンコンコンコンコンコン!!

「うわぁああごめんなさい開けます開けます!!」

 慌てて扉を開け放つ。誰もいない。

「……何だかなぁ。コンコンダッシュってやつかな?」

 呑気に首を傾げる。すると、緑色の風が部屋の中に吹抜けてきた。……いや、彼の周りを巡りだした。

「…あれ?」

 驚く間も無く、彼は風に巻き上げられる。何処に飛ばされるかも解らないまま、不思議な旅が始まったのである――!!

 *

「疲れた……」

 ……不思議な旅は既に終わりを告げそうである。飛ばされた先、其所は見た事も無い森の中だった。長い刻を生きてきた半鬼だが、こんな森の中……しかも自分の護符とは違う、それでいて人間の力ではない何かを感じる場所なんて知らない。取り敢えず彷徨ってみることにした、のだが。

「僕はもう駄目かもしれない……」

 この半鬼、依頼を熟すことに精一杯で既に三日食事を摂っていなかったらしい。簡単に滅びる事が無い存在だからこその奇行ともいえようか。それでも腹は減るし、やる気にだって波があるのだ。

 よろよろと歩き続ける半鬼は、そもそもこの場所が何であるかという事よりも……大切な事をずっと考えていた。

 だからこそ、小さな家を見つけた時の歓喜たるや。最も、踊る程の気力は残されていなかったが。

 精一杯の力を込めて、扉を一回だけ叩く。それが限界だった。ずるずると扉の前に倒れ伏して……頭の中で、危うく走馬灯を見る手前。

 ガチャリと扉が開いて、一人の人間……人間にしては何かが違う様な……そんな存在が出てきた事を感じた。倒れていたから姿はまだ見えなかった。

「……えっと、誰……?」

 声を掛けられるけれど、答える元気も無い。ただ只管に、自分の状況を伝える事に専念した。

「重傷だ……」

「……大丈夫? 何か、あったの?」

 声からして、少女らしい。人間かなぁ、やっぱり違うかなぁとぼんやり悩む。

「これは命に関わる……」

 半鬼が手を伸ばすと、それは両手でしっかりと握られた。柔らかな魔力ともいえる力を感じる。あ、人間じゃないかも。

「大丈夫、できる限りの事はする。……どうしたの?」

 何かが伝わっているという事は、彼女は無意識なのか……それとも、彼女の力がとても強いのか。少しだけ分けて貰った力となけなしの体力を使って、やっとの事で顔を上げた。

 銀色の長い髪を心配そうに揺らす、赤い目をした少女だった。もう人間か否かなんてどっちでもいいや。限界だ。


「……おなか、すいた……」

 そこで半鬼の意識は途切れたのであった。

 *

 何やら良い香りがする。目が覚めると、家の中だった。木とレンガを組み合わせた家は、自分の住み慣れたコンクリートのワンルームではない。きょろきょろと辺りを見回していると、さっきまで見上げていた少女がいた。見ている事に気が付くと、少女は目を瞬かせた。

「……気が付いた」

 良かった、と安堵の息を零す少女。と、思い出した様にキッチンから何やら大きなドーム状の物を持ってきた。良い香りはこれからだろう。

「……アップルパイ、作った。食べる?」

 おずおずと尋ねられる。いやいやお嬢さん、見知らぬ倒れたお兄さんを家に引き入れていとも簡単に餌付けするなんて。

「是非とも頂きます」

 その言葉が先か後か、「食べるに決まってるでしょうが」と言わんばかりの腹の虫。はらぺこ半鬼は素直になる事にした。

 *

「いやぁ、助かった! 危うく見知らぬ土地で野垂れ死んでしまう所だったよ」

 出来たてのアップルパイを食べる。とてつもなく美味しい。少女が溜息を付いているけれど、気にしない。

「……どうして、此処に?」

「ウーン、何でだろう。おかしな風に巻き込まれた事は覚えているんだけど」

 環軸外に迷い込んだか。少なくとも、此処は半鬼の知っている世界ではない。食べ物を口にした事で漸く回るようになった頭を動かしながら、半鬼は改めて少女を見た。不思議そうに此方を見詰めている彼女もまた、自分が異質に見えるのだろうと考えながら。

「珍しい。此処に来る人は、殆ど居ないから」

「……人じゃなければ?」

 思わず口を開いてしまう。己を縛る異質という言葉が、無意識ながらも染み付いていたのかもしれない。それでも少女は、変わらぬ調子で答えた。

「それも、もういない」

 これはワケアリらしい。人に言えないけど。

「……でも、貴方は……人間、では無いんだね」

 とんとん、と己の頭を指さして尋ねる。角を消していないのも無理も無い、何せずっと家にいて……そのままだったから。ほんの少し躊躇ったけど、飛ばされた場所であるし隠す必要は無いか。仮にまた突き放されたとしても、そういうものだ。肯定的か否定的かも分からない結論に至って、半鬼は緩く笑って見せた。

「ああ、お兄さんは半鬼なのさ。半分鬼。分からないかな」

「鬼……」

 彼女は首を傾げる。存在を知らないのか、知っていて嫌っていないのか。それを聞くことはできなかった。

「……そっか。それで、此処でも大丈夫だったんだね」

 少しの間があって、口を開いたのは少女だった。一人で納得してしまって、半鬼は却ってよく分からなくなってしまったが。彼女はそれ以上何も言わずに、静かに立ち上がった。

「ハーブティ、淹れるね。きっと元気になれる」

 そう言って、再びキッチンに向かう。その後ろ姿を、半鬼は黙って見送った。

 *

「お兄さんが怪しい者に見えるかい?」

 お茶の用意をする少女に問い掛けたのは、半鬼の方であった。少女は少し考えた様子を見せたが、小さく首を横に振っていた。

「分からない事が多いのは確かだけど……少なくとも、道に迷ってお腹が空いていたのは事実でしょう」

 おっと、事実だ! 半鬼は少女の言葉に続くものが見つからない。その間を埋める様に、アップルパイの最後の一切れを口にした。キッチンからは、ほのかにハーブの香りが漂ってくる。


「……それに、できる限りの事をすると言ったから。此処が知らない所なら、きっと元の場所に帰りたいよね」

 出来上がったハーブティを持ってきて、少女は言葉を続けた。香るそれはオレンジと……何だろう。兎に角、何となく落ち着く香りだった。半鬼は、自然と顔が綻ぶのを感じた。

「ふふ、優しいお嬢さんだ。まあでも、僕は言う程不安じゃないさ。迷子である以上に、誰かと話をするのは随分と久しぶりだからね」

 最も、依頼の話は年中しているんだけど……という事は伏せて、半鬼は続けた。久し振りどころか、初めてかもしれないという事は……自分でも分かっていない。

「そんな事より」

 何故だかしんみりする気持ちを振り切って、半鬼は顔を上げた。指を指す其所には、既に空っぽの皿。


「おかわりが欲しいのだけども」

 *

「……こんなに食べて、大丈夫?」

 何度お代わりをしただろうか。確かに美味しいし、確かに長い事食事をしていなかったけれど。

「大丈夫だとも、お兄さん年中空腹だからね!」

 事実を述べながら、半鬼はけらけらと笑った。それを見た少女もおかしそうに笑い返す。少女の事を半鬼はまだ何も知らないけれど、こんな時間も悪くないと感じていたのは確かだ。……それはそれとしても、家に帰れない事はどうしようか。溜まった仕事から逃れられる手段であることは言うまでもないが、かといって此処でどうやって生活すれば良いのだろうか。考え込んだ半鬼は、ふと少女の顔を見た。

「帰る場所は追々見つけるとして、だ」

 少女と過ごす事に暖かさを覚えた半鬼。それが限定的なものであっても、長い刻を経て世界に流されてきた存在であっても。この暖かな時間を、まだ終わらせたくはないと考えたのだろうか。

「暫く、共に過ごしてはくれないかな?」

 まさか自分が言うとは思わなかった言葉。その割に、少女の方はまるで分かっていたかの様な微笑みを半鬼に向けた。


「どうかよろしくね」



 交わらない世界のお話が、絡まった物語。

 そんな世界の、はじまりはじまり。




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