第5話

 理蘭の父親、初代マイティ・ジャンプは、現在刑務所で服役中だ。

 正義の信念の元、どうしても許すことのできない存在を殺め、そして捕まり、今は法的な罪を償っている。

 彼が罪を犯したからこそ救われた人は多い。

 しかし、ヒーローが自由に正義を行使できるのは、昼沢が言ってたみたいにマンガや映画の中だけ。

 その行動が、現実の法の尺度から逸脱すれば、どんな理由であれ犯罪者とされる。

 もちろん、裁判によって状況などが考慮されることはあるが、起こした事実は消えない。


 ボクの夢であったヒーロー、その一つの終着点をボクはヒーローになる前に見てしまった。

 そして、そんな現実が許せなくて、認められなくて、ボクはヒーローを継いだのだ。


 理蘭にとっても複雑な話だろう。

 実の父が犯罪者となり刑に服しているのだ。

 ヒーローという信念の部分を共有していない彼女にとっては、ボクよりもやるせないのではないだろうか。

 こんな時、いつだってどんな声をかけていいのか迷ってしまう。

 なんとなく、昼沢とのやりとりを思い出し、頭の中にひっかかっていたフレーズを口に出した。


「蜘蛛って笑うと思うか?」


 理蘭は、その問いに答えるように、バチンと手の平でテーブルを叩きつけた。


 思いもよらない返事の仕方に、ボクはビクンと身体を震わせてしまう。

 彼女が手をどかすと、さっきの蜘蛛が潰れていた。


「表情筋がないから笑わないわね」

「手で直にいっちゃうんだ」

「害虫だからじゃないわ。図々しく日常に侵食してくるからよ」


 そう言って理蘭は自分の掌を眺める。


「確かに蜘蛛が笑うわけないよな。怪奇蜘蛛男じゃあるまいし。あ、ちなみにこの怪奇蜘蛛男ってのはね、仮面ライダーの第一話のタイトルなんだけど、なんでかって言うと当時人気のヒーローだったスパイダーマンを倒すっていう意味が込められてるんだ。昭和のライダーシリーズの第一話は伝統的に蜘蛛の怪人ってなってるんだよ。ちなみに第二話は蝙蝠男でこれはバットマンという意味が……」


 理蘭はボクの話にまったく興味がなさそうに手のひらについた蜘蛛を作業台に乗っていた旧式マイティ・ジャンプスーツでゴシゴシと拭う。


「ちょちょちょっ! 何してんだ。それで拭わないでよ。正義の魂なんだから。悪かったよ、つまんない話して」

「どうしてつまらないとわかっている話を私にしたのかしら?」

「別につまらないとわかってるわけじゃない。ボクにとっては面白い話だから、ひょっとしたら興味があるかなぁ、と思ったんだよ」


 ボクの情けない言い訳じみた言葉を聞くと、理蘭は腕を伸ばしてボクの頭を優しくなでた。

 その無言の行動に驚き、そしてボクの鼓動は早まった。


「悪くない触り心地ね。バカな犬を撫でてるよう」

「それ、バカなっていう形容詞はいるかな? 犬でよくないか?」

「これって体液なのかしらね。それとも蜘蛛の糸の素かしら?」


 理蘭はボクの頭を優しくなでた手の平を見せる。


「まさか、ボクの頭で拭ったのか。そりゃないだろ」

「他に何のつもりで触ったと思ったの?」

「なんのって。その、いい子いい子的な。母性が溢れ出たのかと……」


 改めて言葉にすると、まるでボクがそれを求めていたようで恥ずかしくなる。

 理蘭はそんなボクの葛藤をまったく気にもせずに続けた。


「髪の毛は丈夫な繊維だと聞くけど、蜘蛛の糸とどちらが丈夫なのかしらね?」

「スルーするんだ、聞いておいて。蜘蛛の糸だろ、その丈夫さは小説にもなってる。ほら、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』知ってるだろ? 教科書にも載ってるやつ」

「ええ。確か老婆を身包み剥ぐ話しよね。坊やは好きなのね、老婆の裸体が」

「好きじゃないよ、老婆の裸体なんて。それ、『羅生門』だから。わかってて言ってるでしょ?」

「そう。じゃあ、どんな裸体が好きなのかしら?」

「どんなって、そりゃ、老婆よりは若い方がいいよ」

「若い女の子の裸が大好きで我慢ができないことを伝えるために、この話を始めたのね」

「違う! 我慢出来てるから。っていうか、全然そんなつもりじゃないから! 『羅生門』じゃなくて『蜘蛛の糸』の話だ。地獄に落ちた悪人カンダタに、お釈迦様が蜘蛛の糸を垂らした。するとカンダタ以外にも地獄の亡者が登ってきて、カンダタが嫌がると蜘蛛の糸が切れて落ちましたという話。ボクはさ、あの話を読むたびになんか腑に落ちなくてさ。なんでお釈迦様はそんなことしたんだろ? お釈迦様だよ? 地獄に落ちた者がそんなに純粋じゃないことくらいわかってるはずなのに」


「かすかな希望だけを胸に愚直に登って来て、気持ちが揺らいだ瞬間に失敗する。そんな人間を見るのは、さぞ楽しいことでしょうね」

「ものすごく性格の悪いお釈迦様の解釈だな。確かに本気で助けたいようにも思えないんだけどさ。やっぱりわざとなのかな。お前はどうせ最低の悪人だ、ということを思い知らせるためにあえてそういうことをしたのかな」

「性格や人格なんかよりも行動は状況によって左右されるものよ。明確な善の意思や悪の意思なんてものこそ幻。お釈迦様は蜘蛛の糸を垂らすしかない状況だっただけよ」


 理蘭は説き伏せるようにそう言った。


 達観しているというより、色々なことを諦めて、なげやりになっているような印象を受ける。

 悲しみや喜びを表に出さないのもそうだろう。


 初代が捕まった時も、ボクだけが取り乱し、理蘭は落ち着いていた。

 でも、ボクにとってそれはなんだかとっても切ない。

 無理にとは言わないけど、もっと生き生きと笑ったり、楽しいことにのめり込んだりしてくれた方がいい。

 ボクがマイティ・ジャンプに関わったことで彼女の中の何かを奪ってしまったような気がして心苦しいのだ。


「正しい行いはあるだろ。悪いこともある。どんな人だって、正しくあろうという心を持ってないと、易きに流れてしまうじゃないか」

「ではどういうことが正しい行いなのかしら?」

「それは……色々だよ。その時によって違うだろ。どんな時でもバシッと言い切れる便利な正しさなんてないかもしれない。でもボクはそれを追い続ける。それをやめて『世の中に本当に正しいことなんてない』なんて賢ぶったこと言うようになったら、それこそ人はおしまいだよ――」


横にあったグラスを一気に飲み干す。


「――濃っ!」

「知ってるわ。賢い人はヒーローなんてやらないもの」


 理蘭は空いたグラスにネクターを注ぐと、ボクが飲んだグラスであることを気にもせずに口をつけた。


「濃いのがいいのよ」

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