第4話
「ところで坊や。なんでさっき、呼び捨てで呼んだの?」
「ええっ、そういうこと直球で聞くか。ほら、同い年だし……なんか、自然な感じでそろそろいいかと。ボクのこと坊やって呼んでるし」
「し?」
「し……。ごめん、わかった。理蘭さんって言うよ」
「謝って欲しいとは言ってないわ。なんでなのか理由を聞いたの。なんで今日の今、このタイミングで呼び捨てに変えようと判断したの?」
「判断というか、なんとなく雰囲気だろ、こういのって。特にこれといった理由はないけど、いいかなぁって」
「私と坊やとの間は、今日呼び捨てをしてもいいほど親密になったということ?」
理蘭は更に目を細める。
その視線には怒りというより、哀れみを感じる。
手元を見ないまま、編み物はすごいスピードで進んでいる。
「急にさっき親密になったわけじゃないよ。だけど理蘭……さんだって最初っからボクのこと坊やって呼んでるよな。それに対してボクはとやかく言ったことはないんだよ?」
「そうね。私も自分の呼び方に対してとやかく言ったことはなかったわ。理蘭だろうとゲロ虫だろうと、私だと判断できる呼ばれ方なら返事をするわよ」
「ゲロ虫でも判断しちゃうのか。だったら別に呼び捨てでもいいじゃないか」
「問題はなぜ変えたのかということよ。固定されていないのなら私だと判断はできなくなる。私は変化が嫌いなの。状況に適応するためにコストを費やすよりも現状を維持すること費やしたいの。知っていると思っていたわ」
「知ってるけど、さんをつけないことに慣れるくらいはいいだろ」
「私に適応を強要するだけの理由が、坊やにはあったのね」
「そうだよ。あったの」
「そう。ではこれで固定して。理蘭にするか、それとも別の、御館様でもリッピーでもダーリンでもマイ・スウィート・エンジェルでもなんでもいいわ」
「じゃ、マイ・スウィート・エンジェルにするよ」
理蘭は半月形の目を完全に開き、わずかに唇の端をヒクヒクとさせて虫ケラを見るような視線で静止した。
「やっぱり理蘭で。あ、学校では今までどおり
「そうね、今までどおり私は学校では坊やのことなど呼ばないわ」
理蘭はそう言うとまたものすごいスピードで編み物を始めた。
その姿をしばらく見つめて、また理蘭のペースに乗せらてしまったことにため息がでる。
どうして雛羽理蘭がマイティ・ジャンプ秘密基地のソファでくつろいで編み物をしているかというと、ここが理蘭の家だからだ。
初代マイティ・ジャンプの正体は、
雛羽理蘭の父親だ。
だからここは、初代マイティ・ジャンプの家、兼秘密基地であり、理蘭の家でもある。
マイティ・ジャンプの娘がクラスメイトだと知ったのは、ボクがマイティ・ジャンプに弟子入りして随分たってのことだった。
二代目を継ぐ時も理蘭のことは気になっていたけど、状況が状況で押し迫っていたせいでなし崩し的に引き受けることになった。
理蘭はと言えば、ボクが二代目を継いだことに関して特に賛成も反対もなかった。
呼び捨てになったくらいで詰問をする彼女が、それだけの変化に対して無感情だったとは思えない。
ただ、ボクが二代目を継がない方が、より状況の変化が激しいと考えて受け入れたんじゃないかと予想はしている。
初代マイティ・ジャンプは、ボクのことを『坊主』と呼んでいた。
そのせいだろう、いつの間にか理蘭はボクのことを『坊や』と呼ぶようになった。
初代が坊主と呼ぶのは納得している。
大人だし、ボクは半人前だし、呼び方にも愛情があった。
だけど、同級生から坊やと呼ばれるのは簡単に割り切れることではない。
力関係は完全にボクの方が下だということを認めることになる。
それになんというか男として見られてない感をひしひしと感じる。
とは言え理蘭は、尊敬する初代の娘さんでもあり、ボクは家にあがりこんでいる身だ。
いまいち強くも出れなかった。
嫌だという機会を逸したまま今にいたり、そして今日対等というわけではないけれど呼び捨てで呼ぶという資格を得た。
この小さな小さな前進に拳を小さく握りしめる。
勝利の雄叫びをあげたいくらいだ。
「ふぅわぉ!」
作業台に蠢くものに驚いて声を挙げてしまった。
気分が高揚していたせいで、思った以上の大声が出た。
焦って手をついたせいで、作業台に置かれていたグローブからタッカーの針が飛び、頬をかすめる。
それを避けた勢いで、噴射式の唐辛子スプレーのボタンを押してしまい、鼻と喉の奥の粘膜を焼きつくした。
涙を流しむせながら転がる。
ようやく身体を起こすと、目の前には理蘭の差し出したグラスがあった。
取るものもとりあえず、一気に喉に流し込む。
「もう少し静かにのた打ち回ることはできないかしら?」
「エヘッ……エヘッ……ありがと……ングッ、カッカッカ。エヘッ……エヘッ……濃いっ! これ……なに?」
「ネクターよ」
「な……んで。この……喉につま……る。エヘッ……濃いな、これは! 思いの外」
「もっと味わったほうがいいわ」
「味わう余裕なんて……ケヘッ……もっと、味よりもサラサラ感とかゴクゴク飲める方面を重視してくれよ。……ふぅ。エッヘン……ただの蜘蛛だったよ。ビビって損した。あ、蜘蛛……殺したほうが良かった?」
「どうしてそんなこと聞くのかしら?」
「ほら、蜘蛛は気持ち悪いけどさ、益虫って言われてて、害虫を食べてくれるんだって。だから殺さないで逃がせってうちの親は言うんだ」
「益虫も害虫も人間の都合で決めたものよ」
理蘭は白目がちな瞳を細めテーブルの上を一瞥する。
その表情を見て、喉の奥が苦くなった。
連想される言葉が、ボクの胸をキリキリと締め付ける。
未だ乾ききらない生々しい痛みを持った思い出。
それは理蘭にとっても同じはずだ。
むしろ、理蘭のその表情こそが、ボクの沈めていた感情を刺激する。
善と悪の問題、それに親の話、ボクと理蘭の唯一の共通の話題であり、なるべく避けた方がいい話だった。
ボクが二代目マイティ・ジャンプを継いだその理由がまさにそういった話なのだから。
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