150節
150 簑毛沙保里
私は今がちゃがちゃと食器を洗っている。自分が食べた後片づけではない、修業の一環だ。事情によって庖丁を握れなくなった圭人君に代わって、私が跡取り息子ならぬ跡取り嫁になるという、訳の分からない事態になっているが、まあ、これはこれできっと最適に近い解なのだろう。私の実家のほうの家業は、兄弟の誰かが継ぐだろうし、うん。
しかし、圭人君の御両親がいかにもお優しそうだったというのと、私もそれなりに料理の素養と経験があったということで、正直、まあ、案外楽に行くんじゃないかと思ってたのだが、世の中そんなに甘くはなかった。いや、実際、圭人君の御両親、すなわち大将とその奥方は本当にお優しかったし――女に寿司を握らせるつもりである時点で、意固地でないことは分かってたしね――私自身の地力も、そこまで捨てたものではなかったのだけれども、寧ろ、この世界がとんでもないのだ。「お客さんがお茶を頼んだらシャリ玉を大きめに握る、酒を頼んだら小さめに握る。腹を膨らませに来たのか肴を撮みに来たのかを考えろ。同じように、その人の性別、体格、顔色でも適宜シャリの量を変えてだな、」なんてことを大真面目に語ってたりする訳で、んでこんなものは序の口で、とにかく何もかもを真剣にやらねばならない場所のようである(目分量で鍋に醤油をどぼどぼ
昼の営業の後片づけを終え、私を含めた板前衆の休憩時間となった。二時間程度であるこの休息、皆何をするのかと言うと、大抵寝るのである。だって、朝六時に起きて、なんだかんだで日付が変わるまで働くのだもの、そりゃ、時間があれば寝るさ。
そんなこんなで私も寝所に入った。女は私一人であるので、仮眠の場所も先輩達と一緒の部屋になってしまうのだが、しかし、皆泥のように眠るので身の危険は感じたことはない。生娘でもあるまいし、だいたい、いくら男相手でもそう簡単には取っ組み合いで負けやしないだろう。
この考えが呼び水となり、私は、ふと、この腕っ節の自信の根源となったあの経験について思いだした。副作用がどうちゃらこうちゃらというよく分からない話のせいで全ては憶えていないが、しかし、最後のほうは良く記憶している。おかしな連中とさんざっぱら議論をして、挙げ句に霊場が何やら啖呵を切って、ええっと、……御免、やっぱりうろ憶えだわ。でもまあとにかく大切なのは、私が圭人君にぞっこんであったということだ。
勿論あの出来事はこの上なく忌まわしい。忌まわしいが、しかし、少なくとも私にとってはこの上なく幸いであった。少なくとも、結果的には幸いであった。私がいくらかでもあの時のことを記憶し、すなわち、あの時抱いた感情をかなり完全な形で憶えてることで、また更に、圭人君がやはりいくらかあの日々を記憶し、そしてやはりそこから芽生えた感情を憶えてることで、私と彼の
私が何故彼にそこまで惚れ込んだのかは、少なくともその馴れ初めにおいては、当然全く記憶にない訳だが、でも、これはこれで良いのかもしれない。だって、あの状況下で惚れ込むということは、きっと、血腥い出来事があった筈で、ならば、もしも私がその馴れ初めをしっかり胸に抱き直してしまえば、以降、甘美さに誘われてついついそれを思い返す度に、その腥ささに心を焼かれることになるだろう。それは、頂けない。ならば、その周到な感情の罠を避けるために、根柢、つまり馴れ初めなど忘れてその成果、この狂おしい程の彼への愛慕の情だけを携え続ければよいのだ。
ぼんやり考え込んでたら、いつの間にか寝入ってたらしく、私の体がゆさゆさと揺さぶられた。私は飛び起きて、その先輩に挨拶をしつつ、身支度を始める。さあ、また仕事だ。
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