146・5節
146・5 鉄穴凛子
そしてやって来た理科準備室、というか、理科室の前。準備室には直接廊下に繋がる扉がないそうで、この理科室を介して侵入するしかない訳だ。そこで、意気揚々と理科室のドアノブを回した私達は、しかし、あの輝かしい意気と戦意を一気に毀たれてへなへなとしてしまった。扉が開かない、というか、ノブが回らないのだ。
最初にノブを握って散々難儀した綾戸を見兼ねて――あるいは見返そうとして――一番力のありそうなツツジモリが居場所を奪ったがいいが、やはり彼の力をもってしてもドアノブは頑として回らないのであった。しまいにはミノモすらそのノブに
「
これを聞いて聖具を振り上げる霊場に対して、やはり綾戸が噛みつくように、
「ストップ! 話を聞いていたの? 扉を壊してはいけないんだってば!」
「しかし、その、壁は――何故か――破壊禁止では、ない、私の傘なら、きっと、何度か繰り返せば、壁くらい
これを聞かされた綾戸は、難しい顔になって、
「いやまあ、そうなんだろうけれどもさ、気にかかるんだよね。」
「何がだ?」と、いつの間にかドアノブから剥がれていたツツジモリ。
「ミノモも言っていたけれどもさ、そのタケチって、周到な奴なんでしょう? こんなさ、いや、どうやったのかはよく分からないけれども、とにかくドアを封鎖しただけで安穏とする輩とは思えないんだよね。」
「具体、的には、何をされると、……綾戸は、言うのです、」
「例えば――いや、全然分からないけれどもさ――壁の向こうに破壊禁止物品を立て掛けておくとか? そうすれば、扉の破壊を憚りつつ壁を
ミノモが、
「確かに、ここまできて失格を喰らう訳にも行かないのだから、大人しい手段を考えてみてもいいかもしれない。しかしそのためには、そもそも、何でこの扉が開かないのかを突き止めないと行けないだろうね。ルールとして、鍵というか、錠前は全部破壊されている筈なのに、何故、開くことが出来ないのだろう。」
「そもそも、もしも、施錠によって、開かないので、あるのなら、ば、その、成果は、『ドアノブを捻ったのに扉が開かない』となる、筈、この、ドアノブが微動、だにしない、という状況は、おかしい、何か、仕掛けがある、筈、」
私が、おずおずと言い出す。
「その、ぼんやりした話なんだけれども。いいかな。」
「言ってみてください。」と佐藤。
「じゃあ、あのさ、皆はどうでも良いって言ってたけれども、でもやっぱり私は気になるんだよね、その、端末を手首や足首に固定する方法が。で、もしかしたら、その、同じような手段でこのドアノブも固定されているんじゃないのかなって、そう、ぼんやり思ったんだ。」
綾戸が、
「まあ、ねえ。そりゃ、一瞬たりとでも生存判定が途切れたら困るんだから、その端末の再固定はよっぽどぎっちり行われている筈で、なら、大の男二人が掛かっても回せないくらいにドアノブを固定出来てもおかしくないよね。だからって、それらの手段が本当に同じだという保証はないけれども、状況も形状も違い過ぎるし。」
「しかし、考えて、みる価値は、あるかもしれない、……ミノモ、その、タケチの特徴というか、来歴というか、そういうことを、教えて欲しい、彼に、何が出来るのかを、すなわち。」
ミノモは考えながら、
「と言われてもなあ、彼は洒落たパン屋の息子で、その聖具は、フードナイフといって、平たく言えば調理用の電動鋸だ。ただでさえ物を切る為のものだから、聖具としての威力は凄まじかった。でも、」
ハコオロシが勝手に受け取って、
「死体の手首や端末の金属ベルトを切り裂くのには苦労しないだろうけれども、しかし、再装着にはなんら寄与しなさそうだよね。で、特に武智君が何らかの技能を持っているという話も聞かなかったし、よく分からないや。戦闘では目覚ましかったらしいけれども。」
私が言う。
「その、タケチ本人の聖具はともかくとして、彼が、何か有用な聖具をなり道具なりを、何処かから搔っ払ったことって、なかったの?」
「いや、そんなこともなかったと思うよ。ねえ、圭人君?」
「ああ、同感だ。」
「そう言えば、」と綾戸。「私達、仕留めた筒丸の聖具を回収していなかったんだよ。さっきも言ったけれども、あの時はそれどころではなかったからさ。筒丸の聖具って、何だったっけ? それをタケチがどさくさに紛れて回収していたという可能性はなくもないんだ。」
ミノモが応えて曰く、
「筒丸さんの聖具? 焼き鏝だけれども。」
私が、うう、と呻いた。
「焼き鏝って、所謂烙印を押すアレ? え? そのツツマルって人は、何でそんなものに愛着を、」
「違う違う、」と、慌てたようなハコオロシ。「今言っている焼き鏝とは、そういう、映画の中の拷問吏とか、あるいは牧場主が畜獣に対して使うような代物じゃない。饅頭とか、ケーキとか、そういうものに焦げ模様をつけるためのものさ。そりゃ扱いに気をつけないといけないけれども、とにかくいたって平和的な調理器具だよ。」
この世界に平和的もクソもあるか、という言葉を呑み込んでから、私は言った。
「ええっと、良く想像出来ないのだけれども、結局どういう道具なの?」
ハコオロシは不細工な手振りを交えながら、
「どういうって言われたって、ううんと、そう、正直言ってしまえば、普通の半田鏝の先端に、望ましい形状の金具を着けただけのものだよ。彼女の場合は、桜の模様の、」
「ちょっと待って!」
少し目を剥いたハコオロシに対して、私が続ける。
「今、何と言った?」
「何って、だから、桜の、」
「そこはどうでも良いよ、その前に〝半田鏝〟と言わなかった?」
ハコオロシの表情が弾けた。
「ああ、そうか、半田熔接か! それなら、端末をしっかり保持出来るかもしれないし、そして、」
今度はミノモがその先を奪って、
「ドアノブを固定出来るかもしれないね。そしてそれに必要な半田は、この広い会場、どこかにあっても不思議ではない。高校なら授業、大学なら研究を初めとする夥しい用途で用いられるだろうから。」
佐藤が、
「いや、寧ろ、そんな叮嚀な発見すら必要なかったかもしれないですよ。そこらへんに残された適当な電器や電子機器を破壊すれば、少しずつ、しかし確実に半田が手に入りますから。気長な話ですが、しかし、命が懸かれば人間何でもするでしょう。正直一人きりで退屈でしょうし。」
「しかしよ、その、ツツマル本人でないタケチが、ツツマルの聖具である鏝を使いこなせるのかよ。」
綾戸が呆れたように言う。
「何言ってるのさ躑躅森、出来るに決まっているでしょ。聖具といったって普通の道具でもあるのだから、普通にコンセントに繋げれば、普通に発熱するよ。」
その後ミノモが言うに、
「そうか、いや、その筒丸さんの聖具は、彼らが人肉を調理する上で利用しているということが分かっていた。ならば、もしも武智君が一人で生き残る場合、その、筒丸さんの焼き鏝を出来る限り回収しようとするのが自然な話だったよ。ああ、何故気が付けなかったかな。」
「そんな、ことは、どうでもいい、」霊場が話し出した。「それより、も問題なのは、このドアノブが、半田に縛められているとして、どうやって、それを
私は驚いた。この霊場の言葉によって、皆が気難しげに黙り込んでしまったからである。そして気が付いた。ああ、そうか、私のことを、皆は良く知らないのか。
ついに痺れを切らしたツツジモリが、「一か八かで壁をぶっ壊すか。」なんて、頭の悪いことを漏らし始めたので、私は慌てて遮った。
「ちょっと待ってよ、私なら、その半田をきっと剥がせるってば!」
怪訝そうな複数個の目が一斉にこちらへ向く。
「なんだそりゃ、お前に何が出来るんだよ。」
「出来るよ、ツツジモリ君。ええっと、」
私は上着の中を
「探し物はこれ?」
私の仕草から察したらしいハコオロシが、それを差し出してくれていた。私の大事な大事な聖具、小さな金属へらを。
「ああ、それ。そっか、預かってくれていたのね。」
それを摑もうとして私は右手を伸ばしたが、しかし、彼女は腕を急にLの字に曲げて、私の聖具を彼女の耳の辺りまで引き戻してしまった。
「ちょっと待ってよ、こんなもので何するつもり? さっきから何度も言われているように、ドアを壊してはいけないんだよ?」
「ああ、大丈夫、そんなことしないから。」
彼女は周囲を見渡し、誰も止める様子がないことを確認してから、私に聖具を渡してくれた。よし、これで大丈夫。
私がいつものように聖具に、ヘラに念を込め始めると、良くは見えないが、目の前のハコオロシの顔が驚愕のために歪んだらしかった。
「なに、それ、どういう芸当?」
私は、その、視界を歪める陽炎の原因である、聖具に意識を向けたまま、やや御座なりに、
「なにって、いつも私はこうしていたのだけれども、」
その、高熱を帯びるヘラを見つめてくる綾戸が、呻くように、
「ああ、そういうことだったのね!」
「え、何が?」
「いや、鉄穴、あなたが彼方組のBB弾製作を一手に引き受けているということは知っていたから、さぞかし、珍妙な聖具を用いているのだろうと思っていたんだ。でも、実際に会ってみれば、珍妙は珍妙でも、みょうに頼りない金物に過ぎなくて、一体どうやったらプラスティック成型が出来るのかと、訝しんでいたの。でも、ああ、これは納得だ。熱を用いて、樹脂に可塑性を与えていたのね。」
「しかし、」佐藤が、「半田鏝はともかくとして、何故、そのように回路も何もないタダの金属片が、そのような高熱を帯びることが出来るのでしょうか。不可思議です。」
簑毛がこれに答えた。
「そんなこと言ったら、そもそも、電器の聖具になぜ電力が供給されるのかも不可思議この上ない話だ。聖具たる性質として、幻の電力が回路を走ることが出来るのであれば、やはり、幻の電流が適当なジュール熱を与えても良いのかもしれない。そのヘラが、もともと高熱下で用いられるものであるということも助けになっているかもしれないけれどね。何せ、聖具の性質は明らかに精神に関わりがあるのだから。」
ここで霊場が言い出す。
「やはり、それもどうでもいい話。今重要な、というより、問題なのは、結局、その熱源を理科室内側に貼られている、半田に作用させられない、と言うこと。結局、その手段が、」
私は一度きょとんとして、その後得心してから、
「ああ、大丈夫だよ。霊場さん。」
首を傾げる霊場を置き去りにして、私はミノモやハコオロシを搔き
背中に飛び掛かってくる、霊場の声。
「成る程、熱伝導。ドアノブはドアの裏表で、同期して、動くものである以上、それらは繋がっている筈で、そしてその材質は十中八九、金属、と。」
「その通り、まあ、少し時間はかかるかもしれないけれども、いつかは、向こうに熱が伝わりきる筈。」
私は、扉の向こうから落下音が聞こえたところでこの加熱を止めるつもりだった。しかし、良く考えると、半田が熱を得たしりから滴ってしまえば、きっと殆ど、いや、全く音など発さないだろう。私は目の前で惜しげもなく陽炎と熱気を立ち上らせるヘラを眺めながらタイミングを見計らおうとも思ったが、しかし、やはりそこにもなんら材料がなく、仕方がなしに、「これくらいかな、」と呟きつつ適当にヘラをそこから離した。後ろの方から「さあ躑躅森。アンタの出番だよ、ぎゅっとしっかり握って回しなさい。」「てめえ、なにしれっと人を火傷させようとしてんだよ。」という漫才が聞こえてくるのを無視しながら、私は、袖口を寸余りの服のように引き出し、それを軍手代わりにしてドアノブを包む。軽く手首を捻ると、一切の障碍なしにノブがくるりと回った。私は扉を押し開け、一歩だけ踏み入り、そして振り返る。
「上手くいくもんだね。」
それだけ呟いた私は、その、ちょっとした喜びと、そして大いなる緊張を帯びた皆の様子にようやく気が付いた。ああ、そうか、ここが開いたということは、もう、最後の時がとうとう迫っているのか。
私も気持ちと顔を引き締めてから、再び
「私がいくよ。」
ハコオロシがそう言うので、準備室への先頭を切るのは彼女になった。盾を構えつつその最後の扉に手を掛けている様は、成る程、堂に入っている。きっと、これまでもああやって、彼女は仲間の盾となってきたのだろう。ただ、安全に匿われていただけの私なんかとは違って。
当然の様に私は最後尾で、私とその扉の間には、心身共に私よりも余程逞しい六人の男女がぎゅうぎゅうに詰まっている。この戦いを通じて育まれてきたのか、あるいは、もともとそうだからこそ生き延びてきたのか、とにかく、その六つの背中は皆、岩塊のように力強く見えた。綾戸の、決して広くない背中ですら、寧ろ敢えてその狭小な面積によって密度を高めているかのように、鋭い力強さを漂わせているのであった。
ハコオロシが向こうを向いたまま、扉にかけていた手を離し、挙げ、五本の指を広々と立ててみせる。私がその挙止を訝り始める前に、その親指が畳まれた。ああ、と私が納得することには人さし指が曲げられて、中指、薬指、と続き、最後の小指を折るのに使った力をそのまま活かすかのような、忙しない動きによって、その手が再び扉に躍りかかり、押しのけるようにして道を開いた。そしてやはりその勢いを活かすように、ハコオロシが中へと飛び込んでいく。その背をミノモが、霊場が追い、佐藤やツツジモリ、綾戸もどかどかと準備室へ駈けていく。私は、誰も居なくなった理科室で、そもそもわたしがそっちにいく意味があるのだろうかと一瞬訝ってから、しかし何となくやはり準備室に入るのであった。
右手側へ正対し、何かを注視している人波。まず私はそれを認め、続いて、その一つ一つの横顔に浮かぶ緊張を読み取った。勿論霊場はいつも通りの無表情なのだけれども、しかし、そこにすら透明な緊迫が浮かんでいるように思わされるのは、きっと、他の皆が纏う緊張が余りにも白々しいものだから、本来の領分を大きく越えて、霊場の顔面をも侵蝕してしまっているのだろう。準備室は、右に伸びる直方体の形をしていて、私も皆が注視する、その方を垣間見た。
一人の男、その、袖が捲り上げられた両手首には、夥しい、といっても可算個だが、とにかく沢山の端末がつけられていて、その数個ですら、最早充分に堆いという印象を与える。右に三、左にも三。成る程、足首は止めて腕の方に集中させてきたか。そしてその右手の中から伸び聳えるは、見慣れない器具で、きっとあれがミノモの語っていたフードナイフとかいう聖具なのだろう。当然の如く、そこにはやはりミノモの言うところの幻の電力が供給されていて、その鋸歯は、戦慄きと悍ましい音を伴いながらの、止めどない往復を続けている。その刃の横腹が、準備室の中のか弱い明かりを執拗に捉えてこちらに跳ね返してくる様は、まるで可視化された殺意を浴びせられているかのようだ。さんざ躊躇ってから、私はようやくソイツの顔を覗いた。すぐ、後悔した。その、南国の猿のように目が大き過ぎる相貌は、分厚い敵愾心に覆われていて、一目見ただけで、私の心を鷲摑みにして捻り上げる力を持っていたのだ。
しかし、倒れる訳にもいかない。私は毒されつつある気力を、しかしなんとか振り絞って、両の足をしっかりさせた。
その猿顔が蠢く。
「驚いた。驚いたよ。そりゃ、誰かに見つかってしまう可能性は常にある訳だったが、しかし、どういうことだろうね簑毛、箱卸、その、大所帯は。」
ミノモは問いかけに答えなかった。その、代わりに、
「武智君。愚かしい真似は止めるんだ。君の勝手で、余計な命を奪うことは許されない。その、両腕の端末を外してくれ。」
タケチはいかにも不遜に笑った。
「命を奪うことは許されない、ねえ。何を言うんだろうか、君は。これまで、僕も君も、箱卸も、そしてそこに立ち並んでいる諸兄諸姉も、数知れぬ屍の上に命を繋げてきたんだろうが。簑毛、今更いい子ぶろうったって、そうはいかない。」
代わってハコオロシが、
「ねえ、恵君。何か勘違いしていない? 君は、今、圧倒的に不利なんだよ。私と圭人君は、今更君に味方する気なんて毛頭ないし、他の皆だって当然そうだよ。君一人で六人ないし七人の生存枠を独占しようって言うのだから、そんな君を生かす理由なんてない。今の君に、舌戦を挑む権利はないんだ。今の圭人君からの勧告は、せめてもの慈悲なんだよ。それにすら従わないというのであれば、恵君、ここで死んでもらわざるを得ないだろうね。」
このハコオロシの殺し文句、しかし、タケチは全く戦かなかった。寧ろ、その笑みを深めすらして、
「は、お前達には無理だよ、僕を殺すことなんて出来ない。」
「何を、馬鹿な、」
「じゃあ訊くがね、箱卸。まず、僕の聖具の威力は知っているだろう? 君や簑毛の聖具であれば、蒲鉾か何かのように、いとも簡単に両断することが出来る筈だ。というより、残りの方々のそれも、同程度に容易いだろう。となれば、まず僕に襲いかかった者は、間違いなく死ぬことになる。勿論、その後何人も飛びかかってくれば、ついには僕も対処しきれなくなって斃れるだろうけれども、しかし僕は、最初の一人二人を確実に殺すことが出来る。さあ、問おう、箱卸。君達の中で、そんな、犠牲になることを喜んで受け入れる者は居るのかい?」
箱卸が、言葉に窮するかのように上体をこちらへ逸らした。
そこに続く、タケチの言葉。
「つまり、この狭い準備室で、反対側の壁を背に立っている僕を仕留めるためには、君達は順番に、精々でも二人ずつくらいで挑み掛からなくてはならない訳だが、しかし、その最初の何人かは必ずや僕に殺される寸法なんだ。さあ、この状況で、一番槍を担おうとする馬鹿は、蛮人は、君達に中に居てくれるのかい? 折角今日この日まで、この瞬間まで生き延びて、後僅かでこのサバイバルが終了して、元の世界、元の生活、元の学校、そして何よりも家族の許に帰れるというのに、ここで命を捨てることが出来る者が、果たして居るのかい?」
一人きりだったこのタケチは、佐藤が必死に集めたり、また、私達が懸命に煮詰めた情報など知らない訳で、つまり、このタケチさえ殺せば私達の帰還が決定するという状況を知らない筈なのだが、しかし、まるでそのことを知っているかのように、タケチのこの言葉は、私達それぞれの心に深く突き刺さった。そう、もう、終わる。終わるのに、そしてここまで地獄のような生活を切り抜けてきたのに、勝利は目前なのに、果たして誰が、ここで、今更命を抛つことなど出来るだろうか。
私のすぐ横に立っていた綾戸が身動ぐと、タケチはすぐに声を張った。
「おっと、止しておけ。井戸本組の残党よ。僕は、それを見知っているから心の準備が出来ているし、また、君から最も、かつ圧倒的に遠いのはこの僕だ。故に、君が聖具を振るっても、君の脅威は寧ろその同行者達を強か害することになる。もしそうなれば、寧ろ、こちらから斬りかかることすらあり得るかもしれないな。」
事情はよく分からないが、とにかく彼女の顔が口惜しそうに歪む。
「綾戸さん、武智君のいう通りだ。君は大人しくしていてくれた方がいい。」
「いや、それは分からんぞ、簑毛。その女は、アヤド、というのか? とにかくその井戸本組の残党でも、その可愛らしい聖具で僕に斬り掛かることくらいは出来る。歓迎するよ、アヤド。白兵戦であるのならば、流石に僕の方が勝れそうだからな。」
とうとう綾戸が歯を喰い縛り始めたところで、ハコオロシと並んでの先頭のミノモが、
「いや、止せ綾戸。馬鹿なことは考えるな。」
綾戸は、その、口を縛める苛立ちを、恐慌を、まるで少しずつ噛み砕いて嚥下することで僅かにでも和らげようとしているかのごとく、いくらか口籠ってから、ようやく、
「でも、どうしようというのさ、誰かがアイツを仕留めないと、しかしだからといって、まともに構えている相手に聖具を投げつけるのも、余りにもリスキーだし、」
「案ずるな、」
ミノモはそう言って一歩歩み進んだ。
「僕が行くから。」
ふためいたハコオロシが、その裾を引っ摑みつつ、
「何を言ってるのさ、何で、圭人君が、そんな真似を、」
「誰かが行かないといけない。ならば、僕か君が行くというのが、筋だろう。かつて、彼は僕達の仲間だったのだから。そして、自分の命を可愛がって君を死なせるようでは、簑毛家末代までの恥だ。僕が、行かないといけない。僕が切り捨てられる隙に、君達の誰かが彼を仕留めてくれればいい。」
「駄目、駄目、そんなの駄目だって、圭人君、駄目だよ、」
我が儘を振るうハコオロシを見兼ねたかのように、タケチは話し始めた。
「かつて仲間、か。やっぱり、竿漕が最期に通信で言っていたことは事実だったんだな。君達二人は、僕らを裏切った訳だ。」
必死にミノモへ縋っていたハコオロシは、首を曲げて、その目をタケチの方へ向けてから、
「馬鹿げたことを言わないで! 私達を踏み躙ったのは、寧ろあなた達の方でしょう! 美鈴さんに、その死に、一片たりとも悲しみを負わずに、ただ涎を垂らして
「おいおい、箱卸。この殺し合い生活で、道徳を語るのがどれだけ虚しいか、まだ分かっていないのか? 散々人を殺してきて、今更、人の肉を喰らうのがなんだというんだ。そして、節の死体を仮に手厚く葬ってやったところで、あるいはそれを回収後の作業に委ねたとして、そのことが何になったというんだ。寧ろ摂取して血肉とした方が、彼女の命を無駄にせずに済むだろう。箱卸、自らの勝手な感情を振り回してくれるな。疚しい偽善を振りかざすな。目障りだ。」
「ちょっと待てテメエ。」ツツジモリが身を乗り出すようにして話し出した。その声音には確かな熱と敵意が載せられている。「お前が本当に人を喰っても構わないと思うのであれば、その両腕の、下らない端末の群れはなんだ。お前の蛮行を知られたくないからこそ、お前はそうやって一人きりで生き延びようとしているんじゃねえのか?」
タケチは、寧ろ人を小馬鹿にするような表情を持ち出した。こっちがその気になれば、いくらかの道連れが叶うとしても、やはり彼はひとたまりもなく死ぬのだろうに。凄い、余裕だ。
「僕自身はそう思っているんだよ。僕の誇りは、仲間や敵の死体を喰らおうと全く毀たれないし、また、きちんと新鮮なものを加熱して食しているから、体の方も何ともない。
しかしねえ、名誉はそうもいかないんだ。つまり、僕自身のこの正義感は、世間一般に通じるものじゃないんだよ。ほら、そこの簑毛と箱卸、そして表情からするに君達の多くも、僕の人食行為を軽蔑しているのだろう。僕の行為が知られれば、僕は、生涯この誹りを受けながら生きていかねばならない。僕は、そんなものに耐えられない、いや、少なくとも、耐えるくらいなら、君達全員を、きっかり、一人残らず全滅させること選ぶよ。ここまで散々人を殺めたのに、今更七つばかりの命を奪うことを躊躇うのは、憚るのは、全くおかしな、非論理的な話だ、そうだろう!」
ここまで言われると、ツツジモリは押し黙ってしまった。そんな味方の失態を誤魔化すようにして、間に髪を容れずに霊場が、
「タケチ、……いや、貴様は間違っている。これまでの殺戮は、あくまで私達を、蝕む、ヴィールスの、代行をしてきただけ。そのままでも、自然に消滅すべき、命を、少し早く、刈り取っただけ。しかし、もしも貴様が救われる、べき命を、手前勝手な理由で、七つから一つに減ずのであれば、それは、紛う事無き、罪だ、殺人だ、路上で人を六人刺すのと、何ら変わらない、蔑如されるべき、悪徳、だ、絶対に、許されない、」
タケチは、霊場の話し方に驚いたようであったが、しかし意外と満足げに、
「へえ、成る程、喋り方は酷いが、しかし頭のほうはそっちの男よりは話せそうだな。実に論理的だ。では名も知れぬ吃のレディよ、君に問おう、仮に僕が君の話に納得して、感涙して懺悔してこの端末たちを五つ外した、つまり、君達と全く同じ状況になったとしよう。で、そこからどうやって決めるんだ? 最後の生き残り七人を。言い換えれば、死ぬべき人間を。」
霊場は振り返り、ちらりと私の顔を見て、……私の顔を見て!? おいおい、や、止めて、そんな、いや、だめ、死にたく、
「馬鹿! 鉄穴が怖がっているでしょうが! その顔をどっかに向けなさい!」
こう綾戸にどやされて霊場が再びタケチに向きあってくれたので、私は久しぶりに呼吸をすることが出来た。そんな私の身を支えてくれる綾戸を見てか、タケチは、
「おいおい、随分と仲がいいのだな。」
霊場はその揶揄いを完全に無視しつつも、顔と視線は変わらずタケチの方へ向け、しかし、私に向かって辿々しく話し始めた。
「カンナ、私はカンナに、謝らねばならない。私は、……あなたを、殺そうと思ったの、ではない。寧ろ、最も力を持たないで、あろう、あなたの身が、心配で、つい、その、顔を、眺めてしまった。私の顔が、人並に表情を浮かべる、ことが叶えば、そこには、きちんとした、慈しみを浮かべることが、出来た、だろうに。私は、この身を恨む、この顔を恨む。カンナに、……友に、そんな思いをさせてしまった、この凍てつきし顔を。」
タケチは鼻で笑った。
「本当に、仲が良過ぎるな、君達は。で、まだ答えてもらっていないが、結局君達はどうしようも出来ないのではないだろうか。いざ、正々堂々と最後の七人を決めることになっても、そんなことでは、君達は啀み合えないのではないだろうか。つまり、僕を説得してもしようがない、無意味だ。」
「タケチメグム!」
私は驚いた。聞きなれない声音が、太い、低い、力強い、大地を揺るがすかのような叫び声が聞こえたからだ。その声の主が誰かというのは、耳ではなく、目で突き止められた。最前に居るミノモとハコオロシが振り返り、私の前に居る佐藤やツツジモリも、横にいる女学生を、それぞれ呆然と目を見開いて見入っていたからである。つまり、今のは霊場の叫び声であった。これまで、いっさいの強調を喪失した、極めて非人間的な口調のみを発してきた彼女が、今、その声に、熔岩のような熱を込めて、目の前の敵に向けて吐き出し始めたのだ。
「その通りだ! 私には、貴様を説得しようという意志は全くない。私は、僅かな時間ながら、ここにいる彼らと共に行動し、少なからぬ危機、それは生命的な危機であったり、絆の危機であったり、貴様の下に辿り着く道を見失う危機と、様々だったが、とにかくそれらを、彼らとの協力によって乗り越えて来たのだ。そんな彼らと、身勝手な思いで命を奪おうとしている大馬鹿者を、天秤にかけることがあると思うか。恥を知れこの虚け者。己を知れ、痴れ者が!」
私から見えるのは霊場の背中だけだが、しかし、この文句が、彼女がいつも見せる人形のような顔から発せられるとはとても思えなかった。醜悪なドラゴンの口からソプラノの美しい歌声が出て来得ない様に、あの無表情からこの啖呵が切れる訳がないのだ。故に私は、霊場が、これまで見せたことのない顰め面を作っていることを勝手に想像したし、この想像が外れていない確信も勝手に得ていた。
タケチは、流石にいくらか仰天したようであったが、しかしとんでもない強かさの発露として、すぐに平然と切り返してくる。
「凄い迫力だが、名も無きレディ、」
「霊場だ、霊場小春。」
「ではタマバ、しかし結局、君の言葉はピントがずれている。僕は、最後に死ぬ一人をどう決めるのかと訊いたのだが、君は、君の抱く愛情と敵愾心を語ってくれただけだった。これでは会話になっていない。」
「どうしようもなく暗愚な男だな貴様は。」
この、まともに聞かされた者を凍りつかせそうな声音に、そしてその内容の辛辣さに対してタケチが眉を顰めた隙に、霊場は、前に立つアベックを押しのけ、自らが先頭に躍り出た。そうしてから、右手の聖具をエペの様に突き出し、その石突き、いや、最早切先と呼ぶべきそれと、肩とを結ぶ、まっすぐで鋭い延長線を、タケチの顔面に突き刺す。
「愚鈍な貴様にも分かるように述べてやろう。私は、何があろうと貴様を殺すと言っているのだ!」
タケチは懸命に迫力を恢復してから、
「君が今背負う、即席の仲間達の為に死ぬ気か、涙ぐましいね。君を助けてくれたのであろう、かつての仲間の意志を、思いを、君は裏切るつもりかい? 君の為に死んでいったかつての、本当の仲間を、さ。」
この言葉に私は戦いた。あれだけ周達への想いを熱く語った霊場が、この言葉によって大いに乱されるのではないかと思ったからだ。しかし、私はこの勘違い、いや、最早侮辱を、懺悔せねばなるまい。だって、霊場はこの言葉を浴びても、身動ぎもせずに、つまり恐らく表情も乱さずに――前に立つ霊場の顔についてはどこまでも想像が重なるが――その険しい顔のままで、その迫力を毀たれないままで、こう、言ってのけたのだから。
「私は、確かに、霧崎、霜田、我が姉千夏、そして、やはり我が姉である周響子によって今日まで生かされた。これは、紛れもない事実だ。しかし、彼女らの思いに応えるというのは、別に、何が何でも生き延びるということではない。貴様との問答のお蔭でそう気付かされたよ。命を抛ってでも果たさねばならぬことがあれば、躊躇うことなくそこに命を投ず、それでこそ、私は、私を残して先立っていった彼女達に顔向けが出来るのだ。
私は刺し違えてでも貴様を殺す。人道を外れた、貴様を殺すために、貴様をこの世界から出さぬためにこの命を燃やし尽くす、そうして世界の歴史に僅かながら影響を、良き影響を残す、つまり貴様がもたらすであろう悪しき影響を除く、これが、私の為すべきことだ。これを果たさねば、私は仮に尋常な老婆としての往生を迎えたとしても、彼女達に、とりわけ、周姉様に顔向けが出来ん。そんな恥、耐えられるものか!
それに私は貴様とは違う、名誉になど興味はない、他の弱者と見分けがつかぬ形でここで死んでも悔いはない。寧ろ、誇りだ。私が重んじるは誇りなのだ、そのためには、貴様をどうしても討たねばならぬのだ!」
「非道いものだ。生きるためにやむをえず人肉を食したことを、そこまで論わなくともいいだろうに、」
「どこまでも蒙昧な輩だな貴様は。私はそんなことを論じてなどいない、貴様がその〝名誉〟などという、犬にも喰わせられぬ瑣末で下らないもののために、命を徒に六つ奪おうとしていることが我慢ならんといっているのだ。そして、そんな貴様にヴィールス治療を受けさせる訳にはいかんと言っているのだ。
勧告する、タケチメグム。端末不正行為を口実に、自主的に失格を申し出ろ。そうすれば、貴様はここから追い出され、そして非参加者と同様に、ヴィールスに殺されるまでの日数を、平和裡に、静謐に、過ごすことが出来る。二三ヶ月ほど日数をここで無駄にした訳だが、それは、貴様の愚かさへの代償、あるいは懲罰だと思って諦めるのだな。」
タケチは少し間を取ってから、
「断ったら?」
「この部屋で私と共に、あるいは一人で、死ね。その鋸へ妙に自信を持っているようだが、しかし我が聖具の冴え、甘く見るなよ。」
ここで、もともと少々情けなくなってしまっていたミノモの表情が更に蒼くなった。どうやら、タケチの聖具は本当に悍ましい威力を誇るらしい、それこそ、霊場の傘を容易く真っ二つにするくらいには。
タケチは、いつの間にか元通りの顔で、尋常に話し始める。
「無駄だ、タマバ。諦めろ。僕は絶対に生き残る。僕にはやらねばならないことが沢山あるんだ、こんな下らないヴィールスの為に死ぬ訳にはいかない。僕は必ずや家に帰らなくてはならない、それも、人並みの寿命を携えつつね。出来ることであれば、完全な解散、つまり、君達もバラバラとなり、僕もどこかに行ってからの最後の公平な勝負になるように説得したかったのだが、君は、どうしても肯んじてくれないのだろうかね。」
霊場は、ただ、こう言った。
「無駄だ、タケチ、諦めろ。」
タケチがまた笑う。
「それならば仕方あるまい、タマバ、僕は一か八かで君達七人抜きに挑ませてもらおう。しかし、ここ数日節食に努めたから、果たして体力が持つかどうか心配だ。」
「案ずるな。私か、あるいはその次の者に殺されて、貴様の薄汚い人生は幕を閉じる。」
それまで緩く聖具を構えていたタケチが、真剣な眼差しとなって、そのけたたましく駆動するフードナイフを厳しく立たせた。私にすら分かる。臨戦態勢だ。霊場も、その、脅すために向けていた切先を自分の顔の辺りまで引き戻し、真面目な構えとなる。
ハコオロシやミノモが何かを言おうとしたが、
「二人とも。私が斬られた瞬間にあの馬鹿者を殺せるよう、構えておけ。仕留め損ねたら、絶対に許さんぞ。」
その時、出し抜けに私の肩が誰かに摑まれた。その顔を見ると、佐藤だ。佐藤も、明らかに私と同じくらいにふためいていたが、しかし、何かを言いだした。
「そうだ、鉄穴さん! まだ、残っていますか!?」
へ? 残る? 何が?
私は数瞬そうやって戸惑ったが、しかし、すぐに得心した。ああ、何をやっているんだ私は。私が〝仲間〟から戦闘に纏る何かを訊かれたら、その話題は一つしか有り得ないだろうに!
私は、その、重過ぎる塊をしっかり構え、そして、然るべき動作を行った。前、戯れに、暇を持て余していた鏑木に一度習ったボルトアクション。私は何故か、しかし有り難いことに、それを正確に再現することが出来た。そのまま、私は前に飛び出る。
「皆、どいてぇ!」
霊場に割られたことでもともと道を半ば空けていたミノモとハコオロシは、事態を察しない内に
最早、私の前に居るのは、さっきまでの迫力と余裕はどこへやら、黒い銃口に睨まれて顫え戦く、情けない男、タケチメグム一人であった。
後ろから声が聞こえる。
「無茶だ、それは、お前の聖具では、」
これが誰なのか判断する時間もないけれども、そんなこと分かっているよ。これは私のじゃなくて鏑木の聖具だ。でも、聖具が聖具たる所以は、あるいは条件は、それに愛情を抱くことだ。さて、これまで私を護ってくれた道具であり、そして、私を護ってくれた鏑木の魂の籠る道具に対して、私が愛情を抱かないとでも思うのか?
まず銃口を懸命に頭に向けようとして、しかし思い直す。その胸を、私に鋸を振り下ろしつつあるタケチの胸を狙い、私は、引き金を引いた。
これまでに体感したことのような衝撃が私の腕から背中に走り、貫く。私はマット運動の出来損ないように、ごろんと後ろへ転がされた。
ハコオロシが助けてくれたお蔭で、私は全身に走る痺れと、のしかかるエアガンの重量に何とか抗って、上体を起こすことが出来た。そうして見えてきたのは、床の上に大の字で転がって、打ち上げられた魚のように顫えているタケチと、そして、そのすぐ横に立っている霊場の姿だ。彼女は仮面の呪いが解けたかのように、最早存分に眉根を寄せ、脣を引き締め、沈痛な思いを露にして、その哀れな男を見下ろしている。タケチは原型を留めていて、つまり、やっぱり私の愛情では鏑木達の様な威力を銃にもたらすことが出来なかったらしい。でも、充分だった。どこかを撃ち抜いて無力化させる程度には、私の作ったBB弾に、玩具らしからぬ威力を与えることが出来たのだから。
霊場の、その痛ましい表情が動く。彼女は何故か、左手に、しかも石突きのほうを摑んで、聖具をぶら下げていた。
「タケチ、せめてもの手向けだ。苦しまなくて済むよう、とどめを刺してやる。」
霊場の傘の持ち手部分が、ふと水を飲むのを止めたフラミンゴの頭のように、ぐいっともちあがって、そして一瞬の静止の後、隕石のように振り下ろされた。音がして、雷に打たれたかのようにタケチの四肢がびくんと床から跳ね上がり、すぐに着地すると、二度と、それらは動かなくなった。ここからはよく見えないが、霊場が頭を砕いたらしい。
その霊場が、疲れ切った、しかしどこか優しげな表情、初めて私達に見せる表情として相応しい、いかにも人間らしい複雑なそれをこちらに向けて、何かを言おうとしたが、しかし、それは妨げられた。私の、そして皆の端末が振動し、そして、けたたましい音を鳴らし始めたのだ。今までそんなことなど一度もしなかった端末が、愚かしくも音を鳴らし出すということは、つまり、もしかして、それを聞かれても困らない状況になったということなのだろう。皆、否応無しに最大の希望を抱いて、画面を覗き込む。
『終了。戦闘状態にある場合は即刻中止せよ。』
この、余りにも素っ気ない文字列に、しかし、皆は驚喜した。ハコオロシは私を放り出して、臆面もなく、ミノモと固く抱き締めあったし、綾戸とツツジモリは、流石に抱きあいはしなかったが、それでも、互いの身をバンバン叩きながら、がらがら笑いつつ、訳の分からない奇声を上げている。佐藤はそんなおかしな二人組に対してなにか感慨深いことを語っているようだが、まるで相手にされていない。まあ、何でもいい、皆、好きなように爆発させればいいさ、この、これまでの人生で、そしてこれからの人生からしても、最大の、この上ない歓喜を、爆発させろ。
私も、嬉しさ、喜ばしさに、頭をやられて、それこそ、キメたばかりのジャンキーのようにぼうっと、この幸福感に浸っていたが、しかし、急に立ち上がることになってしまった。向こうで霊場が、突然蹌踉めいたのだ。私が駈け寄る頃には、彼女は半ば倒れ込んでいたが、しかしどうにか下敷きになって、私は彼女の怪我を防ごうとする。うぐ、流石に、重い。
「御免なさい、カンナさん。とても疲れてしまって。」
そう語る彼女の顔には、しっかりと、ちょっとした慙愧とちょっとした困惑、多少の疲労、そして何よりも、大いなる喜びが刻まれていた。私は、彼女と絡まっている体勢を
「霊場さん、どうしちゃったの。その、表情も、話し方も。特に、話し方。あなたが、あんなに堂々と言葉を発すことが出来る人だったなんて。」
霊場は、最早人並みに眉根を寄せて、
「一人になってから私は常に、周姉様ならこの場でどうしただろうかと、ずっと、ずっと考え続けてきた。彼女は、いつでも凛々しく、いつでも強く、いつでもお優しく、いつでも賢しく、そう、一点の曇りすらない、まさしく理想の人格を備えたお方だったから、きっと私は、彼女のようになりたかった。彼女に憧れていた。そして、この思いが、とうとう、タケチの言葉によって、タケチへの怒りによって、弾けた。私は、そう感じた。
つまり、私は、不細工なりに周姉様のように振る舞おうと努力し続け、そして、それがついにいくらか叶ったらしいの。この、最早自然に出てくる口調も、そして、先程タケチにぶつけた強い口調も、私の記憶の中の周姉様のものに極めて近くなっている。勿論、本当の周姉様の語りは、私とは比べ物にならないほどに高い知性によって支えられていたのだろうから、全く一致、とはいかないけれども、でも、少なくとも、私が満足出来る程度には、その話し方を、つまり彼女の歴史の産物を、帯びることが出来ている。
私は今、この上なく幸せなの。その、自分でも気が付かなかった、周姉様の様になりたいと言う思いが叶ったからだけじゃない、また、生き残りが決まったからだけでもない、これら二つが重なることで、つまり、周姉様の人格らしきものを持ち帰ることが出来る。多少その風味が損なわれつつも、とにかく、あの素晴らしいお方の人格の一部を、保存することが出来た。私は、ああ、とても幸せ。もう、死んでもいい。」
彼女は笑っていた。人間味がないなどと、最早世界の誰にも言わせない、愛らしい顔だ。
「馬鹿、死んだらしょうがないでしょう。あなたが生きて、そして、七八十の、普通の年齢まで生きてから死ぬ。それでこそ、あなたに幸せをもたらしている原因、周さんの変則的な帰還が、叶うのじゃない。」
「そうね、それも、そう。」
霊場はこれだけ言うと、寝転がるように私の上から
私はそんな彼女の寝顔のそばにしゃがみ込みつつ、向こうで相変わらず馬鹿みたいに騒いでいる連中と、人目を憚らず、まるでそうやって生殖する生き物であるかのように、ぎゅっと抱き締めあう男女を眺めていた。なんという平和だろう。ああ、終わったんだ、全て終わった。
空に浮かぶことすら出来るのではなかろうかと思われるほどに、ふわふわとした思いを体中に充満させていた、この時の私の記憶は、あまり、定かではない。
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