第一章 煮詰められし真実

140節

   第一章 煮詰められし真実


140 佐藤壮真

 一番大変だと思われた仕事は済んだ。後の仕事は、彼らが聖具を手に取って戦い始めてしまわないように取り計らうことと、そして、謎を解明することだけだ。勿論、「召喚が一番大変な仕事だと」だけであって、残るこれら二つの仕事の方が案外大変である可能性も十分にある。特に最後の仕事、メインディッシュ、これの解決がどれだけ大変なのかはまるで分かったものではない。果たして、どうなるか。

 僕は、すぐ左脇の机に着いている女学生、霊場に、ふと話しかけたくなった。

「あなたは、どう思われますか?」

 彼女は、まるで会話をするのが今日初めてのことでもあるかの様に、つまり、その非人間的なまでに瑕――すなわち黒子やシミ――の無い艶やかな顔と相まって、まるで本日会話機能のプログラムをようやく導入された新品ぴかぴかの発語人形であるかのような印象を与える、不可思議な、覚束無い口調で返してくるのであった。

「わからない、私達の、……私の、知っていることは、限られている、限られた、その中では、やはり、あなたが、何かの、ミスを、犯しているのでは、と、訝らざるを、怪しまざるを、得ない、」

「しかしです。僕の情報が確かであることは、周さんも、」

「それは、あなたが、あそこで十分全知、かつ、十分誠実であったことの、論拠にはならない、」

「ですが、僕はこうやって大それた会合を企画し、そして、自らの身を最大の危険に晒しているのです。これは、僕が確かに困っているということに対する、最大の証拠ではないですか? つまり、僕が誠実であるという証拠にもならないでしょうか。」

 彼女は、そのぐりぐりと大きな瞳をそっぽへ向かせ、少し考えてから返して来る。

 「成る程、確からしい、しかし、憶えておくといい、結論によっては――これは『結論が得られない』という結論をも内包するが――私に最大利得を、与える行動が、ここであなたを斬り捨てることになる、かもしれない、ということを、」

「おや、僕を脅かしているのですか?」

「その通り、私は本気、でなければ、それくらいの保険がなければ、つまり最悪でもあなたの首級を土産に出来るという保険がなくば、私はここまで抛てない、だから、そう、私が言いたいのは、せいぜい、気張りなさい、私がこれ以上人を殺さなくて済むように、そして、あなたが死なずに済むように。」

 この脅迫に一応緊張しながら、僕は、話し慣れてきたのか、少し彼女の喋り方が聞き取りやすくなっているのに気が付いた。しかし、相変わらずリズムというかテンポというか、そういうものがおかしいという印象も得てしまう。果たしてこの女学生はどうやって周達とコミュニケーションを取っていたのだろうか。例えつうかあの仲だったとしても、そこに至るまでにはやはり堆い会話の蓄積が必要であったろうに。

 そんなことを考えていると、前触れもなく扉が叩かれた。時計の短針の位置で考え、僕の座る机の場所を十二時、彼女が座る場所を一時四十三分とすると、丁度六時の方向に位置する扉がドンドンと震わされて、そして、僕の右手首も鳴動し始める。

 端末画面を一瞥して通信相手の名前を読み取った僕は、ボタンを操作する代わりに大きな声で、

「どうぞ、躑躅森さん、お待ちしておりました。」

 六時の扉が開けられる。そうして入ってくる男、躑躅森馨之助は、この、等間隔に並べられた七つの机が円を象る教室を見て、随分と準備が良いことで、とでも言いたげに顔を顰めた。

 僕は、努めて慇懃に、

「躑躅森さん、あなたの席はそこです。」

 僕、彼女、と時計回りに巡って三番目に来る席、三時二十六分の位置を僕が指し示すと、ややふらつく足取りの躑躅森はそこに座り込みながら、僕に向かって、

「お前と、そこの女と、」

「霊場です。」

「そうかい、ちょっと黙っていてくれ。ええっと、あれだ、折角びくびくしながらやって来たのに、お前とそのタマバしか居ないのかよ。他の連中は?」

「今から四人目をお喚びします。もう話はついていますので、すぐに来て下さるでしょう。」

「今からだぁ? おいおい佐藤、何でそんなに手際が悪いんだよ。」

「これが最善の手際ですよ。だって、あまりに強大な相手をいきなり呼んでしまったら、僕と霊場さんがいきなり殺されて終わってしまうかもしれないではないですか。脅威はバランスを考えながら少しずつ呼び出すことで、それら同士が適当に牽制しあうようにせねばなりません。これぐらいの用心感覚が無ければ、僕の命なんて今日まで持ちませんよ。」

 躑躅森は少し考えてから、いかにも面白くなさそうに言った。

「おい、そりゃ、俺が最弱ってことか?」

 僕は慌てず、

「怒らないで下さい。確かに最も手強いとは思っていませんが、だからと言ってあなたのことを最弱とも思っていませんよ、全く。そこそこのお力を持つようで、しかし、霊場さんにはなかなか敵うまいと思って、あなた最初にお呼びしたんです。」

「そうかい、まあ、どうでもいいさ。次を呼んでくれよ。」

「もう、呼びましたよ。通信を打診することのみを彼らとの合図としておりましたので、あなたと話しながらこっそりと済ませました。」

「そりゃ、器用なこって。」

 その後、何を思ったかじいっとその顔を見つめ続ける霊場のせいで、躑躅森が露骨に居心地悪そうにするのを眺めて楽しんでいると、大して待たぬうちに、再び扉が叩かれた。

「どうぞ、お二人とも。」

 僕の声がこう勧めたのにもかかわらず、まず部屋に入ってきたのは大きな大きな鍋の蓋のみだった。久しぶりに見ると本当に大きい。そして、その鍋の蓋が挟まる、僅か開かれた扉と壁の間の狭い空間を通して真剣にこちらを窺う二つの目は、成る程、今日この日まで生き延びてきたことを納得させられるほどに用心深い目だ。僕が安全を保障するかのように両手を拡げると、しかし疑い深いその目は、白目の狭い面積の中で懸命に瞳を游がせ、本当に危機らしいものが部屋の中に存在しないかを確かめようとしている。こちらが待ちあぐね始めた頃、ようやくその瞳は納得を得たようで、扉が開け放たれて一組の男女が入って来た。挨拶をしようとする僕に先んじて、その、鍋蓋を抱える女性が、

「お、ツツジモリじゃん。本当に生きてたんだ。」

 躑躅森は――鍋蓋を見た時点で誰なのかを察していたのだろう――いかにも余裕げに返した。

「お前達こそ生きていたんだな。感心するぜ、たった二人でよ。」

 入ってきた二人組の内の残り、男の方が応える。

「その言葉は、寧ろ僕達を蔑むことになるのではないかな。だって、複数人で生き残ったのは、僕達だけなのだろう? 君も含め、皆、一人きりで逞しく生き残ったのだろうに。」

「そう細かいことを真面目にほじくるなよ。頭が痛くなる。」

 この躑躅森の返しの後に、僕がさしはさまった。

「簑毛さん、確かに躑躅森さんはその様に扱ってもいいような気がしますし、一人きりで生き残ったというのは僕も似た様なものです。ですがどうか、他の方にそう言うのは止めて下さい。残る三人は、こちらの霊場さんも含めて、直近になって突然仲間を失ったのです。その言葉は大変な挑発になり得るでしょう。我々は、非常に危うい、有るか無しかの絆によってこの部屋に集うのだということを、心得て頂きたいのです。こちらから喚んでおいて、大変恐縮なのですが。」

 簑毛は顔を顰めてから、

「失礼、佐藤。そして、何よりも、……ええっと、」

「霊場です。」

「タマバさん、君に当てつける意図はなかった。どうか許して欲しい。」

「構わない。」ここで彼女は、二人称の選択に手間取るかのように間を取って、結局、ただ、簑毛の方を指さしながら、「……が、何を思おうと、何を言おうと、私は、二人の姉に助けられて、今ここに居る、その事実は変わらない、気にしなくて良い、しかし、二度と言わないで、欲しい、悲しくなるから、」

 簑毛は、霊場の言葉の不自由っぷりに面食らったようで、慙愧に困惑を織り交ぜた奇妙な表情を持ち出したが、しかし、結局素直に霊場の言葉に従い、つまり大して気にせずに手近な席に着こうと……おいおい、ちょっと待て。

「済みませんお二人とも。席は決まっているんです。」

「何でさ。」と箱卸の不満げな声。

「ああ、いえ、全体の安全の為ですし、まさかあなたと簑毛さんとを離したりはしませんよ。僕の右隣にあなた、そのまた隣に簑毛さん、という席順でお願いします。」

「まあ、確かに、圭人君と引き剥がされないのなら何でも良いけども。」

 そう言いながら箱卸は十時十七分の席に着き、続いて簑毛も八時三十四分の位置の席に座る。その際の彼らの足取りはややふらついていて、妙に覚束無かった様にも思えた。やはり、餓えているのだろうか。

「では、次の方をお喚びしましょうかね。」

 そうして僕が一言二言の通信を終えた後、箱卸から怪訝そうな声が飛んでくる。

「ねえ、佐藤。あなたさっき、全体の安全の為にこの席順にしたと言ったよね。」

「言いましたが。」

「あれ、嘘でしょ。」

 この牽制に少し動揺した僕は、わざとらしく肩を竦めて誤魔化しつつ、

「どういう意味ですか?」

、じゃなくて、の安全でしょう? あなた曰く比較的友好的であるタマバさんを隣において、そして、防御的な聖具を持つ私を反対側の隣に置いたんだ。私からなら、もし攻撃されてもそこまで苛烈でないだろうし、また、他の連中からあなたが攻撃されても、上手いこと私が守ってくれる可能性が多少期待出来る、と。」

 僕は参ったので、そのような仕草を素直に見せつつ、

「切れますね、箱卸さん。その、あなたの理智もお貸しして頂けるのであれば、この問題の解決、ひいては我々の生還も容易に果たせるかもしれません。」

「シャッポを脱ぐのすらまっすぐじゃないね。まあ、良いけれども。確かに、協力しに来たのだし。」

 彼女は、僕から見ると扉を挟んで睦まじく並んでいることになる、残り二つの空席の方をちらを見やってから、

「ただ、あそこに座るのであろう、アヤドからあなたを護れる気はあまりしないけれども。」

 僕はつい眉根を寄せつつ、

「箱卸さん、あなた達はあの綾戸さんを妙に評価しますが、誰かと勘違いなさっていませんか? 僕の知る彼女は、戦闘を行えるような気質の持ち主に見えませんでしたよ?」

「何言ってるのさ。もしそうなら、本当に戦えないのなら、ここまで生き延びてる筈がない。」

「しかし、現に今日まで生き延びている鉄穴さんは戦闘能力が皆無ですが。」

「そりゃ、超レアケースだよ。そもそも、直前までツミキなる男に」

「鏑木さんは女性ですが。」

「どうでもいいよ。とにかくそのツミキにカンナはべったり守られていたのでしょう? ならそういうこともあるかもしれないけれども、でも、少なくともアヤドの場合はきっと違う、彼女は、恐らく、実力でここまで生き延びてるのだと思う。」

 僕から見て彼女の頭の左奥で、簑毛が、表情だけでこの言い分に肯っていた。彼らの確信に、僕は戸惑いを覚える。

「まるで、目で見てきたかのような言い分ですが、」

「見たもの。見た。」

 僕はちょっと座り直してから、

「何ですって?」

「私と圭人君は、その、アヤドと思しき人物と戦ったんだよ。その時にアヤド達が勝手に逃げ出してくれたからこうして有り難く生きているけれども、少しでも向こうに攻めっ気があったら危なかったと思う。」

「その、綾戸と思しき、とはどういう意味ですか? 赤外線で名前を抜いたのであれば、思しき、なんてことにはなりませんし、そうでなければ、全く知る術がないはずです。」

「情報を綜合した結果、その時の敵がアヤドだったと思われる、という、私と圭人君の推論だよ。確実でないことは認めるけれども、それにしたって、何であなたは、そう、訝かるのさ。」

 僕は正直に吐露する。

「信じられないのですよ。この目で見た、あの綾戸さんが、人を戦かすことが出来るだなんて。」

「ふぅん。」

 こうして箱卸は――不満げながら――黙ってくれたが、しかし、今度はこちらの番とでも言うかのようにして、一つ奥の席から簑毛が語り始めた。

「佐藤、その、アヤドと思しき人物に赤外線を当てられなかった可能性は確かにあるんだが、しかし寧ろそれによって、その同行者の名前を知ることが出来た可能性があるんだ。」

「さっぱり分かり兼ねるのですが、どういう意味ですか?」と僕。

「その、僕や箱卸さんと対峙したアヤドと思しき人物は、一人きりではなかったんだ。男一人女二人の三人連れだった。そして僕達は、その内の一人の名前を抜くことに成功したんだよ。確かにこれはアヤドという名前でなかったが、しかし、もしも本当にアヤドの同行者の名前であるのならば、佐藤、君がそれを保証出来るのではないだろうか。つまり、僕達が酷い目に遭わされた人物が確かにアヤドであって、君の持つアヤドへの印象――白痴の無能力者――が誤りであることを、君の知識、情報自体が証明してしまうのではないだろうか。」

 僕は、自分のうなじのあたりで両の五指を絡めつつ、綾戸彩子と特に近しかったと思しき、ある人物の顔と名前を思い浮かべた。成る程、もしも簑毛の知った名前がこの人物のものであれば、確かに、彼らは綾戸と対峙して、そして僕の知らない彼女の脅威を認識する契機を得たことになるのだろう。まあ、あまり有り得ると思えない話だが。

「簑毛さん。残念ですが、僕の持つ情報では綾戸さんに近しい人物は一人しか居ないのですよ。勿論単に、他の同行者となり得る人物を僕が知らないだけの可能性もありますが、」

「その、君が知っている人物と言うのは、女か?」

「はい。」

「じゃあ、その一人に上手く当てはまるかもしれないぞ。『絵幡蛍子』だ。」

 合致。

 棚すらないところから牡丹餅が降ってきた、そんな印象を僕は覚えた。

 僕は情けない動揺を懸命に打ち消してから、

「はい、その人物は確かに井戸本組の者で、そして綾戸さんにかなり近しい筈です。ならば、確かに綾戸さんとあなた達が出会ったことになるのでしょうが、しかし、……やはり信じ難いですね。」

 簑毛はすこし背を反らしながら言った。

「まあ、水掛け論はこのくらいにしておこうか。これから来るアヤドの姿を見れば、きっと、君も考えを改めることになるだろう。そして、もし君が本当に箱卸さんの言うような意図で席を決めたのなら、彼女、アヤドを最も遠巻きしたことは、この上ない正解だったということになる。」

 僕は、こっちだって生で綾戸彩子に対面したことがあり、その上での印象なのだが、という意地っ張りな言葉を呑み込んでから、

「いえ、簑毛さん、そこの二席は、寧ろ最もか弱いお二人を配置したつもりなんです。ほら、扉、すなわち逃げ道が近いじゃないですか。」

「そうか。だとしたら、アヤドには無用な心遣いだったろうね。」

 簑毛がそう言いながら扉の方に目をやると、それに呼応するかのように、扉が強く叩かれた。

「どうぞ、綾戸さん。」


 僕が声を張った結果、堂々とした足取りで侵入してきたその小柄な女性は、目の前の、彼女から見て右の席の椅子を乱暴に引っ摑んで、勝手に座った。僕は、二分の一の確率で彼女が想定通りの席に着いてくれたことに、つまり座り直しを頼まなくて済むことに、感謝してしまったのだ。だって、その眼光は、気を抜くと射殺いころされそうな程に鋭いものだったから。今はその目が虚空を目指しているようであったが、しかし、それでも、そこから放射される戦慄は空気か何かを伝いつつ僕のところまでしぶとく届き、どろどろと纏わりついてくる。他の同室者達も同じような感覚を得ているようで、皆、揃いも揃って押し黙っていた。そして少なくとも、僕の席から表情を窺いやすい躑躅森と簑毛は、明らかに慄然としている。突如闖入してきた恐怖、蒼ざめた馬に跨がっていないことに違和感を覚えさせられるほどの、具体的な脅威、そんな印象を僕は覚えた。

 しかし、このまま黙っている訳にもいかない。僕は口を開く。

「綾戸さん、ですよね?」

 後悔した。その恐ろしい瞳が、こちらの眉間を正確に射ぬいたから。

「あなたが喚んだんでしょ? 何? 喧嘩売っているの? ヤる気?」

 僕は慌てて、

「勘弁して下さい、ここでの会合はあくまで完全に平和的目的に基づいて行われるのです。実力行使は厳禁です。だからこそ、それなりの代償をお渡しすることになっているではないですか。」

 彼女は、僕から視線を外して(有り難い!)何かを考え込み始めた。この隙に改めて綾戸の姿を眺めると、確かに、あの日、子供のような挙止――おんぶをねだったり――で絵幡を辟易させていた綾戸彩子そのものの体にしか見えない。小さい背丈、ぼんやりと黄色いブレザ、そして、これでもかと言うくらいの童顔。

 その、やはり幼い印象を与える口が再び開く。

「まあね。確かにここで殺しあうよりは、大人しくあなたに協力した方が期待値は高そうだ。ただ、さ、その代償とやらはいつありつけるの? そろそろ、しんどいのだけれどもさ。私が苛ついたら、きっと、全体からしても不利益だと思うのだけれども。」

 この綾戸の文句に共鳴するかのように、箱卸が自らの腹に手を当てた。僕は、すぐ横のその光景を少し気にしながら、

「もうしばらく待って下さい。全員が揃ったらお渡ししますので。」

 綾戸は、自分の脇の空席を指さしながら、不愉快げに、

「じゃあ、早く喚んでよ。」

「ああ、はい。」

 彼女の迫力のせいですっかり手際が悪くなってしまっていた僕は、最後の一人を今になって呼び出し始めた。そのせいで、僕は、と言うか皆は、この居心地の悪くなった空間で長いこと最後の出席者の登場をむっつり待つことになってしまったのである。簑毛が「ほれ見ろ」とでも言いたげな顔を見せてくるのに、僕が心の中で詫びていると、

「あなた達、何処かで会ったっけ?」

 綾戸が簑毛や箱卸を、ひらひらとした手の動きで示していた。簑毛が答えて曰く、

「ああ。一度交戦した筈だ。恐らく君が聖具を打ち鳴らして、そして僕達が参った隙に退却したものだと思ったよ。」

 綾戸は小さく頷いてから言った。

「やっぱり。で、あの時のもう一人は、もしかして今から来るの?」

 間があり、

「いや、残念ながら。」と簑毛の厳粛な声。

「まあ、そうだよね。」

 そうして綾戸は、寂しげな表情を作ってから顔を伏せた。彼女はあの大所帯の井戸本組の出で、それも最後の一人だ。当然、誰よりも多くの死別に対面し、そしてその内の多くは彼女に只ならぬ衝撃を与えたのだろう。そうでなければ、これほどまでに悲しげな翳りを、あの幼い顔つきの上に並べられるものだろうか。さっき僕は偉そうに簑毛を窘めたが、しかし、簑毛は仲間との死別をいくつか知っている筈で、その苦悶、その悲哀を知らないのは、実は、寧ろ僕の方なのである。僕の方こそ、この先誰かの感情を逆撫でしないよう、気をつけねばなるまい。この部屋に居る僕以外の彼らは、仲間の死が築いた礎の上に立っているわけで、つまり、僕は、僕だけは、その礎の脆さと尊さを身に沁みて知らないのだ。これは、心得ておくべきだろう。


 その後、扉が羊羹で出来ているとでも思い込んでいるのではなかろうか、そう思わせられるほどに、おずおずと弱々しく、扉を叩く音が聞こえてきた。そのあまりのぎこちなさに僕もおずおずとしてしまったが、しかし、綾戸がすぐ痺れを切らせて、

「佐藤ならここに居るよ、入ってきなさい。」

 その声に体を顫わせたかのような少しの時間が経過してから、彼女はゆっくりと扉を開けて中に入ってきた。その表情は、しかし、意外と引き締まっていて、足取りも確かだ。綾戸ほどではないが、これはこれでまた、すっかり見逸れていたと言うより他あるまい。ああ、とにかく促さねば、

「そこに座って下さい、鉄穴さん。」

「鉄穴?」といきなり綾戸。

 少し目を見開いた彼女に対して、僕が言う。

「どうかしましたか。」

「ああ、いや、何でもないよ。」

 この間無言の鉄穴は、最後に残った五番目、六時五十一分の席に着いたが、ちらちらと綾戸からの視線を送られて居心地を悪そうにしている。あの二人には何らかの確執があるのだろうか。もしそうだとすれば、この配置は失敗だったかな。

 しかし、今更そういうことをぐちぐち言っても仕方あるまい。ここまで漕ぎ着けたのだ。あとは、やるしかない。僕は、これ見よがしに立ち上がって、注目が十分こちらへ集まるように間を取ってから語り始めた。

「さて、皆さんに集まってもらったのは他でもない。当然でしょう、皆、今はこの問題以外のことなど考えられない筈ですから。

 我々七名は確かに生き残り、勝利した筈です。この忌まわしい、悪夢のような煉獄のような日々を、食べるものも儘ならず一時も気を休ませられない、そして、人を信じることすら極めて自由でない日々を、生き延びた筈でした。

 しかし、何故かこの殺し合い生活の終了が未だ宣言されません。故に我々はこの問題を、この謎を解決せねばなりません、我々自身が生き残る為に、そして、この戦いで敗れ、命を落としていった彼らに報いる為に、です。」

「本当に、そんな大袈裟に構えることなのか? 誰か一人――例えばお前なんかを――追加で殺してしまえばいいだけじゃないのか?」

「いいえ、躑躅森さん。既に申し上げたと思いますが、そうとは限らないのですよ、この問題を起こしている原因の種類によってはね。確かに、一人分のの様なものが有るのならば、あなたの言う通り、私を殺せば大団円を迎えるでしょう。しかし、この誤集計とやらが、きっかり一人分だけである保証は御座いますか? そのエラーの幅は、もしかすると二人分、三人分、あるいはそれ以上かもしれない。もしかすると七人分すら超えているかもしれない。もしそうだった場合、ここに居るあなた以外の六名をどうにかあなたが殺害しても、尚も終了が宣言されないことになります。その時、一人きりとなったあなたは問題を解決出来るでしょうか。一切の情報も助けもなしにそれが要求されるのです。もしそれが果たせなければ、緩慢な死、餓死があなたを襲うことになるでしょう。

 つまり、我々は、七名全員がそれなりに健全な状態で生き残っている今の内に、全力で協力し、全力で考えることで、この問題に全力で取り組むべきです。これは難しくないと思います。何せ、これが上手くいった暁には、我々全員がここから生きて、勝者として脱出することになり、これを言い換えれば、協力しないことによる利益が殆ど有り得ないことになるのですから。

 宜しいですか? 宜しいならば考えましょう。何故、生き残り七名を決める為のこの戦いが、ここにいる七名以外に生き残りが有り得ない状況にもかかわらず終了しないのか。この為に皆、まずは、お互いに知っている情報を出しあおうではないですか!」

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