131節

131 彼方組、鉄穴凛子

 か細い光が窓から差し込んできた。夜明けだ。あの後私と鏑木は、死体の転がっていない近くの教室に逃げ込んでから、只管ぼんやりと待機していた。その間、ふとした拍子にすぐ鏑木が死ぬだの殺せだのと遠回しに言ってくるので、かなりの時間、私は寝た振りをしてその口を塞いでいたのである。そのお蔭でか、夜、鏑木が眠りについてから、私の目は妙に冴え冴えとしてしまい、果たしてちっとも眠りにつけなかった。

 私がぼんやりと、窓の外の、そそっかしい間抜けが麦茶をぶちまけたかのように見える橙色の空を眺めていると、もぞもぞと鏑木の体が動いた。やっぱり、その、覚醒に向かいつつある顔は不愉快そうに歪んでいる。

 彼女の目が開かれた。鏃のように鋭い目。

「鏑木さん、お早う。」

 鏑木は、いつものようにコキリコキリと首を鳴らしてから、こう言った。

「凛子、朝なの?」

 私は何気なく応えようとして口を開き、しかし、そのまま固まった。その、半端に開かれた口が、両側へ引っ張られるようにして引き攣っていき、そして、私の顔中が痙攣し始める。涙が溢れてくる。歔欷が始まった。私は、その、鏑木の問いかけの意味、重さに気が付いてしまったのだ。あんなに、忌まわしい程に空を染めている朝焼けが白々しいのに、鏑木の目は、あれが見えていないのだ。

 どれくらいだろう。少なくとも、橙色だった空が黄色くなるくらいに時間が経ってから、尚も泣きじゃくり続ける私を見兼ねた鏑木が、まるでパイプオルガンを擬人化したかのような重々しい口調で、

「凛子、一晩待ったわ。もう譲れない。もう、待てない。」

 私は身振りでも言葉でも一切返事をせずに、そのまま嗚咽に溺れていたが、しかし、

「凛子!」

 その声には、伏せていた私の顔面を鷲摑みにして、前を向かせ、しゃくり上げを止める力があった。そうして目に飛び込んでくる鏑木の、斧の刃のように引き締まった相好が、私を捕らえ、縛め、固める。

「凛子、お願いだから、私の命を、人生を、台無しにしないで。ここで少しでもあなたの足を引っ張ることになったら、私は、この上ない恥と不名誉を被ることになる。そんなの、絶対に御免よ。凛子、私を殺して、お願い。鏑木あんずを、恩知らずにしないで。」

 私は、懸命な努力によって頭を振った。

「嫌。嫌よ。どうして、どうしてあなたのことを殺せるというの。」

 しばらく間があってから、

「凛子。」

 その言葉に、いつの間にかまた伏してしまっていた顔を上げると、そこにあるのは、当然鏑木の顔だったが、しかし、少し前とは様子が違っていた。やや和らいでいるというか、いや、……緩んでいる?

「凛子、あなたはきっと大きな勘違いをしている。この状況を、鉄のようにかたくなな私と、やはりがんとして言うことを聞かないあなたとの口論の場だと思っている。違って?」

 私は訝しげに言った。

「違うの?」

「違う、全く違う。いいこと? 井戸本組と思しき連中が私達を襲いに来たタイミングの都合で、私は最後に取れる筈だった食事を逸している。もう、私の空虚な胃には冷たい何かが刺し込み来始めていて、心までも脅かしつつある。」

「だから、昨日、パンを半分食べなよって、」

「黙って聞きなさい。とにかく私は空腹の限界なの。そしてね、凛子、仲間を失ったのはあなただけじゃないのよ? 突然釘抜、銀杏、彼方が殺されたことで、衝撃を受けているのはあなただけじゃない。私もなのよ。」

 鏑木の意図が垣間見え始めたので、私は脣を固く結びなおして緊張する。

「もうちょっとだったのに、もうちょっとで皆で生きてここを出られると思ったのに、思っていたのに、一日にして、いや寧ろ、一瞬にして、皆殺されてしまった。居なくなってしまった。本当に、後ちょっとだったのに。

 そしてね凛子、後ちょっとで、私自身もここから生き延びられる、外に帰れる筈だった。永い永い、本当に永かった殺戮を乗り越えて私は無事帰れる筈だった。なのに、なのに、数瞬ばかり引き金を引くのが遅れたばかりに、あるいは、あんな芸当が出来る奴が井戸本組に居ると知っていなかったばかりに、私の目は潰されてしまった。この上ない、無念。

 そして、あなたに対して女々しい、情けない姿を、つまり醜態を晒してあなたを惑わせぬようにと、必死に気持ちを整理して、虚勢を張っていたのに、あなたが、まだ分からない治るかもしれない、なんて甘言を掛けてくるものだから、私は、そう、私の虚勢は、ぼろぼろと崩れて始めて、ついには、もしかしたら本当に目が治るかもしれない、なんて幻想を追い求めるようになってしまったのよ。そう、希望を抱いてのよ。そして、この夜明けによってその希望は裏切られた。一度しっかりと芽吹いてしまった希望を無慈悲に抜き取られた私の心は、その希望の〝根〟が、それがずるずると引き抜かれるにつれて、私の心の土壌を寸々ずたずたに裂いて、ごりごりと削り上げて、そして、最後に土竜の出入り口のようなぼっかりとした汚らしい築山を残していくことで、そう、もう、見るも無残に傷つけられてしまったの。ねえ、凛子、分かる?」

 鏑木の目が、最早何も捕らえない無用の器官が、しかしこの上なく存在を主張し始めた。

 鏑木が、泣いている。

「もう、限界なのよ。私は、もう、ぼろぼろなの。耐えられないの、鉄のかたくなさだなんてとんでもない。もう少しなのよ凛子、あなたがそうやって嫌々をして、優しい言葉を、温かい言葉を私に掛け続ければ、私はもう少しで折れてしまう。あなたに従ってしまう。生き長らえてしまう。私の心はもう、限界だから。

 でも、なのよ。私は、死なねばならない、あなたに殺されねばならない。それが、多少なりともまともな、昨日の、そして今の私の出した結論だから。ならば、まもなく生まれるであろう、情けない鏑木あんずの弱音に道を譲る訳には、決していかない。」

 鏑木の顔が、かつてはこの上なく凛々しかった彼女の顔が、ぐしゃぐしゃに崩れていく。盛りを過ぎた桜のばら蒔いた死骸が、汚い泥の上で散々雨に打たれ、その桃色を漏出しつつある、そんな、いつか見た光景を私が思い出すほどに、時折手で覆われる今の彼女の顔はびしょ濡れで、汚く、全ての強かさを失っていた。こんな鏑木は見たことがない。見たく、ない。

 そして、ついに、漏らすようにして、

「あなたを苦しめたくないの。お願い、どうか、殺して。私が私であるうちに、どうか、どうか、」

 とうとう、私はこう言った。

「分かった。」

 自分でも少し驚いたほどの重い声。伏しがちだった鏑木の顔が一瞬固まり、そしてその後おずおず上がる。私は、そこに向かって続けた。

「そんなあなたは見ていられない。私はあなたの死を糧にして、いや、皆の死の上に立って生き延びていく。だから、だから、お願い、今一度あなたらしい態度を見せて。虚勢でも、なんでもいいから。」

 鏑木はしばらく微動だにせず、しかし、その後乱暴に涙を拭って笑顔を作った。力強い、逞しい、不敵な笑顔。たとえ中身が空っぽだとしても、その表情は私に嬉しかった。

「分かったわ、凛子。湿っぽいのは無し、笑って別れましょう。」


「私だって詳しくはない。でもきっと、ここ、」鏑木は自分の首に走る太いものに指を当てつつ、「この頚動脈を切れば、あなたでも簡単に私を殺せる。さあ、そうして。ただ、私のことを思うなら、そこそこ深く斬りつけて頂戴。意外と、動脈の位置は深いから。」

 私は寝転がる鏑木から目を離して、自分の聖具、血を知らぬ聖具を見つめ始めた。これまでに戦場に立ったことのない、しかし、BB弾の製造を介して、あのちっぽけな弾の存在を介して数知れぬ命を奪ってきた、卑怯な聖具。そして、鏑木や彼方君達を支え、守り、そして彼らから感謝されてきた、チームの象徴たる聖具。複雑な性格を持つこの聖具が、その純潔を、処女性を、甘えを、失おうとしている。そして仲間殺しの汚名と、皆の希望を担うという重責、あるいは栄光を同時に得ようとしている。こんなちっぽけな聖具が。

「鏑木さん。」私はゆっくりと口を開いた。「私、多分、あなたの死を看取れない。首を切ったら、多分、凄い量の血が飛び出てくるのよね?」

「そうなるでしょうね。」

「じゃあ、私は、それを直視するのに多分耐えられない。夥しい鮮血の中で体温と生気を失っていくあなたの――恐らくは力なく笑った――顔を見つめ続けるのに耐えられない。この上なく大切なあなたが、私の目の前でゆっくりと死んでいくのを見届けるには、私、弱過ぎる。」

「有り難う。私もあなたのことがこの上なく大切なの。」

 意図的に本題を無視した鏑木の言葉に、どきりとさせられた私は、つい目を伏せ、しかしなんとか言葉を継いだ。

「だから、私はあなたの頚動脈を切り裂いたら、きっとすぐに部屋を飛び出てしまうわ。最低の、卑怯者よね。でも、」

「許す。」

 声のほうを向くと、鏑木の目が力強くなっていて、

「それくらい、許すわ。寧ろ、ある意味では一人の方がいいかもしれない。恐らくはなんらかの激情を覚えるあなたに縋られるよりには、一人で、静かに、意識を、生命を毀っていくのも悪くないかもしれない。安心して、凛子。私はそれくらいであなたを恨んだりしない、決してね。」

 私は固く、強く頷いた。

「有り難う、鏑木さん。」

 そして、泣き出さないように努めながら、

「本当に有り難う、鏑木さん、あなたが、あなた達が居たから、居てくれたから私はここまで、」

「そこまでよ、凛子。湿っぽいのは無しと言ったでしょう? それに、ここで感傷に浸っては、あなたか私の決心が揺らいでしまうかもしれない。もう、別れの挨拶は十分よ。さあ、済ませて。」

 私は、たっぷりと時間を取ってからようやく頷いた。そして寝転がったままの鏑木の頭の辺りに躙り寄り、聖具を持ち上げる。手が顫えているので止めようとした。止まらない。止めようとする。止まらない。どうしても、止まらない。神経に電極でも差されているのかという、釣り上げられた沙魚のような震えが止まらないのだ。自分の呼吸音が、とても煩く聞こえてくる。この上なく荒い。

 鏑木が笑った。

「どうしたの? 手許が覚束無いのかしら。まあ、構いやしないわ、こんなに的が大きいのだもの。さあ、臆せずに斬りつけなさい。」

 そう言った彼女は、これ見よがしに顔を背け、つまり、切り裂かれるべき首筋をより露にした。私は息を飲み、聖具を振り上げる。

「鏑木さん、本当に有り難う。」

 私がそう呟き、辛うじて見える鏑木の横顔の笑みが応えるように少し深くなったその瞬間、聖具を握る手の顫えが止まった。私は、振り下ろす。柔らかい感触、爆ぜ、噴出、臭い、堪らず勝手に立ち上がる足腰、勝手に返る踵、勝手に戸を開く手、そして、体が勝手に廊下へ駈け出ようとしたが、しかし、私は全身全霊を籠めることで自分の体の制禦を取り戻し、その戸口で振り返った。

 鏑木は、背けていた顔をいつの間にかこちらに向け直していて、私と目が合うや否や、血飛沫を浴び始めているその口の動きが、一言、

「有り難う、凛子。行きなさい。」

 私はまた振り返ると、後ろ手に戸を閉め、廊下を駈け去った。彼女の死の瞬間に、少しでも遠くに居たかったのだ。私は、卑怯者だから。


 駈け疲れた頃に飛び込んだ教室。私は、崩れるようにそこの中央に座ると、端末を操作しようとした。まだ鏑木の名があるかどうか、見ようとしたのだ。しかし、それには及ばなかった。自動販売機での購入以降に全く弄られていなかった私の端末は、現在の所持ポイントを大袈裟に示すような配置の画面を呼び起こしたままで、そこには、心当たりの一つしかない、大量のポイントが、

 最早、誰も私の涙を止めてくれなかった。広い教室にひとりぼっち。私は、ひとりぼっち。

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