124節
124 彼方組、鉄穴凛子
闇の中。最初の内のしばらくは、恐ろしいくらいに静かで、自分の呼吸の音だけが私の世界を支配していた。その後、誰かの、聞きなれないくぐもった声が聞こえてきて、私は堪らずに端末で皆に助けを求めて、そして、恐ろしい衝撃と共にそいつらは打ち破られたように思えた。安心したのも束の間、結局その声の主はまだ去っていなかったようで、また、知らない声が聞こえてきて、私の心は再び凍りつかされた。その後は、上からまた何かが降ってきたような衝撃と、叫び声と、訳の分からない英語と、閃光とが私に覆いかぶさってきた。こんなところに潜んでいるのに、あんなに眩しく感じるだなんて、もしかして、外にいてあの光をまともに浴びたら危なかったんじゃなかろうか。そう思うと、空恐ろしい。
私は、そういった騒ぎ全てを憎み、嫌い、怖れた。つまり、私の目と鼻の先で殺戮が起きていることを、憎悪し、嫌悪し、そしてやはり怖れたのだ。しかし今は、それすらも恋しくなってしまっている。静謐、しじま、沈黙、停滞。どの言葉が相応しいのか、私の知性ではよく分からないが、とにかく、今私を闇と共に包む無音が、私を酷く苛み始めていた。皆、どこに行ってしまったの? 音を出す必要、つまり、戦う必要がなくなったのならば、なんで、帰ってこないの? ねえ、皆、どうしたの? ねえ、帰ってきてよ、皆、……鏑木!
そうして私は、闇黒の中で一人静かに泣いていた。勿論、右手の端末を少し弄れば、今、誰が生き残っているのかを簡単に知ることが出来る。しかし、しかし、しかし、もしそれで、皆の名前が消えてしまっていたら、私は、一体どうしたらいいというのだろう。これまで皆におんぶに抱っこされて浅ましく生き延びてきた私に、何が出来るというのだろう。だから私は、その端末を弄る勇気がどうしても出なかった。自らの命運と、そして皆の死を知る勇気が、どうしても得られなかったのだ。ああ、心が、萎れていく、助けて、誰でもいいから、助けて、お願い、
私をいたぶり続けていた無音は、しかし、突然破られた。扉を開く音が聞こえたのだ。敵? 私は顫え上がったが、しかし、
「凛子、居るの?」
鏑木だ! 聞き紛う筈がない、鏑木の声だ! 私は懸命に押しのける振りをした。そうしているうちに、鏑木がすぐ手助けしてくれると思ったから。
しかし、一向に持ち上がる気配がない。私は堪らずに、
「鏑木さん、私はここ! 出して!」
一応頑張っては見たが、やはり私の腕力ではとても無理だ。私は、早過ぎた埋葬に見舞われたがごとく、目の前をどんどんと叩いて、自分の居場所を知らせる。おかしい、何故、こんなことをする必要があるのだろう、当然鏑木は、私の居場所を知っている筈なのに。
その後、とんでもなく長い時間をかけて、ようやく鏑木の気配が近寄ってきてくれて、どうやら私を覆う棺桶を
「そっちじゃない、摑めるのはもっと奥だよ!」
私は、何を鏑木は手間取っているのだろうかと訝りながら、その、彼女の手の気配を誘導した。
「ああ、ここね。」
そう言う鏑木の声が聞こえると、彼女の手が把手にかかったらしく、ようやく私を閉じこめるそれが持ち上がり始めた。私も微力ながら、両腕に力を込めて彼女を助ける。そうして、私はとうとう重たい教壇の中から脱出することが出来た。
いつも通り薄暗い部屋、そこには沢山の見慣れないもの、天井に空いた大穴、そこから降ってきたらしい机や椅子の残骸、それに呑まれている死体とが、それぞれ新たに鎮座していた。しかし、そんなものは一切合切私にとってはどうでも良い。鏑木だ。鏑木が帰ってきてくれたのだ。
私は彼女の顔を探し、当然すぐに見つけた。そのまま鏑木に抱き縋ろうとして、躊躇う。私は自分でも躊躇った理由が一瞬分からなかったが、しかし、すぐに想像がついた。鏑木の様子が、おかしい。何故、私の方を見てくれないの?
「鏑木さん?」
私がそう声を掛けると、目の前の鏑木が、ようやくこちらの方に顔を向ける。しかし、その目の焦点は明らかに私に結ばれておらず、表情はどこか空虚だった。
「凛子、そこに居るの? そこに居るのね?」
鏑木の訳の分からない言葉、なにかふざけているのかと一瞬思ったが、しかしその、いつもの凛々しさの代わりに何かもっと虚しいものを搭載した鏑木の顔は、とても、愉快そうには見えなかった。
「ああ、凛子。」
彼女がしゃがみ、おずおずと手を伸ばしてくる。座り込んだままの私は、そのか弱さに駆られて、急いで鏑木の手を摑んだ。すると鏑木はすぐに握り返してくる。痛い。しかし、不快ではなかった。
「凛子なのね、本当に無事だったのね。ああ、良かった。」
鏑木は、相変わらず訳の分からないことを口走っていた。なんだろう、まるで、目の前の私のことが認められないとでも言うような、その、
私ははっとした。さっき教壇越しに閃光を浴びた時に感じた不安を思い出したからだ。私はあの時こう思った。もしもあの光をまともに浴びていたら大変だっただろうと。まさか、……まさかまさか!
「鏑木さん、もしかしてあなた、目が、」
私のいかにも沈痛な声に、鏑木は虚しい笑顔を浮かべた。普段の彼女の凛々しさ、逞しさ、強かさを全て喪失した、空っぽな笑顔。
「一瞬、出遅れたわ。もしも、私が後一瞬早く引き金を引けていたら、こんなことにはならなかったでしょうに。」
五体も視力も満足な筈の私の方が、縋るように言った。
「見えないの? ねえ、私のことが見えないの?」
鏑木は
「何も見えないわ。さっきカメラを差し向けられて、シャッターが切られたと思った瞬間、とんでもない光が私を襲って、そうして白くなった世界が、そのまま、色を、暗さを、取り戻してくれないの。ずっと、ぼんやりと明る過ぎるままの、純白の視界。」
私は鏑木の手を振りほどいて、その代わりに、彼女の両の二の腕を摑み、やはり縋った。
「ねえ、でも、治るんでしょう? しばらく時間を置けば、また、見えるようになるのでしょう?」
鏑木の顔が暗くなる。
「確実なことは言えないのだけれども、きっと、駄目だと思うわ。何とか記憶と手探りを頼りにここに帰って来た訳だけれども、しかし、その間全くこの光の帳は消えてくれていない、薄まってくれていない。まるで、恢復の兆候がないの。」
私は、無意味な動作とは気が付かずに首を振って、
「分からないじゃない、もしかしたら、明日辺りにあっさり治っているかもしれない。」
「いえ、きっと駄目よ。きっと治らない。」
鏑木はその虚ろな両目を、懸命にこちらと合わせるようにしているように見える。
「凛子。私ね、ここに戻ってくるのに、凄く苦労したの。何度も転んだりしたし、時間がかかったの。それで、その間、ずっと考えていたのだけれども、聞いてくれる?」
「何?」
鏑木は、一つ息を吸ってから、一語一語をしっかりと、けっして聞き漏らすなと言わんばかりに、発音した。
「凛子、私を、殺して。」
私は無意識のうちに鏑木の意図に逆らい、聞こえなかった振りをした。
「え? 何て言ったの?」
鏑木は、諭すように、私の両腕を引き剥がして床に置いてから、
「凛子、私を殺しなさい。でないと、餓え死んでしまうわ。もう気が付いているのでしょう? 彼方や釘抜、銀杏は死んでしまったのよ。私を殺さないと、もう、あなたはポイントを得ることが出来ない。さあ、殺しなさい。」
私の声はこれ以上なく震え上がった。
「何言っているの、そんなこと、出来る訳が、」
「出来るに決まっているでしょ? あなたの聖具、人の喉笛を搔っ切ることぐらいは出来る筈よ。」
「馬鹿! そんなこと言っている訳ないじゃない! なんで、どうして、私があなたのことを殺せるのさ!」
「私はどう考えても足手纏いよ。鈍器の類ならともかく、銃が、盲滅法で当たる筈がない。一発外して、近寄られて、殺されて終わりよ。なら、せめてあなたの糧になりたい。
前に言ったでしょう? 私達は、あなたのお蔭でここまで戦ってこれたの。だから、私達はあなたを絶対に死なせない、あなたを全力で守る。そう、だから、あなたの足を引っ張る訳にいかない、あなたがこの先逃げ延びるのを邪魔する訳にいかないの。ならば、戦えない私は消えねばならない。そして、消えるのであれば、せめて最後にあなたの糧にならないといけない。さあ凛子、殺して。」
「馬鹿、馬鹿、馬鹿、何言っているのよ。治る、あなたの目はきっと治る、だから、私をまた助けてよ!」
「その可能性、私の目が治る可能性は著しく低いわ。そんな幽き望みの為にあなたの生存確率を毀つ訳にはいかない。」
「だからって、なんで鏑木さんが今すぐに死なないといけないのよ? 別に、何日もこの先生きていればいいじゃない。そして、それで本当に駄目だったら、考えないといけないかもしれないけれども。」
私は、どの道鏑木を殺す気なんて全くなかったが、しかし、こうでも言わないと彼女が納得しないと思ったのだ。結局、彼女は長い沈黙の後に、
「分かったわ。そこまであなたが言うのなら、もうしばらく様子を見ましょう。でも、もしも駄目だったら、」
私は鏑木の手を振りほどきながら、立ち上がり、大きな声を出すことでその先を封じ込めた。
「さ、鏑木さんもお腹空いているでしょ、私はぺこぺこだよ。ちょっと自動販売機に行ってくるね。」
鏑木は、立ち上がらぬままに首を傾げる。
「あなた、大丈夫?」
「まあ、怖いけれども、一人でいくしかないわよね。私しか動けないのだから。」
「違うわ、ポイントのことよ。」
「え、ポイント? 二人分の食べ物でもせいぜい四十ポイントくらいでしょ? それくらいなら持っているわ。」
鏑木が目を閉じて首を振った。
「そう、あなたは通知を見ていなかったのね。無聊に苛まれていると思っていたから、てっきり既に見ているものだと、」
「何? どういう意味?」
「いいから通知を見なさい。恐らく、一番上よ。」
私は自分の端末のボタンを操作して、鏑木の言った、一番上、つまり最新の通知を開いて、ざっと読んで、絶句した。
私が凍りついたのを何となく覚ったらしい鏑木が、
「どう? とんでもないでしょう? 販売機の値段が元の二十五倍に跳ね上がっているのよ。私の記憶しているあなたの手持ちでは、パン一つ買うのが精々なのではなくて?」
私は、唾を一つ呑み込んで、落ち着いてから、存外聡く思いついた。
「ええっと、そうだ。じゃあ、鏑木さんのポイントを寄越してよ。きっと、今日の戦いでいくらか得たのでしょう? あなたの分もきちんと買ってくるから。」
鏑木は、すぐに右手を差し出してきた。ああ、そうか。もう、彼女自身では端末の操作が出来ないのか。私がしゃがみ込んでその右手を取ると、
「大丈夫かしら?」
私には鏑木のその言葉の意味が全く分からなかったが、とにかく彼女の手許に目をやった。右手の甲が赤く腫れ、まるで手の平サイズの猫に引っかかれたかのような幾本もの細かい傷が皮膚の一番上の層を切り裂いており、その内の二三本から血が滲み出ている。そう言えば、ここに戻るまでに何度か転んだと言っていたっけ。きっと、その時に手を打ち据えて擦り傷を作ったのだろう。痛々しいが、しかし、まあ、大事には至るまい。
「凛子?」
鏑木の訝しげな声を聞かされて、私は気を取り直し、端末の方に視線を動かしつつ、
「ああ、ちょっとまってて。今すぐに、」
私は絶句した。え? ちょっと待ってよ、嘘でしょ? え? え? だって、こんなことが、こんな非道いことが、起こる訳が、ないじゃない、
「ああ、やっぱり、大丈夫じゃなかったかしら。ほら、私、何度か転んだと言ったわよね?」
私は顔をがばっと上げて、鏑木の顔を見つめた。そこには、また、虚しい笑顔がぷかぷか力なく浮かんでいる。
「その時に一度、右手を強かぶつけてしまったのよ。怪我は大したことなかったようなのだけれども、端末を床に打ち据えてしまったことが気になって、ボタンの辺りを撫でたの。そうしたら、」
鏑木の言葉は、私の右手の中の光景を裏付けていた。そこには、鏑木の端末、画面は全く無事なのにも
「凛子、あなたの端末の方を見て欲しいの。私の名前、そこにあるかしら。」
私はその言葉に急いで従って、かつてない手際の良さで目的の画面を引っ張り出した。
「あるよ、あるある! 〝鏑木あんず〟の名前があるわ!」
鏑木が頷く。
「そう。と言うことは、私の端末は一応生きているのね。ただ、私が触った感触と、あなたが見た感じでは、どうやら操作が全く不能になってしまっている。違う?」
私は鏑木の端末を摑み直し、思いつく限りのボタンを操作して見た。幾つかのキーは機能するようだが、しかし、肝腎の決定キーが全く反応しない。これでは、何も出来ない。今の画面から動けない。
私の沈黙を勝手に――しかし正確に――解釈した鏑木が、
「ということは、凛子。やはりあなたは近々私を殺さないといけないでしょう。」
私は声で鏑木に噛みついた。
「何でよ!」
「だって、さっき彼方組を幾人か殺したことで私が今持つそこそこのポイント、このままでは全く利用価値がないわ。ボタンが死んでいるということは、何とか自動販売機に辿り着いても何も購入出来ないでしょうし、また、端末操作によって誰かに譲渡することも出来ない。ではどうするか、答えは簡単よ。端末操作を一切必要としない方法であなたにポイントを渡せばいいのだわ。つまり、殺害。」
「そんな、そんな。……いや、違うわ! 端末の故障は一時退場で修理してもらうことが出来る。だから大丈夫よ! 何も気にすることはない!」
鏑木の顔は、しかし、暗く沈んだ。
「私だってそんなことは考えたわよ。ここに戻ってくるまでに本当に時間がかかったのだから。もしも、私が尋常な状態なら、そういう修理を行うのも良かったでしょうね。」
私は、鏑木に見えもしないのに眉根を寄せて、
「どういう意味?」
「私は明らかに戦闘不能。そしてやはり、もともとの盲人ならともかくこの場で失明したものが戦える筈がない、と思うのが普通の感覚よ。ならば、私のような存在が一時退場したら、もう、この場には戻ってこられないかもしれない。そのまま、強制リタイアになる可能性が高い。そうなったら、当然あなたを助けられず、ポイントも渡せず、そして、虚しくヴィールスに殺されるのを待つだけの日々となるのだわ、何も見せてくれない夥しい光の中で。それは嫌、あなたを助けられずに多少生き長らえるだなんて有り得ない、絶対に御免よ。そんなことをするくらいなら、」
「鏑木さん! もう言わないで! 分かった、分かったから、少なくとも今日のうちは、私にあなたを殺せだなんて、絶対に言わないで!」
鏑木は、一応頷いてくれた。
「分かった、約束する。もう、今日はそういうことは言わない。……今日はね。
さあ、お腹が減ったのなら、パンでも買ってきなさい。ぼやぼやしていると、また値上がるかもしれないわよ?」
私は立ち上がる。
「分かったわ。すぐに戻ってくるわね。そうしたら、半分ずつ、」
「駄目よ、少なくとも今日のところはあなたが一人で食べなさい。もしも私の目が、あなたの言う通りに治るようなことがあれば――そして何らかの奇跡的手段でポイントが手に入れば――その後は私も食べさせてもらうわ。でも、それまでは、つまり、私が生き長らえることが確定するまでは、何を食べても無駄に終わる可能性がある以上、私は何も食べないわ。」
私はしばらく黙った後。結局何も言葉を返さずに立ち上がり、背を向けて部屋を出ていった。単独行。自動販売機までの短距離とはいえ、これまでに経験したことのない恐ろしいものの筈なのだが、しかし、私の心は戦かなかった。もっと、妙な感情に溺れるのに忙しかったのだ。
鏑木の、大馬鹿野郎。なんで、なんで、私なんかの為に、そこまで、
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