118節から123節
118 逸れ、簑毛圭人
僕と箱卸さんは唖然としていた。さっき来たばかりの通知がとんでもなかったのだ。以前もあった自動販売機の値上げだが、しかしこれは、いくらなんでも、
「圭人君、どうしよう。」
箱卸さんの縋るような吃り声に、僕は、彼女を安心させたい衝動に駆られたが、しかしそれも容易ではなかった。何せ僕自身も深く動揺しているのだから。
「とにかく、冷静に考えよう。この通知、自動販売機の商品の値段が二十五倍になるという通知だけれども、一体全体何事だろうか。」
「何事ってどういう意味さ。この通知から読み取れるのは、私達がもう二度とまともに食事を取れないだろうということだけだよ。」
「そうじゃなくて、ええっと、そう。例えば、ついこの間にも自動販売機の値上げがあったよね。」
「あの時は二倍だからどうにかなるかと思ったけれども、でも、今回のはあまりに酷いよ、これじゃ、このままじゃ、」
僕は、目の前で狼狽える箱卸さんの両肩を、わざといきなり摑み、わざと力を少々込め過ぎた。彼女はぎくりとしたが、これでいい。箱卸さんの感じている強烈かつ有害な狼狽を、何か他の感情、例えばどうでもいい戦きで塗り潰せればそれで良かった。
「おちついて箱卸さん、そして僕の話を聞いてくれ。ええっと、だから、前にもこのような値上がりがあったよね。」
彼女はとにかく頷いた。
「で、その時の理由って何だったのだろう。値上がりのきっかけとは何だっただろうか。」
箱卸さんは考えながら、
「それは多分、終盤になって、つまり、残り人数が二十五人以下になって展開が遅くなることが見込まれたから、私達の尻を叩く為に――綺麗な言葉で言い直せば、焦らせる為に――食事情を攻めたのだと思う。餓え死ぬにせよ、それを恐れて戦いに行って勝つにせよ、あるいは破れるにせよ、とにかく展開は加速するからね。」
「そうだよ。それを踏まえてもう一度君に問おう、『この通知、自動販売機の値段が二十五倍になるという通知だけれども、一体全体何事だろうか。』。」
箱卸さんはすっかり普段通りの口調で言った。
「そうか、同じ発想で値上げが行われたんなら、同じ原因があって、」彼女の顔が点灯したかのように明るくなってから、「そうか! で、これほどまでに極端な値上げということは、極端な原因、すなわち、残り人数が極端に少ない状況がある筈なんだね。」
「きっとそういうことさ。もしかしたら、今日にもこの戦いが終わるかもしれない。」
僕は、箱卸さんのとても嬉しそうな相槌を楽しみにしながらこの言葉を吐き出したのだったが、しかし、そんな健気な願いは右手首の振動によって潰えてしまった。我が儘な苛立ちによって眉を寄せながら端末の画面を確認すると、おや、思わぬ相手だ。……いや、良く考えればこいつ以外に最早有り得ないのか。
「佐藤?」と箱卸さん。
「勿論。出ようか?」
「まあ、悪いことは起こらないでしょ、多分。」
僕はボタンを肯定的に操作した。
『御無沙汰しております、簑毛さん。』
「御無沙汰というか、こうして通信するのは初めてじゃないのか。」
『ああ、いえ、その、』
「分かっているよ。〝武智恵の徒党〟と御無沙汰ってとこだろうね。」
『そういうことですね。その、武智さんがリタイアしてからはあなた方と一度も通信をしていませんから。』
「それで、何の用だろうか。当然そっちも知っているだろうけれども、自動販売機が超インフレを起こしたせいであまり取り引きをする気になれないんだけれどもね。」
『ええ、僕の方も懐が大変ですよ。ところで、何故いきなりこんな値上げが行われたのか御存知でしょうか?』
「さあ、全く見当がつかないね。」(これを漏れ聞いた箱卸さんが意地悪そうに笑う。)
『以前の値上げのタイミングを考えて見て下さい。あれは、残りが二十五人になった瞬間に行われました。つまり、値上げは残り人数の減少に対応していると考えるのが自然です。と言う訳で、今回の値上げの前にも、実際大規模な人数の減少が起きたのです。それはそれは本当に大規模で、腰を抜かしそうですよ。』
「まるで、その目で見たかのような調子だね。」
『僕は佐藤壮真ですから。』
その、武智君との通信の中でも佐藤がしばしば使っていた、よく分からない常套句を僕は無視する。
「で、だから、何の用なのだろうか。」
『ああ、そうでした。ですから、僕はこの目で見たかのように、今現在の人数の推移を把握しているのです。よって、その情報をあなたに伝えることが出来ます。』
「そうかい。しかし今金欠でね。悪いが、」
『いえいえ。何も取りませんよ。是非聞いて欲しいとこちらからお願いしたいんです。』
僕と箱卸さんは不思議そうに見合わせた。
「何でよ、佐藤。」
『ああ、その声は箱卸さん。あなたも無事で、』
「通信選択画面で圭人君の下だか上だかに私の名前が居たのを見てるくせに。」
『しかし、やはり声を聞くのは違いますよ。』
「まあ、見え透いた挨拶はどうでもいいよ。とにかく、何を考えてるの?」
『何でもいいではないですか。
その佐藤の情報は、あまりに出し抜けに端末から飛び出て僕達の顔面を打ち据えたので、僕も箱卸さんも、耳を塞ぐなり端末を切るなり佐藤を罵るなりしてその襲撃を防ぐことが出来ず、それが毒か薬かを判断する前に海馬への侵入を許してしまった。これは拙(まず)い。溢したコーヒー牛乳と一度知ったことは取り返しがつかないと、昔の人は言っているのに。
箱卸さんも不機嫌そうに考え込んだが、やがて言った。
「残り人数が九人。そりゃ、喜ばしいよ、凄く喜ばしいことだ。でも、佐藤がタダで寄越してきたというのが凄く、凄く気に入らない。気持ち悪いよ。あんな、吝嗇に雨合羽と端末を纏わせたような存在が、わざわざ向こうから情報をこちらに教えてくれるだなんて。ああ、次の広辞苑の改訂は、〝吝嗇漢〟だけじゃなくて〝胡乱〟の見出しでも佐藤を例にあげるべきだよ。ほら、丁度意味の分かりにくい言葉じゃない?」
折角の箱卸さんの理智が皮肉を拵えるという無益な方向へ無駄遣いされているのを察し、僕は、いつから吝嗇漢の項目はそんな個人攻撃になったんだよ、というつまらない言葉を呑み込んでから、
「まず考えて見ようよ。この情報を僕達に伝えることで、佐藤にはどんな得が生じるのだろうか。もしも、まともな利得が見つかれば、いつも通りのケチな佐藤だったというだけで、何も問題はないよね。」
箱卸さんは、まるでスプーンでも曲げようとしているかのようにぎゅっと眉根を寄せた。その、僕から何となく目を逸らしている顔から零れてくる言葉は、いかにも不満げだ。
「実はさ、一個思いついているんだよね。佐藤の思わくと思しきことを。」
「穏やかじゃないけれども、何か気に喰わないの?」
「うん、気に入らない。反吐が出そうだよ。」
「一体なにさ?」
彼女は、こちらをちらりと見て、
「佐藤は多分。私達の同士討ちに期待しているんだと思う。」
「同士討ちだって?」僕は驚いた。
「うん。つまり、『あ、そっか、そんなに残り少ないのなら、目の前のこいつを殺せばもう終わりじゃないか。』という、本当に反吐が出る最低な発想を私達に期待しているんだよ。ほら、そうすれば、佐藤には良いことしかないでしょ? 後二人誰かが死ねば、もう終わりなのだから。
ああ、本当に腹立たしい。佐藤の奴、私や圭人君をそんな人間だと思って――いや、あんな奴に何て思われようとどうでもいいけれども、とにかく――私達が有意な可能性でそういう人間だと思われると、わざわざ
幸いにも、ぶりぶりと怒る箱卸さんを可愛らしいとと思えるくらいに今の僕には余裕があったので、
「でも、もしも佐藤の狙いが君の言う通りであるのならば、これ以上のことはないじゃないか。」
「ほえ? どういう意味?」
「だって、僕と箱卸さんを啀み合わせようとしているのであれば、これ以上に無謀というか、無駄なことはないよ。佐藤の試みは虚しいばかりだ。」
彼女は喜ばしげに頬を搔きながら、
「それは、まあ。」
「となると、結局僕らは佐藤の言葉の毒を受けずに、その旨みだけを頂戴することが出来る。」
箱卸さんの右手と左手が快活に打ち鳴らされた。
「そうか、そうだね。それを噛みしめるべきだね。後残り九人、もう、目前だ!」
しかしすぐに顔を曇らせて、
「でもさ、そもそも本当の話なのかな。佐藤の奴、私達を殺し合わせる為に適当なことをでっち上げたのかもしれない。」
「完全に適当なことを言うのならば、残り八人と告げただろうさ、そうすればより目の前の仲間を裏切るための理由が強まるからね。だから、それなりに信用してもいいと思うよ。」
「そっか、それもそうだね。じゃあ、圭人君、頑張ろう! 本当に後少しだ!」
「ああ、頑張ろう。」
僕らは固く見つめあった。
119 欠番
120 欠番
121 欠番
122 井戸本組、絵幡蛍子
私は力なく寝ころんで天井を見上げていた。だって、全身全霊をもって上体を起こしても、そこから見えるのは、バラバラになった緩鹿と、消滅した胸の上下で、まるでそこを抜かれた達磨落としのように真っ二つとなった綱島だけだと知っていたから。綱島の体は、後頭部をこちらへ向けるように床に寝ていたので、その表情を窺えていなかった。出来ることならば向こうに回ってその顔を覗きたい。しかし、私にはもう、脚も、体力も、
天井の染みを数え切った私は、目を閉じた。綾戸は、無事だろうか。そうか、そう言えば、私の腕と口は無事なのだから、通信をしようと思えば出来るのだな。しかし、賢明ではないだろう。死に瀕した私に、まともな思考が出来るとは限らない。無用な事を口走って彼女に余計な危険をもたらす可能性はゼロではない。ならば、このまま死のう、一人きりで。
寂(さみ)しかった。寂しかったが、綾戸の為なら、この孤独な死を厳粛に受け入れるつもりだった。しかし、この思いは、蔑ろにされてしまう。
「えばたー!」
私ははっとして身を起こす。私の名を呼ぶびしょ濡れの声は、案の定彼女から発せられていて、私は、彼女に覆い被さられる。
「えばた! えばた! どうしたの、えばた! ねえ、」
彼女は、私の無くなった脚の辺りを弄(まさぐ)って、その赤い奔流を留めようと必死になっていたが、道具もなくそんなことが叶う筈もない。ちょっと切ったのではない、断面がぐずぐずの輪切りになっているのだから。
私は宥めようとするが、彼女は全く話を聞いてくれない。その後気が付いた私が、これ見よがしに自分の耳を叩くことで知らせると、ようやく彼女は即席の耳栓を外してくれた。
やっと会話を始めることが出来て、
「綾戸さん、落ちついて、私はもう駄目よ。」
「やだ! そんなこと言わないでえばた! かみやだけじゃなくて、えばたまで居なくなってしまったら、私、」
明らかに、今の綾戸は〝司令官綾戸〟ではなかった。共に鏑木から逃れた時以来ずっと頼もしかった彼女が、久しぶりに、その幼い振舞を取り戻している。私はこの状態の綾戸がそれほど好きでない筈だったのだが、しかし、彼女の顔を見るだけでとにかく嬉しかった。たとえそれが、皺くちゃに縮まっていても。
「綾戸さん。聞きなさい、私は、本当にもう駄目なの。もう、死ぬ。」
「やだ、やだよ、えばた!」
「我が儘言わないで。あなたに、言っておかなきゃいけないことが沢山あるの。
まず、私達はもう、あなたを除いて皆死んでしまったわ。」
「死んでない、えばたはまだ生きてる! 私が護れる!」
「私が喋れるうちに、聞いて。そして、那賀島組と周組も全滅した可能性が高い。また、彼方組も、その内の三人を確かに私達の手で殺したわ、全部、この目で見たもの。つまり、今日ここで十七人が死んだことになるわね、私を入れて。
この計算が正しければ、私が死ぬと同時にこの戦いは終わるのよ、だってそうでしょう、二十五人の通知の後に銅座が死んで、今日十七人死んだのだから、残るは七人。綾戸さん、おめでとう。」
彼女が目を見開き、顔を顰めておし黙った。その感情の機微の委細は捕らえ切れなかったが、とにかくこの隙は逃せない。言葉を、継がねば。
「しかし、私のこの計算は必ずしも正しいとは限らない。特に、那賀島組と周組の死亡状況はやや不鮮明なの。だから、もしかしたら、私が死んだだけではこの戦いが終わらないかもしれない。その場合、あなたには二つの選択肢があるわ。
まず、第一の選択肢として、今すぐここから逃げなさい。彼方組の鏑木が、私達を襲撃した後にここを去ったらしいわ。意識が危うかった私はその様子をよく見ていないけれども、今ここに居ないのだから、そうなる筈。鏑木は生きている、だから、このフロアは危険。故に逃げるべき。
そしてもう一つの選択肢として、鉄穴凛子を討ちなさい。鏑木はまだ生きているけれども、しかし、他の銃手は全滅させた筈。ならば鉄穴は無防備でうっちゃられている可能性が高い、しかも、このフロアで。流石に、ここから鉄穴を討てば、残り人数が七人になる公算が、つまり、あなたが生き残り確定となる可能性がとても高いわ。これはチャンスよ、鉄穴は戦闘能力を持たないのだから。
どちらにするのかは、あなたが決めて、あなたは、綾戸班の、そして私の、班長なのだから。」
私のこの長い言葉は、後の方になるにつれてどんどん掠れていったが、それも幸いだった。喚いていた綾戸が、私の声を一言一句たりとも聞き逃すまいと、真剣に押し黙ったからである。
私は更に続けた。
「だから、いずれにせよあなたは、こんな見通しの良い廊下などからは離れて鏑木に警戒し始めないといけないわ。早く、立ち去りなさい。ただ、最後に、一つ我が儘を言わせて欲しい。」
「なに? えばた、何でも言って!」
私は、残る全ての体力を注ぎ、笑顔を作って、右手を綾戸の頬に伸ばした。霞む視界を信じれば、その指先が彼女の柔らかい頬に触れた筈なのだが、しかし、私の触覚は既に麻痺していたらしく、まるで夢の中の幻に触れているようであった。いや、そもそも、この綾戸は私の心が生み出した幻影なのかもしれない。まあいい、とにかく幻影であろうと本物であろうと、私の願いを叶えてくれるかもしれないのだから。
「綾戸班長。私に、あなたの逞しい表情をもう一度見せて。そんな、泣きじゃくられては安心して死に逝けない。私や紙屋に堂々と指示を飛ばして、そして守ってくれた時の、あの表情をもう一度見せて。私は、あなたのあの顔がとても好きなの。」
しかし綾戸は、何を言われたのか分からないと言うような顔を見せた。私は失望し、ああ、駄目かと嘆息しかけ、堪らず目を逸らしたが、
「絵幡。」
頼もしい声。私が心から待ち望んだ声。私は目を見開いてまた上を見上げる。
そこには、固く引き締まった相好の綾戸が居た。霞む視界の中でも見紛いようがない、
「約束したい。私は絶対にこの戦いを生き残る。絶対、他の連中に負けたりしない。あなたや紙屋の死を虚しいものなんかにはさせない。だから、安心して、絵幡。」
私は、この上ない、身を蕩かすような恍惚を感じ、目を閉じる。ああ、良かった。綱島との議論、私が正しかったのかどうかは結局分からないが、少なくとも、綾戸を守ることが出来た。私が撤退を固く主張したからこそ、綾戸は一階に逃げ延びることとなり、結果、彼方組との激闘から離れていることが出来たのだから。ああ、良かった、本当に良かった、綾戸を守れた、綾戸に看取ってもらうことが出来た。もう、悔いはない、絵幡蛍子の生涯は、無意味でなかった。
安心すると、私の精神はいきなり強度を失った。向こうが透けるくらいに薄い紙を湖面に放ったかのように、精神が、バラバラに散っていき、溶けていき、沈んでいき、そして、とうとう最ごのいっぺんが
123 葦原組、躑躅森馨之助
俺は未だ頭を抱えていた。なんだよ二十五倍って! ああ、畜生め、何て馬鹿なことをしてしまったのだ。欲を出してあの女を仕留めようとしたばかりに、手厚く購入していた食料を全部あの最上階に置き去りにして失ってしまった。アア、クソ、どうする? どうすれば腹を充たせる? どうすれば餓え死なずに済む?
俺はしばらく懸命に考えて、そして何も得なかった。
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