106節から107節

106 那賀島組、迚野良人

 激しい雨音が聞こえる。そう言えばここに来るまでに、黒っぽい雲々が空に浮いているのを見かけたっけ。

 僕はたっぷりと佇んで、息を整え切ってからその場を離れた。一歩進むごとに、空気が晴れていく。霧崎の、霜田の、血の香り、死の香りが置き去りにされ、僕の鼻腔から抜け出ていく。

 角を三度曲がり、四つ目のそれが見えてくる。そこを曲がった先にある部屋で、那賀島君や沖田さんと落ち合う筈であった。無論、もしも彼らが首尾よくことを達成出来ればの話だったが、しかし、出来ないわけないではないか。だって、新参者の僕ですらこうして上手くいったのだから。歴戦の彼らに出来ぬ筈が、

 角を曲がったのだが、僕はその部屋に辿り着けなかった。そして、生涯辿り着かないだろう。だって、無用になってしまったから。

 蛍光燈が切れている廊下。向こうから歩み寄ってくるのは、一つの人影。その顔は、薄暗い廊下の中でよく見えなかったが、突然の稲妻が窓の外で煌めいて、瞬いて、人影を明るく照らす。瑕瑾なき美を湛えたその顔は、まるで皺の刻み方を知らないかのように、一切の顰めが無く、しかし、厳めしかった。どこがどうだから、とは説明出来ないのだが、とにかくその能面のような相好は、何故か夥しい迫力を持っていて、僕を十分に凍らせたのだった。

 その脣が闇の中で蠢く。

「迚野。」冷たく、鋭く、しかし美しい声。「一応聞いておこう。端末によると、霜田と霧崎が居なくなっているのだが、貴様、何か知っているか?」

 僕の躊躇いは僅かだった。

「殺した。」

 目が慣れてきている。僕の言葉を聞いてもその人影は、周は、露ほども顔面を揺るがさなかった。仕方がなくこちらから問い返す。

「那賀島君と沖田さん、そして、君の双子の妹達は?」

 また蠢いた。

「霊場は、片割れが沖田の攻撃を受けて今虫の息だ。まもなく死ぬだろう。もう一人は全く無事で、彼女に付き添っている。」

「で、彼らは? 那賀島君達は?」

「ここに居るが?」

 周が、その、右手に提げていた大きな荷物を僕に向けて掲げる。僕は、一瞬の後に呻いてしまった。二つの球体。初めそれは、網に捕まった西瓜のように見えていたが、しかし、全く違った。周の右手に摑まれる網に見えたのは彼らの髪の毛で、そこから繋がっているのは、西瓜ではなく、睦まじく並ぶ彼らの首級であったのだ。

 腕が疲れるからな、とでも言いたげな、ぞんざいな様子で彼らをまた体の脇に連れ戻した彼女が言う。

「説明しろ、迚野。何故、こんな馬鹿げた真似をした? 貴様等は話を理解していたのか? いや、していた筈だ。今日彼方組を討てば、我々の生き残りは決まったようなものだと、知っていた筈だ。何故だ迚野、何故我々を裏切った?」

 僕は答えた。

「彼方組はこの上ない強敵で、この上なく危険な敵だ。いくら井戸本達の協力が得られるとは言え、戦うべき相手ではない、そう、那賀島君は語り、僕と沖田さんも概ね同意していた。」

 周は、ようやく眉を歪める。

「そんなことは分かっている。我々だって、出来ることであれば奴らと戦闘などしたくない。しかし、そうはいかない事情がある以上、奴らと戦わねばならないのだ。そして、那賀島も語っていたように、今回の共同戦線は、この上ない好条件であり、またとない機会であった。故に、今戦うしかなかったのだ、我々は井戸本織彦達も含めて協力する以外になかったのだ。なのに、何故、貴様等は、こんな真似を、」

「周。」僕は諭すような口調になっていた。「君は語っていたよね。5+3≒7という事実が重要なのだと。これによって、僕達と君達は何ら問題なく組むことが出来、そして、井戸本達は孤立するのだと。」

「ああ、言った。それがどうした?」

「思い出して欲しいんだ。確かに君達は五名だ。しかし、彼方組も、また五名だ。」

 朧な闇の中で周の目が見開かれた様に見えた。そのまましばらく固まり、そしてようやくぶつぶつと、

「そうか、そうか、……そういうことか、貴様達は三人なのだから、必ずしも、組む相手は我々でなくともいいと、そういう、そういう、っ、ああ、」

 僕は首を振った。

「正確には少し違う。僕達は、別に彼方組と組んでいない。まあ、そう出来れば良かったのだろうけれども、アイツらとの接触はそれだけで危険すぎると判断された。故に、僕達と彼方組の間に同盟関係は何らない。

 しかし、そんなものは要らなかったんだよ。君は散々、井戸本組の個々の戦力が乏しいと強調したけれども、しかし、僕達はそこまで彼らを見縊っていなかった。一度遭遇した綾戸彩子はとんでもない強敵であったしね。だから彼らだけでも、彼方組を一人くらいは仕留めてくれるだろうと、そして結局は殲滅されるだろうと期待しているんだ。そして僕達三人はその間に、君達を不意討ちする。これは、彼方組と戦うよりは、ずっと安全な行為だと思われたんだよ。

 分かるかい、周。5+3≒7だよ。彼方組が一人くらい減ってくれて、そして我々八人の中で僕達三人だけがそのまま生き残る。これでも、別に七人以下にはなれるんだ。僕達はこれに賭けた。」

 僕は続けた。

「でも結局、身の程知らず、あるいは浅はかだったね。僕の方は上手くいったけれども、しかし、那賀島君と沖田さんは君に破れてしまった。自分なら不意討ちというアドヴァンテージの下で周を殺せると豪語していた那賀島君だったけれども、実際には只の奢りで、全てがこうして瓦解してしまったわけだ。」

 今度は周が暗い首を振った。

「違うぞ、迚野。那賀島は確かに、私を仕留めるだけの実力を持っていた。」

 彼女はそう言うと、首を曲げ、左側頭部を僕に見せつける。周は髪を後ろに纏めているので見えやすい。果たしてまた稲光が閃いた瞬間、そこには、耳の有るべき位置に、耳がなく、代わりに油然たる出血が認められた。そこから溢れる血は、首や制服を遺憾なく濡らしている。雨音のもたらす泥臭さに混じっていた鉄の匂いを感じ取り始め、思わず眉根を寄せた僕に、

「奴は背後から、完全に油断していた私に向けて、聖具での一撃を放つことに成功した。本来であれば私の後頭部を打ち据え、砕けるまではいかなくとも、意識を奪う、つまり、続けて命を奪うことが叶っただろう。しかし、何の因果か、巡り合わせか、とにかく命運は私に味方したのだ。」

 周は、二つの首を下げている右手の中に、まだ何かを握り込んでいたらしく、器用に、それを床へほうった。ころころと、それはこちらに転がってきて倒れたが、暗くてよく見えない。赤色の、小さな丸。その表面はつやつやしていているようで、まるで巨大な天道虫のようだ。

 その時、またどこかに雷が落ちて、僕と周を光で包んだ。そして、周が放った天道虫の正体が詳らかとなる。稲光は一瞬で失せたが、しかし、今更見紛うことはなかった。那賀島君のヨーヨーだ。

「分かるか? 糸がついていないだろう?」周が喋り出した。「戦闘後に拾った時からその状態で、那賀島の死体の人さし指からは糸が伸びていた。つまり、糸が切れたのだ、恐らくは那賀島が私へ攻撃を放ったその瞬間に。そうして、ヨーヨーの軌道は乱れ、打ち据える筈だった私の頭から外れ、しかし辛うじて掠めることには成功し、そして耳を削ぎ飛ばしていった。いくらかでも私にダメージを与えることに成功したわけだが、しかし、これを成果と呼ぶかは疑問だな。お蔭で、私は須臾と躊躇うことなく、振り向き様那賀島をち殺すことが出来たのだから。

 つまり、私の命はその糸の切断事故によってたまたま助けられたに過ぎない。本来なら、貴様達三人は完全に私達を鏖殺出来ていた筈だ。事実、沖田は立派に役目を果たしたのだからな。私が今ここに立ち、貴様と対峙出来ているのは、そして、一人とは言え妹の命を救えたのは、全くの幸運だ。恐れ入ったよ、那賀島聡志、そして、迚野良人。貴様等の理智、実力、ほとほと感服する。」

 僕は目を疑っていた。薄暗さと緊張がもたらす見間違いだとすら思ったのだ。しかし、四度目の稲光。一瞬恢復した視界が、否応無しに真実を僕に認めさせる。周は、確かに微笑んでいた。まるで、言葉の通り、僕や那賀島君を讃えているかのように。

 僕は、おずおずと、

「憤っていないのか?」

 周は小首を傾げすらした。

「何をだ?」

「僕が、君達を裏切ったことをさ。」

 ふっ、という笑い声が漏れ聞こえる。

「馬鹿な。騙された私が愚かであっただけだ。貴様等の行動のどこに悪徳がある? 生き延びるべく、必死に立ち回っただけだろう? どうしてそんな貴様等に誹謗を投げ掛けられようか。どうして、憤れようか。」

 僕は、意を決した。

「よかった、周。なら、それを受けて提案したいことがあるんだ。」

「何だ?」

「5+3≒7。君は初め、この数式に君と妹の五人、そして僕達三人を嵌め込んだ。その後僕達は、君達五人の代わりに彼方組の五人を宛てがった。そして、今、新たな可能性が見出されたと思うんだよ。分かるだろ、周? 僕と、君と、生き残った妹と、合わせて三人だ。」

 朧げながら、周の眉が吊り上がったように見える。

「成る程な。」

「周、武器を収めて共に生き残ろう。君は、彼方組との戦いを生き残ればもう最後の七人に残ったようなものだと語ったけれども、別にこの話は全く反故になっていない。彼方組は大部分が生き残ってしまうだろうけれども、井戸本組は十中八九潰れ、僕達と君達は大きく人数を減らした。結局、5+3≒7の状況になってしまったんだ。君が肯んじてくれれば、もう、何の心配も、何の煩いもなくなる。佐藤を含めた逸れを撃破していく、あるいは餓えにかられた彼方組が逸れを狩っていくのを見守るだけで、もう、生き残れるんだよ。もう、それだけでいいんだよ。さあ、どうだろうか。周。」

「成る程な。」

 しばらく、轟々たる雨音と、機嫌の悪そうな雷鳴だけが、僕と周との間に満ちた。じっとそのまま時が過ぎ、焦っていた僕が次の言葉を投げ掛けた方が良いのだろうかと心配し始めると、ようやく周の脣が動いたが、しかし、

「成る程な。」

 その一言だけであった。一刻を争うのに、と、とうとう耐え兼ね始めた僕は、二の句を継ごうと口を開いたが、しかし、自然に妨碍された。今までで一番近くに落ちてきたいかずちが、僕の耳を貫いてその口を痺らせたのだ。そして、僕の顔は目許も歪んだ筈だった、それも見開く方向に。稲光に照らされて一瞬見えた周の顔は、先程の柔和な微笑みが嘘のように、その前の能面のような相好すら嘘のように、今や夥しい翳りを刻んで、顰みを帯びて、最早直接的に険しかった。殺意が、忿怒が、滲み出ている。その瞳に射殺いころされそうだ。

「迚野。」初めて、その声が美しいまま熱を帯びるのを聞いた。霧崎を捕まえた時には半ば胴間声であったから。「私は、妹達に誓ったのだ。如何なる手を使ってでも、如何に下劣で屈辱的で汚らしい行為をしてでも、彼女らを守ると。

 貴様の言うことは分かる。貴様の言う通りにすれば、この先生き延びるのも容易いだろう。それが、道理だろう。しかし、私には守らなければならない約束が有ったのだ。それを反故にしてしまった以上、せめて最も近い手段で、行為で、償うのが筋というものだろう、手向けというものだろう。

 迚野、貴様はここで殺す。絶対に殺す。確実に殺す。それが、道理や利益に反するなど、それによって私が今後窮することになるなど、知ったことか。私はせめてもの償いとして、他のあらゆる価値基準を投げ捨てて、貴様を殺すことを最上とせねばならん。他の全てに優先して、妹達の、彼女らのかたきを取らねばならんのだ。」

 彼女は少しだけ顎を上げ、やや足を開いた。殆ど変化がないようにも見えるが、しかし、一種の臨戦態勢に入ったのだろう。

「迚野良人。我が聖具の下に、物言わぬ肉屑と化せ。」


 周はそう言うなり、右手を振り上げ、二つの西瓜をこちらに投げつけてきた。あまりにも、酷い、目を覆いたくなるような攻撃だが、しかし、そうするわけにも行かない。僕は口を喰い縛って、彼らを塵取りで軽く払いつつ、周に近づいていった。

 周は右手を、僕を戦かす以外には役に立たぬ彼らの首で埋めていたわけで、つまり、大切な聖具はまだ左手に抱えたまま、それも逆手、切っ先のほうを何となく握っているだけなのである。あれを右手へ持ち変える一瞬の隙に駈け寄り切れれば、半ば無防備な彼女に一撃を見舞うことが出来る。僕は全力で急ぎ、焦った。


 良くなかった。周は、しかし、僕の予想を全く裏切り、左手に持った傘を、そのまま、斜めに振り上げて、


 一瞬でも早く攻撃をしかけようと箒を半ば振り上げていた僕は、呻き、血相を変え、左手の塵取りを急いで差し向けた。刹那、薙ぐように周の傘が振り下ろされる。その、ごつごつと重厚な手元ハンドルは、メイスの柄頭のように、迫力と重量をもって僕の塵取りを打ち据えた。手がびいんと痺れる。しかし、何とか弾いた。

 僕は戦いて、跳ねるように引き下がった。周も深追いはせず、姿勢を整えてじっと僕と対峙している。互いの隙を探りながらの睨み合いの様相になったことを感謝しながら、僕は集中している顔つきを装いつつ、必死に思考を整理した。そうか、さっきの食事の折り、妙につたない手付きで箸を使うなとは思ったが、周は左利きだったのか。つまり、彼女が度々見せてきた、左手で傘の石突きのほうを握る仕草は、ある種、完全な臨戦態勢ですらあって、あれを見るたびに僕は抜き身の刃を向けられていたわけだ。

 改めて周の傘を眺める。今は名前に反してこちらに向けられているその大きな手元は、訊ねもしないのに霜田が語ったところによると、ヒッコリー材、傘に使われる中では最も硬く最も重い木材だそうで、成る程、先程狼狽える霜田から向けられた石突きに比べれば、ずっと兇悪な印象を受ける。もっとも、霜田の時は傘が開いていて、今の周の傘は絞られている、という違いは惟るべきなのかもしれないが。今周の握っている傘の刀身はバンドで固く縛められており、素材が布であることを完全に忘れさせ、最早そのように彫られた彫刻にすら見えた。そしてその黒さによって、刀身は闇に溶け込みかけており、手元のみが虚ろに浮かんでいると思わせられる。その手元は、僕のことを一身に睨みつつもゆらゆらと揺れ、こちらの集中を乱そうと企んでいるようだった。

 何がきっかけになったのかは分からないが、とにかく、突然、周が飛び込んできた。三歩進んで来、それだけで互いの聖具の間合いに入りかける。既に振り下ろされつつある手元を、僕は、塵取りで今度はしっかりと防ぎ、そして右手の箒を振り上げて周への一撃を試みた。

 しかし、信じられないことが起きた。僕の攻撃が外れたことまでは、まあ、何とか理解出来る。彼女と僕では踏んできた場数が違いすぎるのだから。しかしだ、身を引いてけた周が、いや、そもそもあの態勢から後ろに飛び退けたことも驚きだが、それよりも、その結果もたらされた周の現在位置が、あまりにも遠すぎたのだ。寧ろ最初に対峙していた時よりも遠くに、今彼女は佇んでいる。何だ? 僕にしっかりとした一撃を見舞いつつ、どうやってあんな遠くまで退いたのだ? こんな距離の移動、人間の脚力で一瞬のうちに可能なのか?

 驚かされたが、しかし、周はまた様子を窺い始めた。攻めあぐねているのだろう。まあ、向こうの気持ちになって見ればよく分かる。霧崎や周の聖具の攻撃を事も無げに耐えることが出来る聖具を、僕は、両手に一つずつ抱えていのだから、傘一本で戦う周にとっては与し易く思えないのだろう。丁度今のように、片方の聖具で受け止められ、もう片方の聖具で反撃されるわけだ。僕はその反撃の成就をより期待出来るようにと、右手の箒の上下をひっくり返して、いつか霧崎を撃退した時の、槍のような構えに切り替えた。カウンター狙いならこちらのほうが便利な筈だ。まあ、そもそも、あの超バックステップが有る限りは反撃も厳しいかもしれないが。……しかし、本当にあれはなんだったんだろう。その際、こちらの塵取りに走る衝撃が露骨に小さかったが、何か関係あるのだろうか。

 そう考えている内に、また稲光が走る。果たして周の顔が照らされると、そこには、露骨な困惑が浮かんでいた。それを認めて、僕は賭けに出る。何ら策も勝算もなく、声を上げて飛び込んだ。

「く。」

 弱々しくそれだけ呻いた周は、床を自分の聖具で打ち据える。その行動を僕は一瞬だけ疑問に思ったが、しかしすぐに納得した。床と手元のインパクトの瞬間、発せられるべき音は全く響かず、床も砕けず、ただ周の身が、相当の勢いで飛ぶように後ずさったのだ。これが真剣な戦闘中でなければ、口笛を鳴らしてしまったかもしれない、快い驚きを与えるそのわざ。成る程、仕組みはよく分からないが、周はそこら辺を聖具で打ち据えることで、そこを破壊する代わりに自分の体を撥ね退けさせることが出来るらしい。少なくとも、回避行動には便利だろう。

 そして、この飛び退きを二度続けた結果、周は背後を失っている。つまり、今や周は廊下の曲がり角まで引き下がってしまい、壁をぎりぎりに背負い、もう今のようなトリックを使う権利を無くしてしまったのだ。しかも彼女が追い詰まったのはこちらから見て右へ曲がる角であり、左利きの周では、右方の床や壁を打ち据えて角の先へ飛んでいくことも出来まい。

 先程から周は、攻めあぐねるだけでなく、僕に近づかれることすら嫌っているようだった。つまり、こちらの二刀流に対する準備が出来ていないのだろう。ならば、彼女が打開策を思いつく前に、

 僕はまた飛び込んだ。黒っぽい周の影が見る見る大きくなる。後三歩、踏み込んだら聖具を振り上げようと決心したその瞬間、また、雷鳴が轟いた。一瞬見えたその顔は、僕の目が間違っていなければ、……笑っている?

 僕が疑懼を得ると同時に、周は左手の聖具で、振りかぶりもせずただ、しかし力強く、すぐ後ろの壁を叩いた。刹那、周の姿が恐ろしい速度で大きくなる。しまった。僕が必要に気が付いて左手の塵取りを突き出そうと思った頃にはもう遅く、周の、右手が、その拳が、僕の顔面をち抜いていた。翻りながら僕は思う、ああ、そうか、逆に、飛び込むことも、出来たのか、

 床に叩きつけられた僕は――恐らくはそれどころでなかったので――来る筈の痛みを一切覚えず、ただ、そこから見上げる光景に慄然とした。暗さによって、墨で塗り潰したように顔が見えない、周が、聖具を振り上げて、

 僕は叫びながら咄嗟に、左手の塵取りをその闇の顔目掛けて投げつけた。周は動揺したような呻き声をあげ、聖具を捧げてしまっていた故に仕方がなく、身を捩って塵取りを躱す。正解だろう。苦し紛れとは言え聖具の投擲、直撃を受けては顔面が消滅するかもしれない。しかし、正解だろうとなんだろうと、僕が立ち上がる隙を周は与えてしまった。その見えない顔がこちらにきちんと向き直った頃には、僕の左の拳は既に放たれており、果たして、その漆黒を打ち据えた。

 まるで汚れを知らない、美しい、周の顔面を、若干の遺憾を覚えながら全力で殴り抜ける。彼女は流石に蹌踉めくも、しかし、殴られる直前から対処を始めており、左手に握っていた傘を、無茶苦茶にこちらへ振り下ろしてきていた。無理な態勢の僕は、やはり防ぐ手段がなく、半ば転げるようにして後ろへ飛び退かざるを得なかったが、しかし、すぐに立ち直る。追撃は防がれてしまったが、被害はない。

 数歩後ずさった彼女は、僕が対峙し直す頃にはすっかり尋常を得ていて、それぞれ激しく痛む筈の、ひしゃげた鼻尖、止めどない流血の源泉であろう鼻梁、黝く染まった口許、いずれをも庇わずに、ただ笑った。そう、目が慣れ始めたのと、雲が裂けてきたのとで、その顔の様子が十分に窺えるようになったのだ。僕がその余裕を訝り始めると、彼女は、視線を自らの足許にやる。そこには、

 彼女は、これ見よがしに足をあげてから、一切の容赦なく、そこに落ちていた塵取りを踏み躙った。僕の手を離れて聖具の性質を失った、最早只のプラスティックは、最中もなか菓子よりも容易くへし割れる。僕は眉を顰めながら巡り合わせを恨んだ。そう、投げ飛ばしたのだから、塵取りがそっちに行ってしまうのは当然で、また、周を殴ったのだから、彼女がそちらへいくらか引き下がるのも当然だったのだ。しかし、こうも、一致してしまうとは。

 その後彼女は何かを口から吐き出した。麻雀卓の賽子のように小さい、白っぽいものがころころと廊下に転がる。僕はその正体が分からなかったが、親切な周は教えてくれた。

「恨むぞ迚野。一度も歯科医の世話になったことがないのは、私のささやかな自慢のうちの一つだったのだ。」

 日が幽かに差しつつも雨音はまだ収まり切っていないという器用な天候だったが、その冷たく厳めしい、しかしいくらかふざけているらしい声は、僕の耳へ良く届く。僕は、勿論この上なく真剣で、勿論この上なく戦慄していたが、しかし、何故か笑い返すことが出来た。

「失礼。」

 僕と周は、お互い肩を上下させつつ、外がこの天候でなかったら間違いなく互いの耳にその音が届くくらいの激しい息を繰り返しながら、ただしばらく睨み合った。その後周が、口を縦断する鼻血の滝を割りながら、

「これで、対等だ、迚野。そう、対等だ。貴様も私も、聖具一本での戦い、もう、けちくさい小細工など無用、ただ、打ちあうのみだ。

 しかし、迚野。解せんことがある。貴様との死別――どちらが死ぬかは分からんが――の前に、一つ訊かせてもらえるだろうか。」

 僕は口での返事をしなかったが、しかし、攻撃もしないことで周に肯んじた。この意図は、しばらくしてからようやく周に伝わって、

「このサバイバル、聖具の持ち込みは一つと定められていた筈だ。何故貴様は、箒と、塵取りと、二つの物品を持ち込めているのだ?」

 僕はたっぷりと――もしかしたら数分――時間をとってから、ようやく答えた。

「もう実演出来ないけれども、その塵取り、柄のところに少し仕掛けが有って、恐らくは収納の都合で、箒と一体になれるようになっていたんだよ。それで、さ、」

 周は笑った。

「成る程な。そして、私や霧崎の聖具で破壊出来ない以上、貴様は、その箒に幼少の頃から親しんでいたのだろう。箒や塵取りに感動的なエピソードが纏るなど考え難いから、そうでなければ〝愛情〟の帳尻が合わん。つまり、その箒は貴様が少なくとも幼少の頃に――もしかすればより以前に――恐らく両親によって購入されたのだろう。

 ああ、なんという綾か。ああ、何という巡り合わせか。その時に、その両親が、清掃用具売り場に有った、一つ隣の箒を購入していてくれれば、そんな合体機能などない平凡な箒を購入していてくれれば、私は、もう、貴様を仕留めているだろうに、塵取りなど投げつけられずにな。」

 僕は、隙を作らないように慎重に、かつゆっくりと、首を四度か五度振り、それからゆっくりと口を開いた。

「いや、周。事態は、もっと深刻に変貌しただろう。僕は、恐らく、霧崎さんと初めて会った時に殺されて、那賀島君もそうなったろう。そして、沖田さんは飢え死にだ。そう、君は僕達に出会うことすらなかっただろうね。」

 周は、少し間を取ってから、

「貴様も少し間違っているぞ、迚野、私と那賀島は、とっくの昔に面識が会った。貴様とは異なり、あれが初対面ではない。」

「ああ、そうだったね。」

 僕は透かさず、しかしやはりゆっくりと喋り出す。

「ねえ、僕からも一つ訊いていいかな。君と那賀島君って、結局どういう関係だったのだろう。」

 周は、反射的に口を僅か開いたが、そこで固まった。窓からの中途半端な光量によって数知れぬ翳りを纏っているその顔は、多少歪んではいるが、やはり美しく、しかも気高い。

 結局彼女は、

「済まないが、今一くさり語って済む話ではない。そうだな、私が最後まで生き残ったら、貴様の墓前で話してやろう。もしもそうならず、共にどこかで斃れたら、地獄までの道程ですぐに話してやる、三途の川辺か、あるいは、裁判待ちの行列の中ででもな。」

「僕らは地獄行き、か。厳しいね。」

「私はそう思うがな。」

「ところで、もしも、僕の方が生き残って、君が死んだらどうしようか。化けて出られても困るのだけれども。」

 周は、片方の頬を吊り上げて、

「済まないが、戦いの時には『もしも自分が死んだら、』ということは極力考えないようにしているのだ。」

「それは残念。なら、もうひとつ改めて訊いていいかな。」

「何だ?」

 僕は、また間を取ってから、

「君は最初、僕に対して全く憤っていないと言った。寧ろ、感服しているとすら。表情からすると、確かにその言葉は本心のものに思えた。しかし、その後の君は明らかに怒り狂ったんだ。これもまた偽りの感情には見えなかった。僕には、これらの間の矛盾がよく分からない。教えて欲しい、周、君が僕に抱いている感情の委細を。」

 これを聞いた周は、大胆にも少し目を逸らし、何かを吟味し始める。僕は、その隙を衝こうかと一瞬だけ思い立ったが、しかし、止めた。先程調子に乗って痛い目に遭った以上、今の態度も周なりの罠であるという――果てしなく幽けき――可能性を考慮したかったし、それよりも寧ろ、あの無防備な逡巡が罠でも何でもない誠実なものであった場合、僕はそれに応えたかったのだ。周の誠意に。

 彼女は――恐らくはどう表現したものかという迷いによって――少しだけ冷たさを失った声で語り始めた。

「まず、迚野。貴様は勘違いしているようだが、人の感情というのは、そう単純なものではない。その複雑さは、単に感情の強度の無段階さから来るのではなく、寧ろより重要なものとして、その夥しく高度な――もしかすると無限の――次元によってもたらされるのだ。……分かるか?」

 僕は、少し考えてから、

「人の感情は、喜、怒、哀、楽、だけなんかじゃない。もっと無数の種類があり、かつ、ひとりの人間の中ではそのそれぞれに自由な強度が刻々与えられている。故に感情は複雑極まりない。……あっているかな。」

「恐らくな。そういうわけでだ、迚野。その複雑さは精神の中に恐るべき度量を、無限の容積を与える。故に例えば、ひとりの人間を賞讃しつつ、憎悪し、更には愛する。そんなことも人間の心をもってすれば十分可能なのだ。すなわち、貴様の疑問はやや的外れだ。」

「成る程。」

「しかし迚野、誤解を解きたい。」

 僕は素直に疑問を抱いた。

「どういう意味?」

「私は、別にそういう夥しいキャパシティを活かしたわけではない。つまり、矛盾した感情を抱いたわけではないのだ。私は、素直に感心し、ある種恐れ入っている。そして、妹を失った、この上なく憤っているのだ、貴様に対してではなくな。そして、彼女らへの約束を破ってしまったこの上なく怒っている。

 どうか自惚れてくれるな、迚野。私が今貴様に差し向けている殺意は、貴様が養ったものではないのだ。私と妹達との、掛け替えのない絆がこの凛然たる、鬱勃たる殺意をもたらしたのだ。貴様は、殆ど関係ない。きっかけにはなったかもしれないが、そこまでだ。」

 堪らず僕も笑った。

「無関係なのに僕は殺されるのかい。非道いや。」

「諦めるのだな、迚野。ここはそういう場所だ。」

「ああ、そうだったね。」

 彼女は、少し顔を引き締めて、

「という訳でだな迚野。正直、貴様を殺すのが惜しいのだ。それで、少しくらい話しておこうと思ったのだが、流石に長話が過ぎただろう。そろそろ、再開させてもらうぞ。」

「本当は、僕からもう一つ訊きたいことがあったのだけれども、まあ、君がそう言うなら仕方ないだろうね。」

「済まんな。地獄か、あるいは、霊園でいくらでも話そうぞ。」

 僕達は再び顔を顰め、睨みあい、そして、互いに踏み込み、打ちあった。僕は、箒を再び順方向に持ち直しており、両者とも、頭部が重い得物を振るっている。また、双方とも最早両手で聖具を握っていた。故に打ち合い一合一合に全力が籠められており、その度に手が痺れる。これは、互いの聖具の〝愛情〟が拮抗していることをも示していた。

 僕は男で、周は、まあ、平均よりもずっと身体能力が優れているなとは何となく感じていたけれども、とにかく女だ。それ故僕は、打ちあっていればそれだけでいつか勝れるだろうと思っていた。しかし、甘かった。彼女本来の身体能力が僕を凌駕するのか、それとも、との絆が彼女に力を与えているのか、とにかく、いつまでたっても周の攻撃の鋭さ、重さは緩まず、ただ只管に僕の方が弱っていったのだ。険しい顔の上で歯を喰い縛り始めているあたり、向こうも疲労を感じているのだろうが、しかし、それは、全く威力に反映されてくれず、刻々と僕の両手を痺らせていく。耐えろ、耐えるんだ。耐えていれば、きっともう直にも、


 僕は耐え切った。……そう、耐え切ったのだ。数も知れぬ程の打ち合いの末、僕の聖具は突然音を立てて、ひしゃげ、真っ二つに折れて、戦闘の終結を宣言した。……ああ、とうとう、耐え切ったぞ、最後まで。

 僕は、信じられない気持ちで自分の聖具を見つめていた目を、周の方に向けなおした。最早彼女は、然程力んでおらず、悠然とその聖具を持ち上げて、

「終わりだな、迚野。」

 その寧ろ優しくすらある声に、僕は、いきなり正気を取り戻してしまい、酔いを醒まし、戦き、堪らず身を捩った。果たして、完全に真剣でなかった周の攻撃は、僅かに狙いを外し、僕の右肩を打ち据えるに留まる。打たれた場所はぐちゃぐちゃになり、右腕がそこから飛んで行った。

 僕は、激痛と衝撃に苛まれ、思わず転倒する。再び床から見上げることになった、周の顔。今度はしっかりとその表情を読み取ることが出来、成る程確かに、いくら何でも怨嗟と呼ぶには明る過ぎるものしかそこには浮かんでいなかった。

「悪足搔きは感心せんな。まあ、多少の見っともなさなど憚らないというのも、またそれはそれで高尚なのかもしれんが。」

 周が、いくらかひしゃげたようにも見える聖具を振り上げる。彼女の鼻や耳から滴り溢れる血液が、僕の身に降りかかってきていた。

「迚野。痛かろう、苦しかろう。楽にしてやる。」

 そして、いざ振り下ろそうとした瞬間、彼女の動きが止まった。電池が切れたかのように静止し、その後、そこに頭があることを突然思い出したかのように右手を目の上あたりに宛てがう。そして、そのままふらつくと、彼女も倒れた。

「何だ、何だ、これは、」

 足の方に転がった周の表情を窺うことは出来ないが、しかし、その声は十分に震え、驚愕していた。僕は何とか上体を起こす。やっぱり、彼女は目を見開いていた。

「当然だよ、周。」

 彼女の顔がこちらを向いた。彼女は、右側頭部をこちらに見せる恰好で倒れているので、そうしても、那賀島君が刻んだ痛ましい傷痕を見ずに済む。しかし、今からその話をせねばならない。

「そんな大きな、しかも頭部に負った怪我、当然出血も夥しい。処置もせずに放っておいて、無事でいられる筈がない。ましてや、安静にしていた訳でもなく、君は散々暴れた。なら、時間が経てば君が意識あるいは戦闘能力を失うことは自明の理だったんだ。君はさっさと僕を殺して治療の必要を思い出すか、それとも、一旦退いて出血を止めてから出直さねばならなかった。どちらも出来なかったことが、君の敗因、そして、死因だ、周。」

 彼女は、こちらに向けていた目を少し搾ってから、また天井を見つめ始めた。

「そうか、そうだったのだな、迚野。今にして思うと、貴様は、先程の会話を出来る限り引き伸ばそうとしていたようにも思えるし、また、口調も妙に緩やか、緩慢だった。あれは、少しでも多く時間を稼ごうとして、」

「もう少しだけ、せめて半分はんふんでも戦闘の再開を遅らせることが出来ていれば、きっと、僕だけはこの戦いに勝利出来ただろう。しかし、そうはいかなかった。そうはいかなかったからこそ、僕は聖具と右腕を失い、君と同じく敗者となったんだ。」

 周は、表情を無くしてから、

「そうだ、この戦い、私も貴様も、只の敗北者だ。なんという、ことだろうな。」

 彼女は、脣についた自分の血を少し舐めた。

「この、鼻からの出血さえなかったら、もう少し上手くいったのだろうか。」

「どうだろうね、少なくとも、那賀島君が君の耳を削ぎ落とした方が主原因だった訳だけれども。」

「そうだな、糸さえ切れねば、」

 周は、自分の言葉の意味に気が付いたかのようにまた目を見開き、

「そうか、つまり、あの那賀島の糸が切れようと切れまいと、私は今日死んでいたのか。那賀島に後頭部を割られるか、あるいは、貴様との戦いの最中で出血死するか。ああ、何ということだ、何が命運だ、何が幸運だ。あの糸の破綻、何も私にもたらしていないではないか。私はどの道死に、しかも、私を打ち負かした筈の那賀島や貴様の足を引っ張ることになってしまった。何て惨めだ、何て醜いのだ、弱者が、負け犬が、強者の覇道に水を差すなどと、」

 僕は焦りながら言った。僕はともかく、周に残された時間はもう、恐らくあまりない。

「それは違う、周! 君は、君の妹を一人守ることが出来たじゃないか。そして、僕達三人を殺したということは、その妹の生き残りを強烈に助けたことになるんだ。君は惨めなんかじゃない、寧ろ、体現したんだ。いかなる手を用いても、そして命を抛っても妹を守ると言う約束を、確かに守ったんだよ!」

 周の顔がゆっくりと綻んで、

「そうか、そうだな。私は彼女のことを、どうにか貴様達から守ることが、」

 しかし、突然悲しげな顔になった。体力さえ残っていたら慟哭を始めたのではなかろうか、そんな、表情。

「ああ、何ということだ、私は、何と愚かな、」

 また僕は焦る。周の声が掠れ始めたのだ。

「どうしたの?」

 周は顔をこちらに向けぬまま語り始めた。

「私は、那賀島と沖田を殺し、首を取るとすぐに貴様を探しに出てきてしまった。霊場姉妹とは、殆ど会話を交わしていないし、彼女らにすべきであったことも、怠ってきてしまった。」

「すべきこと? 治療かい?」

 周は、首を振ろうとしたが叶わなかったとでもいうように身動いでから、

「違う。あの怪我では絶対に助からない。寧ろ、私の悔いはそこではない。ポイントだ。」

 僕ははっとした。彼女の、聞き取り辛くなっていく声はまだ続く。

「私は自分が預かっているポイント全点を、彼女に渡しておくのを怠ったまま、ここに、死地に赴いてしまった。私のポイントがどこに行くのか、貴様なのか、那賀島なのか、近所の誰かなのか、それとも消滅するのか、知らないが、とにかく私の妹にそのポイントが渡ることはないだろう。

 ああ、私は何と愚かなのだ。何と、馬鹿なのだろう。頭に血を上らせて飛び出てしまい、そのせいでそんな基本的なことを怠り、ああ、馬鹿だ、私はこの上ない愚か者だ。感情に駆られて、結果、妹を飢え死にさせる、最低の、」

「周。」僕は出来る限り力強く言った。「違う、まだ終わっていない。君は生きている。そして、僕と違って君は右腕もあるし、つまり、端末も無事だ。死亡判定は出ていない筈。ならば、今から妹に君のポイントを送ればいいじゃないか。」

「馬鹿言え迚野。私はもう、指一本動かせん。」

「そうかもしれない。でも、僕の指は動く。」

 周が、恐らくは全力を振り絞ってその顔をこちらに向けた。信じられないようなことを聞いたような顔。

「周、僕に任せてくれ。体がいくらか無事な僕が、完全に無事な君の端末を操作する。それなら、君の妹を助けられる。」

「馬鹿な、貴様を死に追いやり、そして、貴様の仲間を殺し、更には首を取って放り、辱めた私に、そんな施しを、」

「与える。与えたいんだ。周、助けさせてくれ。」

 周は、顫えながら、その顔を一回だけ縦に振った。血化粧が良く映える、蒼白い顔。いつ意識や生命を手放しても驚かない。急がねば。

 僕は、端末でのポイント譲渡操作などやったことがなかった。故に、ところどころで周に操作手順を訊かねばならず、そして周は当然身を起こして端末を覗き込むことが出来ないので、その説明もところどころ要領を得ず、僕達は大変な苦労を覚えた。それでも、何とかその画面に辿り着き、周のポイント全点、約一万点を数値入力する。後は、送信先を選ぶだけだが、

 そこに並んでいるのは佐藤壮真、井戸本織彦、霊場千夏、霊場小春の名前だった。僕は端末に死亡判定が出ているらしく、既に名前が消滅している。

 僕は周に問うた。

「さあ、あとは選ぶだけなんだけれども、周、どっちかな。どっちの妹さんが無事に生き延びているのだろう。千夏さんと、小春さんと。」

 しかし返事がなかった。僕が周の顔に目をやると、最早安らかな表情がそこにあったが、しかし、よく見ると、残された僅かな体力で必死に顔を顰めようとしているようにも思える。

「周?」

 彼女はようやく、ますます掠れている声を漏らした。もう、あの美しい声の面影はない。

「迚野、私は、さっきから懸命に考えていたのだがな、しかし、どうしても分からんのだ。あそこで沖田に攻撃された妹、そして、彼女を抱きかかえている妹、どちらが千夏で、どちらが、小春であっただろうか、」

 僕は驚いた。

「え、そんな、確か君は、あの二人を一度も見間違えたことがないと、霜田さんが言っていたのに、」

 周は、笑おうとしたように見えた。

「霜田め、そんなどうでもいいことまで貴様と話していたのか? まあ、いいが、とにかく、確かに私は、霊場達と出会って三日後くらいには、もう、彼女らを全く見紛わなくなった。ああ、これも、私の細やかな自慢の一つだがな。

 しかし、あの状況、完全に頭に血が上っており、私の目は怒りに霞んでしまっていたのだ。」

「どうにかして見分けられないの? そもそも、君が何で見分けていたのかも知らないけれども、」

「いや、迚野。日本語の表現の都合で〝目〟だの〝見る〟だのという言葉を使ってしまったが、実際は、彼女らを見分ける……いや、区別する際に、私は視覚情報にそこまで頼っていなかったのだ。つまり、黒子があるとか、そういう違いではなくて、彼女らの僅かな空気の差とか、微妙な所作の違いとか、そういう点を、

 つまり、ああ、あの時の私の茹だっていた頭では、そんな繊細なものは、」

「なら、今から霊場さん達に通信を繋いで向こうの状況を確認しよう。」

「駄目だ。私の声は、最早、通信を通しては意味を汲み取れまいし、私であるということも分かるまい。しかも、この雨音の中、ますます困難だろう。」

 僕は、間の悪い天気に対して心の中で舌を打ちながら、

「では僕が、」

「馬鹿者。沖田に妹なり姉なりを……私の使う意味ではなく、血の繋がった真の姉妹を殺された彼女に、貴様の言葉が届く訳ないだろうが。瀕死の私の端末を弄んで、挑発を寄越しに来たとしか思わんだろう。」

 周の生気が損なわれていくことを感じ、僕は焦った。

「じゃあ、もういい。闇雲でもいい。とにかく千夏さんと小春さん、そのどちらかにポイントを送ろう。」

「駄目だ。もしそれで、今瀕死の方の霊場にポイントを送ってしまう場合、看取っている方はその端末に注意など払わんだろうから、必ず、そのポイントが気付かれぬままに死が訪れる。となれば、そのポイントはどこに行くのだ? 向かう先が沖田になってしまうとすれば、それはすなわち、消滅することになる。仮にそのポイントが遡ろうとしても、沖田を殺した私も死に逝きつつあるし、私を死に至らしめた貴様や那賀島の端末も機能停止しているのだからな。とにかく、もう一人の霊場の元にそのポイントが行き着くことはない。」

「それなら、半分ずつだ。どうせ使い切れない程のポイントがあるのだから、姉妹双方に半分ずつポイントを送ろう。」

「成る程、その手があったか。しかし、駄目だな。」

「何故。」

「貴様はここに来て日が浅いから知らぬのだろうが、ポイントの送信は十分じっぷんに一回しか行えないようになっている。バグの防止か何かの為だろうがな。そして、私は、もう十分じっぷん生き延びる自信がない。少なくとも、その端末に生存判定を与える、脈だか血圧だかを維持する自信はない。勿論、意識はより早く消滅するのだろうがな。」

「もしも判定が体温で行われているのならば、その後僕が、」

「では、貴様の名前はそこにあるか? ないのならば、体温判定の可能性は低いだろう。腕が切り飛ばされれば当然脈も血圧も瞬時に消滅するが、しかし端末を固定する金属帯に覆われた肉は、そこまで早く冷えないだろう。端末自体も、いくらか熱を発すのだしな。」

 僕は念のために周の端末をもう一度覗いたが、確かに、僕の名前はない。僕はそこでは死んでいた。

「つまり、私は、この残り少ない時間の中で、あの二人のどちらが千夏でどちらが小春だったのか見分け、そして、無事な方、この先も生き残れる方にポイントを送ってやらねばならぬのだが、しかし、……しかし、」

 僕は、霊場姉妹の顔をそれぞれ思い出そうとして見たが、そもそも、あの二人をまともに区別した事がなかった。しかし、それはそれで問題なかった。どうせ、僕の頭に浮かんだ二つの、人形のように目が大きすぎる相好は、ステレオグラムの様に瓜二つであったから。

 となれば、やはり、頼れるものは他にない。僕は、色を失っていく周の顔を見つめた。もう、目は大分前から閉じられている。

「周、良く思い出すんだ。君なら出来る。君が、命を抛ってまで守った妹を見間違える筈がない。双子が何だ、遺伝子が何だ、そんなものは関係ない。君なら、きっと、」

 周は、ほんの少し笑ったように見えた。その後じっと、じぃっと考え、そして僕の心が焦げ付きそうになる頃ようやく、口許を苦しそうに歪めてから、まるで、魂を小出しに吐き出すようにして、

「小春だ。小春にポイントを送ってくれ。」

「分かった。」

 僕は急いで操作した。その声が、本当に弱々しかったから。

 決定ボタンを押し、しばらく待つと、周の端末からポイント全てが消滅した。これで終わった。もう、何もすべきこと、何も出来ることはない。あとは、ただ、

 でも、最後にもう一つだけ、

「ねえ、周。さっき訊きそびれたこと、訊いてもいいかな。」

「何だ。」

「さっき君は、複雑な感情の例として、〝賞讃と憎悪を伴った愛〟を挙げたよね。」

「ああ、」

「しかし、あれは只の例だったのだろうか。」

「何、が、言いたい。」

「つまり、賞讃と憎悪、というのは、君が僕に対して抱いていた感情と合い過ぎるんだよ。君は僕のことを讃えてくれたし、また、否定はしたけれども、しかしやはり広い意味では僕を憎んでいただろう。そう、賞讃も、憎悪も、実際に君から僕へ向けられていた感情だと思うんだ。

 そこでふと思った、もしかして、君は最後のもう一つも、」

 僕は恥ずかしさから、そこまでで言葉を切って周の返事を待った。しかし、聞こえてくるのは、すっかりか細くなった雨音だけだ。

 彼女の顔を見た。もう、何も動いていない。僕の言葉を聞きとめる力を失ったのか、それとも、それを理解する力や、言葉を発す力がないのか、あるいは、もしも僕が期待しているような返事が得られる筈であったのならば、その、気恥ずかしさを打ち破る力がなくなったのか、そのいずれなのかは分からないが、とにかく周は黙り込み、安らかな顔で静かに横たわっていた。まもなく、死ぬのだろう。

 僕は、最期に周のほうへ突っ伏してしまわぬよう、今のうちから後ろへ倒れ込んでおくことにした。背中に衝撃。汚い天井。周の姿が見えなくなってしまったが、構うまい。彼女が言うには、どうせすぐに地獄で会うのだから。

 いつしか雨が止み、雨音が絶えていた。痛覚を失っていた僕は、いざその時までの退屈をいかにして凌ごうかとも考えたが、それも杞憂に終わった。周と同じく血を流し過ぎていた僕の意識は、意外にも早く、消えていって


107 欠番

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