87節

87 井戸本組、絵幡蛍子

 地に頭を、正確に言えば、床タイルに頭を擦り続けている私を引き起こす努力は諦められたようで、今私は存分に、嗚咽を漏らしながら顫えている。顔を上げたところで、どうせ何も言葉が出ない。それに、こんなくしゃくしゃな顔は誰にも見せたくなかった。

 この姿勢からは何も見えないが、私の横で綾戸は立っているらしい。

「私も、絵幡と同じくらいに感じています。慙愧と、後悔と、悔恨と、悔悟とを。そして出来ることならば、同じように泣き散らし、同じように詫び、そして首なり腹なりを裂いてお見せしたい所存です。今回の私達の失態は、それほどの価値があります、間違いなく。

 ですが、絵幡に続き私までも泣き伏せてしまっては、私達の責務、あの場で起こったことの説明、その続きが出来ません。ですので私は、厚かましくも尋常に話させて頂きます、どうか、お許し下さい、井戸本様。」

「一つ君に命令する。冗談だろうと方便だろうと阿諛だろうと、二度と、死んで詫びるなどということは口にしないでくれ。」

「有り難う御座います井戸本様。そして畏れ多くも、私の言葉には冗談も方便も阿諛もありません。全て本気です。同志七名の命、そして――あなたなら、そんなものは取るに足らないと仰るかもしれませんが、しかしやはり決して無視出来ぬものとして――それに付随する戦力をみすみす喪失したのです。指揮をとった絵幡、彼女の決定にぎりぎりまで肯い続けた私、共に、十分死に値する愚か者だと私は確信しております。

 しかし、あなたはその様な、無責任な自決をお喜びにならないでしょうし、また、残った僅かばかりの戦力をこれ以上減ずるわけには参りません。私と絵幡はそういう意味のみで、未だに首と胴をおめおめと繋げたまま、こうしてここに生きています。生き恥を晒しつつ。」

 少しの間沈黙があって、

「井戸本様、」再び綾戸の声。「そう言えば、綱島の姿が見えませんが、」

「あいつなら、」今度は縄手の声だ。明らかに苛つき、そして、怯えている。「卒倒したから帳の中にぶちこんでおいたわ。いつもとあべこべだけれども、あそこにいれば私達の話は聞き難くなるでしょう。気兼ねなく話なさい。」

「それはよかった。でも、綱島が卒倒? 何で?」

 緩鹿の声が、おずおずと、

「綱島はここ最近ずっと、端末の通信先選択画面をぼーっと眺めていることが多かったんだ。そこに紺野の名前がないことを確認し、受け入れようと懸命に努めているかのように。これが良くなかったようだ。当然僕がこの目で見たわけではないが、しかし、状況を整理するに、彼女がその画面を眺めている丁度その時に、同志達の名前がぼこぼこと消滅し始めたらしい。つまり、彼方組が渡り廊下を落とした直後のことだが、とにかく彼女は再び仲間達が死んでいく姿を見てしまったわけだ、一切の予告なしに。それで、」

 そこで言葉が途切れた。綾戸が手を及ばすことで彼を制しでもしたのだろうか。

 井戸本様の声が聞こえてくる。

「しかし、綾戸君、今日の君は随分、普段と雰囲気が違うようだが。」

 まるで綾戸が躊躇ったかのような間があってから、

「これまでの人生で私はしばしば、いざという時には頼りになるのに、という評価を受けてきました。最近は特に絵幡や紙屋から。私としてはいつも私のままのつもりですが、無意識のうちに、人格を構成する何かを時々に応じて変えているのかもしれません。もしそうだとすれば、きっと今が〝いざという時〟なのでしょう。」

「そうだ、」続橋の声。「いざという時に決まっている。すぐにでもどうにかしないといけない。最早我々はここに居る七人こっきりになってしまい、しかも、問題の彼方組は五人がそのまま健在だ。銅座の奴はさっきくたばったが、あんな奴はどうでもいい。ああ、せめて、鉄穴とかいう奴を仕留められていれば良かったんだが、」

「確かに、私と絵幡が死をも厭わなければ、鉄穴凛子を討てていた可能性がある。しかし、あまりにそれはか細かったよ。何故なら、あのような渡り廊下崩壊という作戦を用意されていた以上、彼方組は事前に大規模な襲撃を予測し、準備していたことになる。ならば、万が一の事態の為に、鉄穴の安全をより確保しておこうと思うのが自然だよね。

 さて、もしも彼方組のこの、襲撃が近々来るという予測の根拠が銅座の失踪によるのならば、つまり、銅座が生きているのにもかかわらず帰還しないことから銅座が訊問されているらしいということを奴らが嗅ぎつけていたのならば、向こうはそのまま、鉄穴の居場所も漏れているだろうと考えるのが自然。ならば、きっと、鉄穴の居る部屋は移されていた筈で、残念だけれども、私と絵幡がいくら命を張っても、鉄穴の姿を見ることすら叶わずに鏑木に銃殺されていた可能性が高いよ。」

「ああ、いや、別にお前や絵幡を責める気は、」

「また、今にして思えば、銅座をだらだら生き延びらせたのも間違いだったね。必要な情報を奴から聞き出したら、その瞬間に縊り殺すべきだった。そうすれば、彼方組に知れるのは単純な銅座の死亡だけで、ひいては妙な勘ぐりをされずに済み、あんな目茶苦茶な作戦も立てられずに済んだのに。」

「自虐が好きね。それも、銅座を死なせないように訴えた絵幡や、意義を唱えなかったあなたのせいって?」

「違うよ、縄手。私は責任の所在を求めるつもりなんて無かったけど、もしもそうしたいなら、寧ろあなたと続橋のせいだ。いつものように、また訊きたいことが出てくるかも知れないと言いながら被拷問者を生き延びらせたのはあなた達二人なのだから。」

 彼女が動揺した時の癖、口に手を当てる仕草がまた行われていることを想像させる呻きが、縄手の居る方から響いてきた。その後に聞こえてくるのは、井戸本様の声。

「やめないか、君たち。まず、今回の悲劇に関して私は君たちの中の誰も恨む気はない、責める気もない。君たちもそうしてくれ。戦犯探しなどという下らないことをしている場合ではないのだ。仲間内で啀みあっていられる状況ではないのだ、どうか、一致団結してくれ!」

 再び綾戸の声がする。

「そう誓います。そして、皆も誓ってくれると私は信じています。しかし、綱島はどうでしょうか。」

「何を言うのだ綾戸君、確かに彼女は今これ以上無いくらいに精神を乱されているが、しかし、だからといって、」

「誤解なさらないで下さい、井戸本様。私は何かややこしいことを述べようとしたのではありません。ただ、こう言いたいだけです。彼女が目を醒ます前に、彼女をいくらかでも安心させられる程度に頼もしい、この状況に対する打開策を打ち出しておかねばならないのではないでしょうか、と。」

 しばらくのしじまの後に、

「そう言うからには、君に何か考えでもあるのかね、綾戸君。」

「御座います。しかし、物には順序というものがありますので、私よりも先に縄手や続橋に話させるべきかと。」

 しかし幕僚の返事は情けなかった。

「井戸本様、勿論、僕と縄手で考えました。死ぬ気で頭を絞り、様々なことを考慮しました。しかし、ああ、……どうすれば良いというのでしょうか。我々は二度、彼方組に対して――奇しくもきっかり同じ人数――九名での襲撃を試みたのです。一度目は辛くも勝利したものの、しかし、明らかに損害のほうが大きく、また、二度目に至っては奴らの銃弾数発の消費と引き換えに七人の同志が犠牲となりました。そして、今ここにはもうたったの七人、いえ、綱島を除けば最早六人しか残っておりません。九人でもまるで歯の立たない、あんな化け物達に、我々はどう立ち向かったら、

 そもそも――申し訳ありません、井戸本様、必要に迫られるためにあなたの言葉に叛かざるを得ません――今回の襲撃の作戦について、絵幡や綾戸は彼女ら自身に責任を求めようとしていますが、しかし、本当にそうすべきでしょうか。確かに立案したのは絵幡です。しかし、僕も、縄手も、……そして、完全に絵幡の立てた作戦に肯い、一つの異論もはさまなかった筈です。更に言えば、あの作戦に参加し、死亡した同志達も大きな意義は唱えなかったのでしょう、事実忠実に参加したのですから。それも、絵幡というよりはあなたの、あなたが我々二人の意見を聞きつつ認めた作戦であるという威光の元に、です。」

「私の機嫌を大いに損ねる危険を冒してまで、」その実、井戸本様の口調には微塵の苛立ちも感じられず、ただ、慮りのみが香った。「君は何を言いたいのだろうか、続橋君。」

「結局あの作戦は、我々のほぼ全員が関わっていたわけです。つまり実は、あの作戦は九人で遂行されたのではなく、話を聞かされすらしなかった綱島を除いた全員、十三名の力の元に立案され、そして遂行されたのです。それでもあのザマだったのです。十三名の総力を上げ、そして七人の犠牲を出しつつも、彼方組に――文字通りの意味で――かすり傷一つすらつけられなかった。となれば、残されたたった七人の私達に、何が出来るでしょうか。」

 またも、不愉快な静寂が場を支配し、まるでそれが、私の頭を踏みつけて床に擦り付けるように思われた。まあ、それも構わない。こんな私に、顔などという上等な部位、人間の特権である表情や発語に使用する器官など必要だろうか。いっそそんなものは潰れてしまえば良いのだ。文字通りお似合いの仕打ちだろう、幾多の同志達の命を奪った人でなしに対しては。

 しかし当然、井戸本様にとっては不愉快な沈黙であるようで、自らそれを破られた。

「綾戸君、では、君の意見を聞こう。」

「はい。まず、今続橋が、最早吐露するように述べた見解ですが、実は、そこまでは私も全く同意なのです。いくら頭を捻ろうと、策を弄しようと、いえ、仮に天地をひっくり返したとしても、私達では彼方組を撲滅することは出来ません。全員の命を犠牲にすれば一人か二人は討てるかもしれませんが、恐らくはそこまでです。……そんなものは、ここに居る誰も望みませんよね。しかし、それ以上のことは我々の力では不可能です。これは弱音でも敗北主義でもありません、客観的事実です。」

「したり顔で、」縄手の荒い声。「何を繰り返しているのだ貴様は、そんな忌ま忌ましいことを徒に蒸し返して、何の意味がある。」

「徒ではないよ。必要な前提条件の確認だった。つまり私は、私達では彼方組に叶わないということをきちんと踏まえて、この先のことを考えるべきだと言いたいんだよ。」

 久々に緩鹿の方から声が響いた。

「では、彼方組に逆らうべきでないと?」

「もしも事態がもっと紛糾していれば、それも良いのだけれどもね。しかし、今の現実はあまりにも秩序立ちすぎている、つまり彼方組一強だ。いつの間にかどこかの誰かが彼方組を退治してくれる、という幸運には最早一切期待しない方がいいと思うんだ。やはり奴らは私達で討つしかない。しかし私達にそれをする戦力、実力は残っていない。ならば、やるべきことは一つ、足りないものを補うしかない。」

 井戸本様が仰る。

「今から同志を募れと? しかし、」

「はい、井戸本様。いくらあなたのこの上なき仁をもってしても、ここから逸れを引き入れることは難しいでしょう。そもそも、逸れなどという人種は最早存在しないかもしれません。しかしだからといって、恐らく強力な絆で結ばれているであろう他所の強豪組を突き崩すというのも厳しい話です。」

「君が私のことを過大に評価してくれているらしい点を除けば、私も全く同意だ。」

「どうか御自分を低く見ないで下さい。……ああ、で、それで結局私が思いますのは、もうこうなったらこれしかないということです。

 井戸本様、他の強豪組と手を組みましょう、彼方組を撃滅する為という名目で。」

 少し間があってから、

「君の話は徹頭徹尾確からしい。しかし、可能だろうか。」

「我々が彼方組に対して戦くのと全く同様に、他の強豪組も奴らのことを厄介に思っている筈です。だれしも認めざるを得ない事実として、今最も強大な戦力を持っているのは間違いなくあそこでしょうから。ならば、共謀は不可能でないと思います。彼方組に対する聯合を結成するのです、井戸本様、あなたならきっと可能です。」

 ここで聞こえてきた縄手の声は、苛立ちを失い、その代わりにふらつきを得ていた。

「しかし綾戸、具体的に、どこと、組むべき、……だというの?」

「詳しいことは佐藤にいろいろと訊かないと分からない。でも、きっと全部だよ。いま現存する他のグループ全部と組むくらいでないと、彼方組に対抗するには十分でないと思う。」

 ここでいきなり、私の短い髪が摑まれて、顔を上げさせられた。私の無様な泣き面は、綾戸の顔を目の前に見つける。

「絵幡! いつまで鼠みたいに丸まっているの。聞いていたでしょう、私達はここからが勝負時なんだよ、いい加減に起き上がって何か言ってよ。私達がこの先生き残る為に、あなたの智慧も貸してよ!」

 私は、歔欷を力づくで押さえて、立ち上がりながら、なんとか言葉を漏らし始めた。凝り固まった脚が、まるで骨が銅棒にすげ替えられたかのように硬く痛む。眼球を覆いすぎる過剰の水分と、数十分振りの蛍光燈の明かりによる眩惑により、視界はまだあまり恢復していなかった。

「いうならば、」しかも吃りが邪魔をする。「同盟を組む場合、私達の戦力がどんな状態であると思わせるのかが鍵の一つだと思うの。あまりに弱小だと思わせれば、交渉の場で襲われる。これでは、仮にその戦闘でこちらが勝利しても望ましい結果でない。そしてまた、あまりに強大だと思われれば、それはそれで組んでもらえない、彼方組同様に危険視されてしまうから。

 私達が何人残っているふりをするのがベストなのか。そして、そのベスト人数は不自然なく装いきることが可能なのか。不可能であれば、次善は何人か。このあたりを、良く検討すべきだと思う。」

 私が何とか言葉を紡ぐ間にクリアになりつつあった視界に、井戸本様のお顔が浮かんできた。その顔は、私などに向けられているのが勿体無いくらいにお優しく、

「そうだ絵幡君。綾戸君の言う通り、やはり君の理智もこの難局には必要だ。どうか、立ち直って欲しい。君が、……許してくれ。無礼な仮定をしそうになった。君は、彼方組の毒牙に掛かった仲間達に申し訳なく思っているのだろうから、ならば、彼らの為にこそ、そして――私はそんなこと必要だとは思わないが、君が必要だと思うのだろうから――彼らに償う為にこそ、今立ち上がって欲しいのだ。どうか君の力を貸してくれ、絵幡君。」

 私は湧き上がる涙を堪えるのに再び苦労した。先程までの涙とはあまりに性質が違ったのだ。

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