86節
86 周組、霜田小鳥
何となしに高校側の理科準備室へ辿り着いた私達は、折角なので、何か役に立つ薬品でも残っていないか漁ることにした。まあ、大して期待はしていないが、しかし、どうせ他にやることもない。
「あまねえ様、ありましたよー。」
霧崎が、まるで鶏冠のように頭の上に乗せた薬品瓶を、両手で支えつつやってきた。姉様がその瓶を一瞥して曰く、
「霧崎さん、私が言ったのは塩化ナトリウムよ。それは、塩化カリウム。」
「ありゃ、同じ
「ナトリウムと違って、カリウムが欠乏することはまず有り得ないわ。要りません。」
口を尖らす霧崎の向こうから、霊場のどちらかがやって来た。彼女は右手の瓶を突き出して、
「姉様、ありました。」
「小春さん、それはアセチルサリチル酸で、確かに解熱鎮痛剤の筈だけれども、しかし、胃腸障害をもたらすことで有名な以上、投与量の知識の無い私達には使いようがないわ。頭痛を散らす為に命は懸けられないでしょう? 私が言ったのは、多分、アスコルビン酸のことなのだけれども。」
姉様がそういう間に、もう一人の霊場もやってきていて、
「姉様、」
周姉様は最早待たなかった。
「それは硫酸ナトリウム、大昔は万能薬として重宝されていたけれども、その正体は只の下剤よ――全部出せば治る、という論法の治療法ね。私が言ったのは、硫酸。」
妹の方の霊場が加勢して、
「頭に硫酸とついていますのに、」「違いますので?」
「『硫酸ナントカ』というのは硫酸塩、あるいは硫酸エステル――大抵前者――のことで、大雑把に言えば、私が硫酸に期待している破壊力――ちゃんとした言葉で言えば酸化力や強酸性――を使い果たした死骸のことよ。全く違うわ。」
「成る程、」「流石博識ですね。」
姉様は人さし指を眉の辺りに当てつつ、目を閉じて首を振られ、
「私はさっきから高校化学に毛が生えた程度の知識しか話していないけれども、あなた達はその手の授業を受けていないのかしら。……ああ、ところで霜田さん。」
「はい?」
「そこには多分私の指定した薬品はないし、また、仮にあったとしても持ち運べないと思うわよ。」
そのお言葉に私は納得して、扉を閉める。明るくない部屋が更に薄暗くなった。
そんなこんなで、案の定収穫はなかった。
「まあ、別に構わないわ。もともと駄目元だったし、それに栄養素の方は――実験用試薬は口に入れるものじゃないから――どうしても足りなくなった時の最終手段であったわけで、そんな状況に私達が陥る可能性は極めて低いしね。破壊力のある薬品があったら便利だったかもしれないけれども、そういうものは持ち運びが危なっかしいし。」
「しかし、」私が口を開いた。「一つ懸念がありますね。」
「何が?」と姉様。
「確かに、食塩やヴィタミン類が見つからなかったというのはどうでもいいでしょう。しかしです、硫酸などの薬品すら見受けられないというのは、些か不安です。」
「どういう意味かしら?」
「どこぞの誰かがそれらを持ち出しているのではないか、と。そしていつか私達相手に使用するのではないか、と。」
姉様は頷いて、
「確かに、そういう可能性はあるわ。今日まで大事に取っておいている可能性は非常に低いと思うけれども、ゼロではない。何せ――私自身はとっくの昔だと確信しているけれども、一応――いつその手の薬品が持ち出されたのか分からないのだから。まあ、もしも本当に持ち出されたのなら、の話だけれどもね。」
霧崎が言った。
「そもそも、ここに薬品の一覧表があれば良かったんですよ。そうすれば、何がなくなっているかも分かりますし、また私達も、ありもしない薬品名までも頭に入れようとして、うろ覚えになったりしなくて済んだのですから。」
仮にそうなったとしても、硫酸と硫酸塩の違いが分からない連中にまともな試薬探索が出来ただろうかなと私が訝っていると、姉様はいつの間にか神妙な顔つきで考え込まれていた。
「姉様?」
私の問いかけを無視されるようにして、
「霧崎さん、あなた良いことを言ったわ。そうね、一覧表があれば便利ね。」
首を傾げる霧崎もやはり無視され、姉様はその端末を弄り始められる。相変わらずあまりにも達者な指捌きなので、私が言葉を
『はい、周さん。御用ですか。』
「今、大丈夫か佐藤?」
『立て込んでいる時には平気で通信を無視させて頂きますので御安心を。して、何の御用でしょうか。』
「用事というか、な。以前にお前が霜田達をわざわざ登録しに来た理由をずっと考えていたんだが、何となく当たりがついた。確かめたいのだ。」
『成る程。勿論、好きなことを仰ってみて頂いて構いませんが、しかし、僕が僕自身のことに関して正直なことを言うでしょうかね。』
「言うとも。お前が肯んじなければ、私との大口の取り引きを逃すことになるのだから。ことによっては、お前に数百ポイントを与えてやってもいいと思っているのだ。」
しばし、興味深げな沈黙があり、
『まず、あなたの仮説、僕が何の為にあなた方を訪問して登録を行ったのか、についての仮説を聞かせて頂けますか?』
「あの時期は、まだ残りが二十五人となったことの通知が来る前だった。つまり、逆に言えば、直に残りが二十五人となって、それによる通知が来るだろうと思われる時期だった。その様な通知があることは、ルール追加の都合でほぼ確実だった。で、そのタイミングで、お前は、霜田や霧崎、霊場達を急いで登録したわけだな。」
『まるで、その通知と僕の行動が関係しているかのような口ぶりですが、』
「関係しているとも、つまり、お前の目的は恐らく、その残り二十五人の通知が来た時に、その二十五人全てをきっかり全員登録しておくことではなかったのだろうか。つまり、全員の生存状況の把握だ。そうすれば、お前がいつも頭を悩ませている死亡情報の欠落や誤りを今後一切防ぐことが出来るし、また、それによって持ち前の奸才をより鋭く振るうことが出来るようになるだろう、全員の生存状況を知るということは、すなわち、どこがどう弱っているのかを把握することにもなるのだから。
もしそうでないのならば、霜田や霧崎を登録することで生じる他の御利益を説明して欲しいものだ。私には全く想像もつかないからな。」
『例えば、あなたが万一妹さん達を遺して死亡した場合でも、その登録によって、僕が遺された彼女らを助けることが出来ますよ。』
「弱いな。この、一人殺すことで露骨に得をする終盤に、我々五人の前へ生身を晒してまで行うようなことだろうか。貴様と私達は、親友でもなんでもないというのに。」
またしばらく会話が滞ってから、
『それで周さん、もしそうだとしたら、僕にどうして欲しいのでしょうか。』
「300ポイント出す。お前が今持っている生存情報二十五人分を全て寄越せ。つまり、その端末に登録されている名前二十四個を全部読み上げろということだ。」
『成る程、そういうことですか。まあ、僕にとっても喜ばしい話のようですからね、白状しましょう。確かに僕は、自分を除いた二十四名の名前が表示されている画面を、その、残り人数二十五人の通知を受けた瞬間には得ていました。しかし残念ながら、今は二十三名分の名前しか登録されていません。』
「一人死んだのか?」
『あるいは失格、でしょうかね。』
「まあ、何でもいい。とにかく教えてくれ。」
『いやいやお待ちを、まだ僕は納得していませんよ。この為に命懸けで色々駈けずり回ったのです。500ポイントほど頂きたいですね。』
「他言しないと誓おう。」
『いえ、そうして頂く前提での500ポイントという値段です。では、450ポイントではどうでしょうか。』
「話の分からぬ奴だな。私は300しか出さんといっているのだが。」
すこし溜め息のような音が漏れ聞こえてきてから、
『周さん、あなたは霧崎さんを擁することで大量のポイントを確保している筈です。以前から気になっていたのですが、何故それほどまでに吝嗇を働くのでしょうか。』
「一つ、大切な妹が持ってきてくれたポイントをざぶざぶと無駄に使えるものか。二つ、私がポイントを失うこと自体は戦術上ほぼどうでもいいが、しかし、お前がポイントを得るということは相応に面白くないのだ。この理窟、お前なら分かるだろう?」
佐藤は笑ったようだった。
『相変わらず手厳しいですね。……まあ、分かりましたよ。今回は300ポイントで勉強させて頂きましょう。』
「恩に着る。では、間違いなくポイントを送る為に一度切るぞ。確認次第折り返してくれ。」
その後の通信も終えた姉様は、内容の確認を始められた。
「本当に、逸れが全滅していたのね。ええっと、ここに居る私達が五人、那賀島達が三人、葦原組が残り一人、武智組が残り二人、大海組が全滅。
そして厄介な井戸本組、なんと、いつの間にかもう僅か七人しかいない。これは助かるわね。」
「流石は姉様です。」「以前に私と小春が心配した、」「井戸本組の存在。」「あの時私達はその為に、」「どこか他所の組と協力すべきと訴えましたが、」「しかし、杞憂であったことが判明したわけです。」「数が自慢の井戸本組、」「僅か残り七名となれば、崩壊したも同然かと。」
霊場姉妹の呪文のような語りを聞きながら、私も思っていた。あの、鬱陶しいことこの上なかった、大所帯井戸本組が、いつの間にか凋みきっている。これは、非常に有り難いことだ。このまま平穏にいけば、我々の生き残りも可能だろう。
しかし姉様はまるで窘めるかのように、
「千夏さんに小春さん、わざと言っているのだろうけれども、そういうわけではないわよ。私の言う通りにならずに、寧ろあなた達の言う通りとなっていることも多い。まず、結局私達は那賀島達と組んでいる。そしてより重要なこととして、あの時あなた達が心配したもう一方のグループはその戦力の大部分を未だ保持したままよ。
そう、彼方組。佐藤によれば、ここは残り二十五人の通知の時点で六人を残していたらしいの。その後早々に一人が脱落して今は五人らしいけれども、それでも頂けないわね。あんな目茶苦茶な聖具で襲われては私達でもひとたまりもないかもしれない。そんな人物が、残り五人も居るだなんて。」
「でもあまねえ様。」霧崎が話し出した。「今までアイツらに私らが見つかったことはないじゃないですか。こっちだけが見つけて慌てて退散したことはありましたけれども。つまり、これからだってアイツらと出会さずに済むんじゃないですか?」
「それは、あまりにも希望的観測が過ぎるわよ、霧崎さん。彼方組が他所の組の人間を順調に殺害している――餓死していない以上その筈――のだから、つまり、順調に他の参加者を見つけることが出来ているということなのよ。すなわち、私達がこれまで彼らの銃に襲われなかったのは、たまたまである可能性が高い。
そしてね、そもそも今まで通りにはいかないの。狭い高校側のみでの行動が我々にも彼方組にも強いられているのだから、今後互いに出会す可能性は非常に高くなっているわ。」
私は考え始めていた。この、彼方組のみがあまりに強大な力を持つ状況、もしかすると、寧ろ井戸本組が壊滅しかけていることでより苦しくなっているのではないか。今後、どこかの組が奴らを止めることは出来るのだろうか。もし出来ないのであれば、なにかしらの作戦が必要なのではないだろうか。しかし、私達に何が出来る?
この不安を敢えて吐露しようと決心し、いつの間にか伏せてしまっていた目を上げると、姉様がまた端末を操作されていた。
「また通信ですか。」
「ええ、那賀島達へ。」
「何故?」
「何故って、折角得た情報だもの、教えてあげた方が向こうも助かるでしょう?」
私は眉を寄せ、耳の後ろのあたりを搔きながら、
「周姉様。私の記憶が正しければ、確か、誰にも他言しない約束だったのでは。」
「ええ、そうよ。それで?」
姉様は端末から目を離されて、その目を私としっかり合わせつつ、
「佐藤の御機嫌を取ろうとして律義に約束を守る連中も居るかもしれないけれども、私は、あんな奴を怖れはしないわ。舌先を振るうことしか能のない彼に、一体何が出来るというのかしら。」
私は一言漏らした。
「もしかすると、姉様は佐藤のことがお嫌いなので?」
返事は早かった。
「大っ嫌いよ。」
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