82節から85節

82 彼方組、鉄穴凛子

 とにかく凄い音がした。遥か彼方かなたから執拗に届いてきた幾発の柏手のような響き、崖崩れみたいな音、そのまま笑い死ぬのではないかという笑い声、そして、耳を突く悪態。最初の音は聞きなれなかったけれども、きっと銃弾が発せられる音なのだろう、だって、残りの音はそれぞれ、渡り廊下が倒壊する音と、鏑木の満足と、鏑木の不満足だろうから。

 あの笑い声からするに、きっと上手くいったのだろう。でも、分からない。確かめるまでは何も分からない以上、私はだだっぴろい部屋の中、一人で怯えていた。もしも、また、誰かが斃れたなら、誰かが死んでしまったのなら、

 また突然音がした。座り込んでいる私がそちらへ振り返る間に、すでに見慣れた顔が部屋に侵入してきている。一、二、三、……四! よかった、全員揃っている。

 私が立ち上がろうとする頃には、先頭の鏑木が駈け寄ってきていて、押っ取るように私を抱き締めた。苦しい。

「ああ、やったわよ、凛子。大成功よ!」

 彼女の、私とは比べ物にならない程に豊かな胸の間から、私が何とか、

「えっと、どうなったの。」

 力を緩めやしない鏑木に代わって、彼方君が、扉を閉めつつ、

「大成功だ。使用弾数は、渡り廊下の破壊に使用した八発の他に、僕と鏑木が井戸本組の残党を撃ち損ねた一発ずつのみ。合計僅か十発。」

 彼はこちらに寄ってきて、持ち前の大袈裟な手振りと共に、

「にもかかわらず、襲撃してきた井戸本組のうち、七人を仕留めることに成功した。こちらの人的被害は一切なし、それで7KILLだ。700ものポイントを得ることに成功し、そして、僕達の生き残りへ大きな一歩を踏み出したことになる、何せ、これで残りが七人減ったのだから!」

 私は、自分よりもずっと大柄の鏑木を何とか引き剥がしながら、

「七人で700ポイント? それって、」

 彼方君が答える。

「ああ、忌ま忌ましいことに、各員のポイントをどこかに――恐らくは大将のもとに――集めておいてあるのだろう。しかし、十分さ、十分すぎる。だって、奴らの所持分を引き継げないにせよ、殺害分だけで700ポイントなのだから。」

 私はちょっと考えてから、

「ええっと、嬉しいよ。私も、この勝利はとても嬉しい。凄く嬉しい。でも、」

「なんだい?」と彼方君。

「700というポイントは果たして十分なのかな、と思って。皆も見たでしょ? さっき来た通知をさ、」

「ああ、あれのことか。」

 (恐らく、)彼方君達が、鏑木の建てた実に容赦のない作戦に従って多数の〝KILL〟を稼いだ結果、とうとう先程通知が来たのであった。残り人数が二十五人となり、追加ルールが有効となった知らせだ。

「確かに自動販売機の値上げは少々困った話だが、しかし、この戦いも残り僅かだ。問題ないんじゃないかな。」

 鏑木が、未だ私の肩を摑んだまま、

「そうよ凛子、あと十八人を仕留めれば、もうそれで終わりなのよ。外に出られて、そして治療が受けられる、たった十八人ばかりで。しかも、この十八人は必ずしも私達が仕留めきらなくとも良いのだから、そう、もうあっという間なのよ!」

 そっか、もう、もうすぐなのか。もうすぐこの地獄を抜け出て、家へ帰れるのか。お父さんの、元へと。

 興奮で顫える鏑木の肩を乗り越えて、銀杏君の声が申し訳なさそうに聞こえてきた

「ただ、困ったこともあるよね。四十八時間以内に高校側に移動しないと失格だってさ。折角安全な場所を確保していたのに、どうしたものだろう。」

「取り敢えず、焦る必要はないだろう、いきなり動くと狙われ得る。しばらく間を置いた方がいい。」

「いや、彼方、今すぐにでも動くべきだ。」

 私達は揃って釘抜君の方を向いた。

「何故かな。」

「何故なら彼方、渡り廊下を破壊した手前、ここ4D棟の五階の出入り口は今や一つしかない。その一つも辛うじて存在している有り様だ。あの階段が更に破壊されたら、我々は脱出不能となり、間抜けな失格、あるいは餓死を被ることになる。」

「ああ、そうだったわね。」と鏑木。「そうよ、あの階段を守る為に、井戸本組の残党を逃す羽目になったのだから。釘抜の言う通り、確かに、今すぐにでもこの棟から出るべきだわ。」

 彼方君が声を張った。

「では、勝利を噛みしめるのはもう少し後だ。今すぐここを発って、高校側へ向かおう。」

 おう、と、私以外の声が綺麗に揃った。


83 逸れ、簑毛圭人

「ありゃりゃ、早速値上がってるよ。」

 こう言ったのは箱卸さんだが、僕も同様に困った。通知を見てから慌てて自動販売機に向かったのだが、既にきっかり食料品の値段が上がっていたのだ。物理的な表示は代わっていないが、いざ端末を繋げて購入を試みると、額面の二倍のポイントを要求されてしまう。

 購入確認画面で元気よく「NO」を選択した箱卸さんが、端末を販売機から引き剥がしながら

「どうしようね、圭人君、今まで通りに食事を続けるのか、それとも、思いっきり節約するのか。」

 僕は応える。

「難しいね。勿論、調子に乗ってポイントが枯渇しても困るけれども、しかし、腹ぺこの状態では戦闘に支障が出るかもしれない。」

「確か、前に圭人君は、飢餓状態からポイントを得たよね、戦いに勝利することで。」

「でもあの時は、」(ここで僕は、『節さんのことを食していた為に』という副詞句を呑み込む為に口ごもった。)「……全く餓えていなかった竿漕さんと筒丸さんの協力があった。と言うよりは寧ろ、竿漕さん一人の手柄のようなものだったよ、僕と筒丸さんは補佐しただけで。」

「じゃあ、やっぱり食事を搾るのは不安だね。」

「そう。そもそも、今居る二十五人が七人へと減るまでに僕達があらゆる戦いを回避出来るとは限らない。ならば、多少は節約するにしても、しかし、動けなくなるほどに、食べることを我慢すべきではないだろうね。」

 箱卸さんが頷くのを僕が見ると、突然、音が聞こえてきた。この決して広くない部屋、その後方に唯一存在する扉が開かれたような音。すなわち、誰かがここへ入ってきたようだ。そして、他の仲間を失った僕達が誰かに会うということは、その誰かとはほぼ間違いなく、敵だ。

 僕達は急いで振り返った。見るとそこには、立ち並ぶ三人の男女。向かって左二人が男で、残りが女だった。左端の男が明らかに制服ではない派手な服を着ているので、三人の姿は没個性化を免れて、それぞれに際立っている。その姿は、唯一の出入り口である扉を、僕の視界において完全に覆ってしまっており、彼らを無視してはこの部屋から脱出出来ないことを理解させた。つまり、逃げ場がない。

 危機を察知して一気に緊張する僕の耳を、あまりにも間近からの声が劈いた。

「あ、あの時のクソ女!」

 箱卸さんが指でどこかを指し示している気配を感じたが、そもそも視界に女は一人しか居なかったので、僕は箱卸さんの指を見ずに、いきなりその〝クソ女〟をよく見つめ始める。怪訝そうな顔をして彼女が首を傾げると、蛍光燈の当たる塩梅が変わり、その長い黒髪が瞬くように煌めいた。

 これをきっかけに思い出した僕も、殆ど反射的に叫ぶ。

「そうか、あの時の、節さんを殺した女だな!」

 その女性も、腕を組んだまま頷いて、

「ああ、ようやく私も思い出したわ。人を挟み撃ちにしておいて無様に撃退された間抜け達ね。」

「よくも美鈴さんを、アンタは絶対に許さない。」

 箱卸さんの言葉に、その女は手をほどいてから肩を竦めた。

「何を言っているのかしら。あの時仕掛けてきたのはそっちでしょう? それともなに、大人しく殺されてろとでも言いたいの? 冗談。アンタ達がお友達のことを大切に思うよりも、ずっとずっと、私は私の命を大切に思っているのよ。

 まあ、仮にあなた達が自分の命よりも仲間の命を大事に思う――反吐の出るような――聖人だとしても、それがなんなのよ。アンタ達は私よりも弱かった。だから一人は殺され、一人は踏んづけられて豚みたいな呻き声を漏らす羽目になった、それだけのことでしょう? ここは弱肉強食の世界、自分が弱いことで他人を恨むだなんて、間抜けも良いところだわ。」

 ここで、向こうの真ん中の男が、女の方を見つつ、

「沖田さん、彼らは何者? 戦力とか、仲間の存在とか、」

 この言葉を聞いた女、オキタがその中央の男の方へ顔を向けると同時に、僕の横にいた箱卸さんも動いた。

(圭人君、時間を稼いで。)

 その囁き声を残しつつ、彼女は僕の後ろに隠れ、しゃがみ込む。ごそごそと何かをし始めたようだ。よく分からないが、僕に打開策が思いつかない以上、彼女を信じる他にないだろう。

 オキタが仲間に向けて口を開いていた。

「迚野、あなたも今聞いていたでしょう? 私を三人がかりで挟み撃ちにしておいて、惨めに敗走することになった雑魚達よ。それが今やたった二人、もうまるで問題ない、あなた達や私の腕なら怪我一つ負う機会はないわ。まあ、油断はしないに越したことはないけれどもね。」

「それぞれの聖具の特徴は?」と左端の男。

 オキタはこちらを見ないまま、

「見ての通りで、それ以上でも以下でもないわ、那賀島。長庖丁と鍋の蓋、庖丁の方は打ちあってないから知らないけれども、鍋女の方はまるで問題ない。私の聖具でも吹き飛ばせたから、迚野ならきっと突き破れるわよ。まあ、あなた、那賀島の聖具はどうなるか分からないけれども。」

「では、万事問題なし、か。なるべく被害を受けないように気をつけながら、」

「それはどうだろうかな!」

 出し抜けに叫んだ僕によって言葉を中断させられた、左端のナカジマが訝しげに口を開いた。

「何が言いたい?」

 僕は、その意図も知らぬままに、箱卸さんの指示に従おうと懸命になって、

「万事問題なし、というのは正しいだろうかね。今僕達二人は、自動販売機を後ろに背負っているんだぞ。」

 男は不快そうな顔をした。

「ああ、破壊禁止物品か。成る程、君たちを仕留めつつもそれを破壊すると、こちらまで失格になってしまう、と。」

 真ん中のトテノと呼ばれた男が、同行者らに向けて、

「ねえ、それって本当なのかな。いや、前に殺害時のポイント加算の判定について考えたけれども、破壊禁止のルールにも似た様な問題があるよ。例えば僕があの自動販売機を破壊したとして、誰がどうやってそれを知り、それを罰するのさ、カメラがあるわけでもなしに。」

 ナカジマは顔をこちらに向けたまま応じる。

「色々な可能性がある。例えば、破壊禁止物品には、それが破壊された瞬間に、近傍に存在する端末を探知し、記録あるいは報告する機能が仕込まれているのかもしれない。その場合、最悪、彼らが今すぐに自動販売機を破壊することで僕達までも巻き添えに失格になる可能性すらある。その、判定の範囲や手法によるけれどもね。

 また、実は全くの方便であり、僕達が物品を破壊しても誰も何も認知することが出来ない可能性、単なる脅しのルールである可能性も勿論ある。しかしこの可能性は全く確実でない。こんなものに命運を預けるわけには行かない。つまり、成る程、この状況は少々困ったね。」

 オキタが、嘲笑うかのような調子で、

「いいえ、那賀島。全く困らないわ。私の腕なら、聖具を振るうことで、自動販売機に必死にしがみついている蜚蠊ですら掠め落とすことが出来る。……ああ。これは比喩ではないわよ。本当に、虫くらいの大きさなら可能だということ。あんな大きすぎる標的なら楽勝だわ。」

「そうは行かないぞ、〝クソ女〟!」

 オキタが僕を睨んだ。威圧と苛立ちが入り交じった視線だ。

「口の利き方がなっていないわね。やっぱり蜚蠊呼ばわりしてやろうかしら。……ああ、いえ、蜚蠊に失礼ね。レディに失礼な口を利かないという弁えくらい、昆虫でも持っているもの。」

「レディに対してなら僕もそうするよ、しかし、〝クソ女〟相手ではね。」

 オキタの顰みが厳しくなった。口許も不愉快げに歪み始める。

「下らない皮肉ごっこはもう結構よ。それで、アンタは何を言いたいの?」

「お前の仲間が今言っていたじゃないか。自動販売機をわざと破壊されたら巻き添えを喰うかもしれない、と。お前がそういう器用な攻撃をするつもりであれば、お前が身じろいだ瞬間、僕達は自動販売機を破壊する。」

 オキタは鼻で笑った。

「アンタは馬鹿なの? これだけの距離があるのよ? そして、知っているでしょう? 私の聖具には凄まじい射程があるのよ? 破壊禁止ルールがある以上、いくら何でも一切の工夫が為されていないとは思えないから、もしも那賀島の言うような機能が備えられているにしても、自動販売機からそれぞれの端末への距離くらいは認識出来る筈よ。つまり、もしかしたら私達も〝容疑者〟として一時的に吊るされるかもしれないけれども、でも調べれば、あなた達二人が勝手に自動販売機を破壊したということはすぐに分かる筈だわ。ならば当然私達はお咎め無しとなり、寧ろ、その調査の間一時退場出来るのであればこの上ない。その間に残っている連中が殺し合ってくれるかもしれないのだから。つまり、……良く聞きなさい、間抜け共、あなた達がそういう自殺行為を働いても、私達には益しかもたらさない。無駄よ、無駄無駄。」

 僕は出来る限りの自信を装って、

「いや、間抜けは君さ。」

「あら、どうして?」

「もしも君が本当にそう思っているのであれば、何故わざわざ説明するのだろうね。」

 歪むオキタの顔に向かって、僕は、

「君が言葉通りの期待をしているのであれば、君は黙って僕達に自動販売機を破壊させればいいんだ。しかし、どうも実際にはそうさせたくないようだ。つまり、君は怖れている、自分の推論が誤っていることを、ひいては、本当に、僕達の巻き添えで失格になってしまうことをだ。」

 オキタは、数秒の間忌ま忌ましげな顔のままだったが、しかし、結局好戦的な笑顔を浮かべて、

「確かにアンタの言う通りよ。出来たらさっさとそこを退いてもらいたい。しかしね、アンタ達蜚蠊には残念なお知らせとして、私の腕前、つまり、巾着捌きの話は本当よ。アンタ達も見たでしょう、あの――ミスズって言うのかしら?――ハンドミキサー女の頭がかち割れる直前、アンタはあの攻撃を読めた?」

 思わず顰める僕に、オキタはそのまま、

「つまり、アンタ達を巾着で横薙いでそこから引っぺがすことは十分可能なのよ。アンタのそのしょーもない虚勢は、何にも意味を為さないということ。……ああ、口にしてみると本当にしょうもないわね、恥ずかしくないの? それとも、蜚蠊にはそういう感覚、というか、品性がないの?」

 僕ははっとした。オキタの、些か鋭くも結局中身の無い罵詈には興味がなかったが、もっともっと重要な声がもっと近くから聞こえてきたからだ。

(おっけい。圭人君、飛び込もう。)

 そう言いながら彼女は、僕の背中に冷たいものを押し付けてきた。僕はそれを握り取って納得する。……そうか、成る程。

 僕は右手一本で鮪庖丁を構えつつ、そして叫びつつ、三人組の方へ飛び込んだ。

「――!」

 油断していた三人組は、それぞれの聖具を急いで構え始める。ナカジマはすぐに手の中に何かを握り込み、トテノは、これ見よがしに両手でぶら下げていた箒と塵取りを持ち上げ、それぞれの臨戦態勢をでっち上げた。

 しかし、オキタはまごついている。上着の中に巾着を隠したままだったようで、まるで定期を無くして改札を詰まらせて焦っているドジのように、そこらに手を突っ込みながらふためいていた。流石にあんな大きな代物が見つからないというわけはないだろうが、妙な形で引っかかって取り出せないらしい。僕はそんなオキタに向かって飛び込んでいく。

「ちょっと! 沖田さん、」

 窘めながら出てくるのは、中央の男、トテノだ。僕とオキタの間にさしはさまり、聖具を構えて威嚇してくる。そこで僕は、左手に潜めていた、箱卸さんから受け取ったそれを前に持ってきて、右手の聖具を取り落とさないように気をつけながら、蓋を捻り開けた。

 刹那、そのペットボトルから、泉のような勢いで中身の炭酸飲料が噴き出していく。狙い通り、トテノの顔面を打ち据えた。

「な、ば、」

 顔面に甘ったるいジュースをぶちまけられたトテノは、堪らず、左手でそれを拭いつつ、右手の箒を無茶苦茶に振るってくる。しかし流石に、そんな滅法な攻撃にやられるような身ではない。落ち着いて、自分の庖丁でそれを受け止めた。

 ……!

 冷やっとした。庖丁がへし折られはしなかったものの、しかしインパクトの瞬間、凄まじい威力が襲いかかってきたのだ。結果僕の庖丁は思いきり弾き飛ばされ、後ろの方の地面へ向かされた。危ないところだ、少しでも手に込める力が弱かったら、そのまま庖丁を手放してしまっていただろう。こんなに強烈な聖具の攻撃を受けるのは初めてだった。しかし僕達はそのまま駈け抜け、動けないトテノの攻撃範囲から逃れる。

 そしてオキタは、僕が庖丁を振り上げなおすと、いかにも戦いた顔で、糸が切れた吊り人形の如く腰を抜かしたように横へ座り込み、道を譲った。よし、これで、脱出の障碍として残るは後一人。

 二人を突破して振り返る僕から見るに、そのナカジマは、明らかに手中の聖具の一撃をこちらへ見舞おうとしていたが、しかし、僕の後ろについてきている箱卸さんが盾を掲げるのを見て躊躇っているようでもあった。先程オキタが、ナカジマの聖具があまり頑丈でないことを漏らしていたので、そういう懸念かもしれない。

 そんなナカジマに、箱卸さんは容赦しなかった。彼女も握り込んでいた――おそらくは同じくよく振ってある――ペットボトルの蓋を器用に捻り、ナカジマへ水撃を見舞う。ナカジマがのけ反って避けようとしたのと、僕達が既に奴を置き去りにしつつあった関係で、その攻撃は代わりにトテノへ命中し、

「がは、」

 再び呻くトテノを気にして注意が散漫となったナカジマへ、彼女は、オマケだとばかりに半ば空となったペットボトルを投げつけた。丁度それがナカジマの目の辺りに的中し、奴まで悶え始める。

 そんな気の毒の光景を見返しながら、僕は最早目の前に来ていた扉を開き、そして、箱卸さんと一緒に部屋を脱出した。


84 欠番


85 那賀島組、迚野良人

「ばは、うは、……えっほ、」

 鼻の穴やら目やら、顔面のそこら中から甘ったるい液体を注入された僕は、まるで宇宙人が地球の空気によって溺れているかのごとく、間抜けに喚き続けていた。鼻の中が痛くて仕方ない。

「大丈夫? 迚野、ねえ、……そうだ、水場からタオルでも搔っ払ってくるわね。」

 僕は右手を伸ばして制しつつ、何とか言葉を捻り出した。どうしてもところどころで鼻がずーずーと鳴る。

「どうせ甘い臭いを消さないといけないから、後で水場には行くよ。心配しないで。」

「そう。いいなら、いいけれども。」

 粗方顔面の水分を払いきった僕が目を開けると、そこには、見たことのない様子の沖田さんが佇んでいた。出逢って早々から様々な表情を見せてきた彼女が、未だ僕に見せたことのなかった表情、慙愧、あるいは恥じ入りを表明する困惑の相だ。

「御免なさい、私が情けないせいで。何と謝ったらいいか。」

 普段の、隙あらば僕を揶揄う彼女から想像もつかない、その、蒼白の相好に、僕の方まで困惑させられたので、僕は、結局皆無事だったのだから、と、容赦の言葉を急いで頭で紡いだが、しかし、器用に気管へ侵入していたジュースのもたらす咳き込みによって、その言葉を実体化させることは出来なかった。

 その隙に那賀島君は――物理的要因で右目が血走ったことで余分な迫力を得た――厳しい顔つきで、

「沖田、君の聖具はただでさえ構えるのに時間がかかるんだ。予備動作としての回転を経てからでないと攻撃出来ないのだからね。ならばせめて、すぐに聖具を取り出せるようにしておいてもらわないと困る。今は向こうに攻めっ気がなかったお蔭で助かったが、しかし、次の機会もそうなるとは限らない。」

 噎せることで勝手に上下する僕の視界の中で、沖田さんはますます暗い顔となってしまった。

「本当に御免なさい。今まではあんな、上着に巾着の端が引っかかるだなんてこと一度もなかったから。でも、もう二度とあんな醜態は晒さないわ。そう、どうせ終盤なのだし、これからは手の内を隠したりせず、巾着を常に外へ出しておこうと思うの。」

 那賀島君が頷く。

「それが賢明だろう。隠す意味よりも、今のような事故を回避することの方が重要だと僕も思う。」

 その後彼は気持ちを切り替えたらしく、最早尋常な表情で、

「しかし面白い戦い方をするものだ。成る程、自動販売機で武器を買おうだなんて発想がなかったよ。」

 返す沖田さんも、少し元気を取り戻していた。

「ああ、なんで私はあんなに長話をしてしまったのかしら。その発想と準備を行う時間をアイツらに与えてしまった、これもこれで失態ね。

 そして、完全に連中を見縊っていたわ。まさかあんなに切れる頭と果断さを持ち合わせている奴らだったなんて。ああ、ほんと、反省することばかりね。……ねえ、迚野、本当に大丈夫?」

 未だ噎せ続けている僕は、頷いて意志を表明した。

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